皇帝、火の粉を振り払う
1
使い込んだ鎧からは、鉄さびの臭いがする。
どんなに手入れを欠かさなくとも、使いこんだものであればあるほど、しみ込んだ血の臭いは消えない。
雨の少ないこの地方では、それに人間の汗と脂質の臭いがこびりつく。お世辞にも良い臭いだとは言えないが、ハロルドにとっては身に馴染んだものだ。
ピリ、と指先に鋭い痛みが走った。握りつぶした紙が、指先を切ったのだ。
「……どういうことだ?」
目前の、寸鉄も帯びていない男が微動だにせずハロルドを見上げた。
一見は文官にも見えるこの男が、見た目を裏切るやり手だという事は知っている。この十年間何度も助けられたし、その能力を疑ったことはない。
しかしかなりの頻度で、その考えには相いれないものを感じてきた。この男の取る手段は、多くの場合ハロルドとは真逆のものなのだ。
度々意見は相違し、時に不快感や怒りを覚える事すらあった。
しかし、それだからこそ彼を傍に置いた。
だからこそ、その意見を重用してきた。
「リオン・ネメシス」
まだ二十代の学生か研究者のように見え、実際は自分よりも年上の憲兵師団長は、唸り声と歯ぎしりの混じったハロルドの声にも動じず、小さくため息をついた。
「報告書の通りですよ、陛下」
普段であれば、冷静になって別角度から物事を見ようとしただろう。
しかし彼女の事だけは駄目だ。ネメシスであれ教皇であれ、誰かの掌の上で踊る人形になど、絶対にさせはしない。
「中央神殿が、我が帝国と敵対すると?」
「正確には、メルシェイラさまを取り込もうとして失敗し、まだあきらめ悪く追っているようですね」
がたり、と椅子を押し倒す勢いで立ち上がった。しれっとした表情でいるネメシスの胸倉をつかもうとして、己よりもあまりにも細身の、頼りない体躯に伸びかけていた手が止まる。
そんなハロルドを、いつも微笑んでいる男が静かな眼差しで見つめ返した。
笑っているように見えるのに、常にもましてぽっかりと空洞があいたような目だ。
「うちの腕利きが何人か殉職しました」
「……彼女は」
「ご無事のようです。ただ」
非力で人の良い文官のようにしか見えないネメシスが、眦を垂れさせて困ったような表情を浮かべた。
しかし騙されてはいけない。彼の本音はきっと、ろくでもないに違いないのだ。
「これぐらいは乗り切って頂かないと」
まったく悪意などなさげに囁く台詞に、またも怒りが込み上げてきた。いちいちこんなことで感情を吐露してはいけないと、深く息を吸って気持ちを落ち着けようとするが、いつもであれば簡単にできる事なのに上手くいかない。
人を使う立場の人間として育ったわけではないメルシェイラは、殉職者たちのことを気に病むだろう。あの黒曜石のような瞳を涙でぬらしているのではないか。胸が引き裂かれるような思いをしているのではないか。
いますぐ傍に駆け付けて、大丈夫だといってやりたかった。彼女の苦しみに寄り添い、その苦しみをもたらした輩をすべてこの手で葬り去ってやりたかった。
思わず顔を顰めたくなるネメシスの台詞に物申そうとして、笑う彼のその表情から目を逸らした。
冷酷だと言われているこの男が、身内に向ける情を知っている。
手塩にかけてきた部下たちを失って、諾々と引き下がるような男ではない。
ハロルドは握り潰してしまった報告書に視線を戻した。テーブルの上でグイとその皺を伸ばし、書かれている内容をもう一度確認する。
「……スカーという男についての調べはついたのか?」
「フリーランスの暗殺者ですね。界隈では有名な男ですよ。腕が良く、口も堅い。契約金があきれ果てるほどに高いのに、仕事はひっきりなしのようです。居場所を掴むのがまず難しく、後々口封じをしようとした雇い主に対する報復の苛烈さも良く知られています」
珍しく誰かを賛美するネメシスの台詞に、ハロルドは思いっきり顔を顰めた。
「どうしてそんな男がメルシェイラと」
「古い知り合いとのことですが、さかのぼってみても接点を見つけることはできませんでした」
「二十年前云々と言っていたが」
「まだ妾妃さまはお生まれになってもおられませんよ。言葉の綾か何かではないでしょうか? 考えられる可能性としては、乳幼児期ですかね」
「……孤児院か?」
「実際にあそこの出身の子どもがひとり、暗殺者ギルドにひきこまれていたようですし。においますね」
「あの男が神殿とかかわりあると? 暗殺者だぞ」
「さあ、そこまでは」
口元を手で覆い、ふふふ、と籠った含み笑いを零す。
一見穏やかそうに見えるのに、この男のこの笑い方には背筋が冷える。
「完全に敵対するのは悪手ですが、ひっかきまわすのは面白いかもしれませんね。たとえば……今ギャレスト王国でくすぶっている神の寵児を担ぎ出すとか?」
改めてまじまじとネメシスの顔を見下ろして、ためらいもなく中央神殿に対抗しようとしている彼になんともいえない頼もしさと危うさを感じた。
「……宗教関係に踏み込む気はない」
ガンガンガン!!
ハロルドが己の憲兵師団長に手綱を掛けようとしたところで、天幕の外からけたたましい大きな音が響き渡った。
敵が視認できるところにまで接近してきたという合図だ。
「妾妃さまがどっぷり引き込まれる前に手を打っておいた方がいいと思いますよ」
人払いをしていた天幕の外から、伺いを立てる近習の声がする。
素早く頭を切り替えて、入るように応えを返したハロルドは、先ほどからずっと寛いだ風に椅子に座ったままの男に視線を戻した。
「お前に任せれば悪い結果にならないということはわかっている」
素早く武具を整えていく近習たちに身を任せながら、そうは見えなくとも間違いなくこの場で屈指に物騒な男の目を見返した。
「神殿にやる気はない。あれは我が妻だ」
全権を任せることにものすごく不安がある。
しかし、ハロルドがすぐに動けない現状、誰よりも頼りになる人物であることは確かなのだ。
「駆け付けることが出来ない不甲斐ない夫に代わって、何としても守れ」
近習が両手で掲げた愛剣を受け取って、肌で感じる戦場の気配に大きく深呼吸する。
近習たちが膝を折り、傍付きの近衛や武官たちが指示を待つ中、おそらくは誰もが聞き耳を立てているであろうと理解しつつも、隠す必要はないと声を潜めはしなかった。
「メルシェイラは、いずれ国母となるであろう我が妻だ」
どこかで誰かが息を飲んだ。
いや、もしかすると同じ天幕内にいたほとんどの者たちであったかもしれない。
「あれを傷つける者は、何者であろうと赦さぬ」
しかし、ハロルドがまっすぐに見据える男は穏やかな風貌で椅子に腰を下ろしたままで、微塵も表情を変えはしなかった。
「……御意、確かに承りました」
大股に天幕を出る寸前、場違いにのんびりと間延びした穏やかな声が聞こえた気がした。
ハロルドは一瞬足をとめたものの、振り返りはしなかった。
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<ご報告>
小説家になろうさまにより、年齢制限についてのご注意を受けました。
わたし的にはR15相当の作品だと思っているのですが、噂通りかなり厳しい判定です。
もともとこういうこともあろうかと思い、修正しやすいようにはしていたのですが、いざその作業に入ろうとしたところで、迷いが出ました。
なろうさまは、一度レッドカードを出すと、R18のほうに移動しなければそれをとりさげることはそうそうにないようです。
悩みましたが、今後はなろうさまでの更新を止めようかと思っています。
万が一カクヨムさま及びアルファポリスさまからも同様の指摘がありましたら、ひょっとしたら作品自体の更新を断念するかもしれません。
R18相当だと表示してしまえばいいのですが、特になろうさまのほうにはボタンひとつで移動できるようなシステムはなく、膨大な話数を移動させる手間に気が遠くなります。
それだけではなく、R18の作品だと言えるとは自分では思っておりません。わたしがR18の作品を書けばもっとこう……お姉さまがたの鼻息が荒くなるような激しいコトになっておりますw
いろいろと思うところがあり、更新が滞ってしまい申し訳ございません。
昨今の事情もありまして、なかなか思う様に作品を書けずにいたのですが、気持ちも固まりましたのでまた更新を再開しようと思います。ご心配をお掛けしました。
沢山の励ましとPM、ありがとうございます。
全てに返信できない筆不精さを、どうかお許しください……
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