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 身分が高いというのは、楽なことよりも面倒なことのほうが圧倒的に多い。

 格式張った場所での席次や、会場へ入る順番など、ホスト側も気を遣うだろうが、ハロルドのほうもストレスに感じる。

 礼拝堂を出る順番は最も先なのに、会食場に入るのは最後。

 その間何をしているかというと、別室でご休憩下さいと言われるわけだが、望まない来客が押し寄せてくるのは確実で、いつもは護衛に紛れたり、気ままに抜け出したりして回避するようにしている。

 しかしこの寒空の下、メルシェイラを連れまわすわけにはいかない。

 仕方がないので案内されるままに、会食の準備が進む巨大ホールの側にある控室に入った。

 控室とはいえ、貴賓用なので広く、設備も整っている。

 入るなり、メルシェイラのメイドたちが「おかえりなさいませ。皇帝陛下、御方さま。お疲れ様でございます」と、一糸乱れぬ台詞で迎え入れてくれた。

「お外は寒うございましたでしょう」

 生真面目そうなメイドが目元を綻ばせながら問うと、緊張で強張っていたメルシェイラの顔がようやく緩んだ。

「お茶をどうぞ」

 目元の泣き黒子が印象的な小柄なメイドが、にっこりと微笑みながら、席に座ったばかりだというのに待たせず、湯気の立ったカップを差し出してくる。

「素晴らしい祭事だったわ。貴女たちは見に行けたの?」

「はい、御方さま。礼拝堂の一部に、使用人用の場所が用意されておりまして」

「ああ、あの立見席かしら? 今の時期外気が吹き付けて寒かったでしょう? 昔結婚式に参列させられた時に……」

 メルシェイラが、失言をした、というふうにぴたりと口を閉ざした。

「夏は南北の風が抜けて涼しいのだけれど、今の時期はね」

 何事もなかったかのようににこやかに話を続けるが、この場にいる誰もが察しただろう。

 かつて彼女は、この寒い時期に使用人用の回廊に立たされ、おそらくはハーデス公爵家の誰かの結婚式に参加させられたのだ。

 公は何をやっていたのかと腹立たしく感じるが、おそらくは口を挟めばもっとひどい事になる可能性があったのだろう。

「誰の式を見たのだ?」

 ハロルドは、侍従が差し出す温かい湯水で手を洗いながら、さりげなく尋ねてみた。

「ブルーのドレスがとても素敵なお式でした」

 メルシェイラは何か幸せなものでも思い出したかのように、微笑んだ。

「通路の左右に飾られた青い花と、青で染められたレースのベールが素晴らしくて」

 青はハーデス公爵家の色だ。式でその使用を許されるのは当主あるいは継嗣の嫡出子のみだろうから、該当する者はそう多くはない。しかし、メルシェイラの異母兄妹たちは皆彼女よりかなり年上なので、その結婚式ともなればまだ幼子だったのではないか。

「そなたも式を挙げたいか?」

 腹立ちを誤魔化すように、前々から気になって居たことを尋ねる。

 乾いた布で手を拭いてもらいながら、メルシェイラは目をゆったりと細めてほほ笑んだ。

「まあ、ハロルドさま。わたくしはすでにもうあなた様の妻にございます」

 少し恥ずかしそうに目元を染めながら、『あなた様』などと呼ばれると、胸の奥がふわりと温かくなる。それが、ごく仲睦まじい夫婦の呼び方だと彼女は知っているのだろうか。

 ハロルドには複数の妻がいるが、彼を『あなた』と呼ぶのはメルシェイラだけだし、他の妃たちにそれを許すつもりはない。

「許されるのであれば、記念日にお花をくださいませ」

 メルシェイラは、何かを思いついたように目をきらめかせ、ハロルドを見上げた。

「そうですわ。花束は特別な日にこそ」

「それは毎日届く花に飽いたということか?」

「……えっ、まさかそんな。違います」

 ハロルドは肘をついた手で口元を覆い、彼女が慌てて首を振っているのを眺めた。

 まるで稚い少女のようだ。

 油断するとその軟腕でハロルドを取り込もうとする後宮の妃たちと比べると、実に表情が読みやすく見ていて安心する。

「まあ確かに、花は多すぎては置くところに困るだろうしな」

「とんでもない!」

 少し目を逸らせて小声になってみると、メルシェイラは椅子から腰を浮かせた。

「わたくし、陛下のお花にどんなに心を慰められたか。いつもありがとうございます」

「だが花はいつか枯れる」

「枯れる前に次のお花を贈って頂けるので、悲しくはありませんわ。ですが……確かに、多すぎては困ってしまいます」

 ハロルドの視界には、ぎょっと目を見開くメイドたちや近衛騎士たちの表情が見てとれる。

 皇帝からの贈り物を断るなどありえないと、正気を疑う目つきだ。

「陛下から頂いたまだ美しいお花を、置く場所がないからと他所によけたくはありませんもの」

 何の衒いもなく正直に言ってくれるメルシェイラを、不快に思ったりはしないのに。

 むしろもっと、我儘をいって困らせてくれたらいいと思う程なのに。

「せめて三日にひとつ。いいえ、一週間にひとつで十分です」

 特に、普段は鉄壁の無表情を保ち、微動だにしない近衛騎士たちの困惑ぶりが笑える。

 有能な彼らがオロオロと百面相している様を内心面白く思いながら、ハロルドは「一週間にひとつか。少なすぎないか? 菓子か小物はどうだ?」と、国同士の貿易協定でも話し合っている風に首を傾げる。

「まったく、それでは何も贈れぬではないか。そなたは本当に無欲だな」

 あれもこれもいらぬと首を振る妻に、とうとうお手上げとばかりに笑ってしまった。

 メルシェイラもまた悪戯っぽくくすくすと笑っていたのだが、まっすぐに目が合うや否や、逃れるように視線をテーブルに落として。

「……わたくしは誰よりも強欲なのです」

 不意に、ぽつりと小さな声が落とされた。

 ハロルドは立ち上がり、メルシェイラが浅く腰を下ろしているソファーの隣に移動した。

 そっと抱え込むと、腕が余るほどに華奢だ。俯く彼女の顎に指を当て、こちらを向かせると、彼が愛してやまない漆黒の瞳が何故か泣き出しそうに潤んでしまっている。

「欲しいものでもあるのか?」

 彼女が望むなら、何でも贈ろう。宝石でも、黄金でも……邪魔な小国がひとつあるので、そこを欲しいというなら攻め落としても来よう。

 耳元で囁く甘い睦言に、メルシェイラは首を振る。

 では何が欲しい? 何を望む?

 言い渋る唇をそっと撫で、促すと、やわらかな唇から温かい吐息が零れ落ちた。

「……お言葉をください。心からの、飾らぬあなた様のお気持ちを」

 想像もしていなかった返答に、その咥内に悪戯をしかけそうだった指の動きが止まった。

「ハロルドさまがわたくしに微笑みかけてくださり、名前を呼んで下さることが、何よりもうれしいです」

 ああ、どうしてくれよう。

 ここが神殿でさえなければ、問答無用にベッドに連れ込んでやるものを。

 すぐにもあの神職がハロルドを呼びに来る時刻だ。

 会食は避けては通れず、おそらく数時間にわたって退屈な時間を過ごさなければならないのに。

「……部屋に戻るか」

 ぽつりとつぶやいた台詞は、全員から無視された。

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