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 その後さらに数日、敵方の攻勢が激しくなってきたので、リリアーナ嬢の事は頭の片隅に追いやられた。

 忘れていたというよりも、思い出す暇すらなかったと言ってもいい。

 結論わかったのは、ドルフェスに書類仕事は向いていないという事だ。あの男に手伝わせるとむしろ仕事が倍増してしまう。お仕置きの意味があるので最後までやらせたが、普段からいかに副官におんぶ抱っこなのかが周囲に露呈してしまった。

 ドルフェスの副官は五十がらみの熟練の騎士なのだが、最近とみに白髪増えてきた理由はこれなのだろう。副官を増やすか、給料を増やすか、休暇を増やすか考えてやらないと。

「……ううう」

 ハロルドはいつもドルフェスがしている仕事を代わりにこなし、気分転換にもなったとすっきりした気分で天幕に戻ってきた。

 その当の本人は、顔を上げもせず肩を丸めてブツブツと独り言を言っている。

 書類仕事ばかりをさせていると、初日が終わる頃には早くも泣きが入った。もちろん無視して続けさせると、そのうち口から魂を垂れ流すような表情で独り言を言い始めたのだ。当然それも無視である。

 見かねた周囲が手を貸そうとしたが許さなかった。山になっている書類が片付くまでこの天幕から出すつもりはない。もともと体力は有り余るほどある男だし、若い御令嬢に鼻を伸ばす暇があるのだからいいだろう。

「第三補給部隊の……」

 ぶつぶつと呟きながらドルフェスが処理済みの箱に書類を入れる。ハロルドは背後からそれを覗き込み、軽く眉を上げてから未処理の箱に戻した。

 手厳しいその対応に最初の頃は苦情もあったが、今は涙目になるだけだ。

 女の手管に嵌るという間抜けな様をさらしておいて、罷免されないだけありがたく思って欲しい。

 数日が経過して、ハーデス領に出かけていた分の政務があらかた片付いたころには、ドルフェスの顔はげっそりとやつれていた。赤い無精ひげが土気色をした顔の下半分を覆い、くっきり刻まれた目の下の隈がぴくぴくと痙攣している。

「……大変申し訳ございませんでした」

 ハロルドが最後に残った一枚に目を通し、渋々と頷いて見せると、ドルフェスは普段の彼からは想像もできないほど細い震える声で言った。

「もう勘弁してください」

「……ふん」

 分厚い肩を丸め情けない表情で立っている腹心を見上げ、鼻を鳴らした。

 これがネメシスであれば、もっと徹底的に心を折っているだろう。しかし、嗜虐趣味などないハロルドにはこのあたりが限界だ。

 処理済みの箱に書類を投げ入れて、背もたれのある椅子に身体を預ける。

 久々に合わせた視線の先で、ドルフェスの目にはうっすら涙の幕が張っていた。男に泣かれても顔を顰めたくなるだけなので、気づかなかった振りをする。

「失礼いたします。魔法師団長どのがお見えです!」

 職務に戻れと赦しの言葉を言う前に、不意の来訪者のほうに意識を取られた。

「リアンドル老師が?」

 この国の魔法師団長は、ハロルドが物心ついたころには国一番の魔法士だと呼び名も高く、帝国が内乱で荒れていた頃は大学で教鞭をとっていた。即位したハロルドが無理を言って招聘し、今の地位についてもらっている。

 魔法師団はそのほかの師団とは大きく意味合いが違い、軍隊というよりも研究機関である。戦うためにあるのではなく、民の暮らしの利便性を向上させ、その生活を守るために存在する。

 もちろん有事には回復魔法要員として行軍を共にすることはあるが、そもそも軍隊という形状を取ってはいないのだ。

 そんな魔法師団の師団長が、前線であるこんなところに何の用だろう。

 入室を許し、立ち上がって迎え入れたのは、ひょろりと痩せた白髪の老人だ。ハロルドが初めて言葉を交わした二十年以上前からほとんど容姿が変わっておらず、相当な高齢であるだろうに背筋がピンと伸びている。

「陛下」

 魔法士のローブできっちりと身体を覆い隠した老人が、指を魔法士特有の組み合わせ方で重ね、丁寧な礼をする。

 ハロルドは数日前にピアヌ中将が座っていた椅子を勧め、茶を入れるよう目で侍従に命じた。

「珍しいな。老師がこのような所に出向くとは」

「早々にお耳に入れておきたいことがございまして」

 ハロルドは少し髭の伸びた顎に手を当て、それが良い知らせか悪い知らせか事前に読み取ろうとした。しかし、豊かな髭を蓄えた老師は普段通り表情が読み難い。

「召喚陣についての報告書を拝見しました。それを見ていてもしかしてと」

「ほう。憲兵師団の者にも話を聞かせておくべきか?」

「おそらくは時間との勝負になりますので」

「わかった。ピアヌ中将を呼んできてくれ」

 ハロルドは、しょんぼりとした表情でその場に立ち尽くしているドルフェスを見上げて言った。。

 普通であれば、近衛師団長である彼がするような仕事ではない。しかし、ハロルドの命令を受けてひゅっと背筋が伸び、土気色をしていた顔が見る見るうちに生気を取り戻していく。

「わ、わかりました!!」

 師団長どころか、近衛騎士としてもどうかと思う動きで立礼して、転がるように天幕を走り出て行く。……命じられたのが書類仕事ではないことがそんなに嬉しいのか。

「……近衛師団長どのは体調でもお悪いのですか?」

 あの酷い顔色を見れば、誰もがそう思うだろう。

「いや。たまっていた書類仕事を片付けさせただけだ」

 たまっていたのはハロルドの仕事なのだが、その事については触れない。

 老師が納得したように頷いたところを見ると、ドルフェスが書類仕事を部下に丸投げしていることは有名だったのかもしれない。

 出された紅茶を半分ほど飲んだところで、天幕の外からピアヌが名乗る声が聞こえた。

 入室を許すと、ものすごく悪い表情をしているピアヌと、その後ろから、先ほどよりもっと顔色を悪くしたドルフェスが天幕をくぐって入ってきた。

「……」

 何があったと、聞いた方がいいのだろうか。

 ハロルドが問うようにピアヌを見ると、栗毛の憲兵副師団長はニヤリと非常にお近づきになりたくない表情で笑った。

「リリアーナ嬢にまとわりつかれてお困りのようでしたので、回収してきました」

 もはや立って歩く死者のようにしかみえないドルフェスが、公の孫の名前を聞いて眩暈を堪えるように歩哨に立つ部下の腕をつかんだ。

「……まだいるのか?」

 存在そのものを頭の隅に押しやっていた女の名前に、顔を顰める。

「かなり居心地は悪そうですがね」

 ふっふと笑うピアヌは、軍服を着ていなければ憲兵どころか貴族にすら見えない。

「陛下の御愛妾であり、叔母にもあたる御方を差し置いて、無理やりその地位を奪おうと目論んでいると噂が出回ってしまって」

「噂ではなく事実だな」

 がちゃり、と遠くない場所で陶磁器がこすれる音がした。

 天幕内の、少なくとも老師以外の面々は即座にそれに気づいたようだが、誰もそれについて指摘しなかった。

 まさか外にいるのは当の本人ではあるまい。しかし気配は軍人ではない素人の、おそらくは女性のものだ。

 訝しく思いながらピアヌを見ると、引くほどいい表情をしていた。

「陛下は迷惑しているのに、強引に迫ってくるという噂ですが、本当ですか?」

「前線の本陣まで来られるのは至極迷惑だ」

「無下になさるとはもったいない。後宮にあげずとも、一晩の寵をお与えになるのもよろしいのでは」

「いらん」

 段々と話の内容が不愉快な方向に向かっていきそうだったので、もうやめるようにと視線で指示してみたが、天幕の外にいる女性に今の会話を聞かせたかったのだろう。栗毛の下で、目つきの悪いその双眸がきらりと光る。

「あんなにもお美しい方ですのに」

「好みではない」

 ぶはっとどこかで誰かが噴き出す声が聞こえた。

 本体この天幕は、中での会話が外に漏れないようになっているはずなのだが、よく見ると入り口の幕が少し開いたままで、隙間から外にいる歩哨の背中が見えた。

「いつも大変ですねぇ。嫌いなタイプの女性にまで追いかけまわされて」

 ハロルドはため息をついた。

 この会話を誰に聞かせているにせよ、内容は即座に本人の元に届くだろう。しかしそれで引くような殊勝な性格であるならば、叔母を追い落とすようなことは考えない。むしろ意固地にしてしまうのではないか?

「リアンドル老師の前でする話ではないだろう」

「大変失礼いたしました」

 ピアヌはその縦にひょろ長い身体を丁寧に折り曲げて、年長者に礼を取った。

 慇懃無礼にしか見えないが、老師は不快を面に表すことなく、むしろやんちゃな子供でも見る目で目元を綻ばせた。

「外部に話を漏らすべき話ではないので、遮音の魔法を展開します。よろしいですかな」

「少々お待ちを、レジストする魔道具を停止させます」

 ピアヌは天幕の入り口の方へと向かい、少し開いた垂れ幕を直した。お遊びは終わりという事だろう。

 老師が掌で隠せるほどのサイズの魔道具を目の高さに掲げ、魔法を展開させている間に、ハロルドは誰にも気づかれない程度に嘆息した。

 ピアヌに任せたのだから、口をはさむべきではないのはわかっている。

 視線が合って、「まだまだですよ」とでも言いたげにその眦が細まるのを見て、さり気なく目を逸らせた。

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