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 祭事の主催者であるハーデス公とその継嗣が、古来から伝わる作法で祭壇に祈りの口上を述べる。

 膝をつくふたりの頭上で、教皇が聖杯に満たされた水を掲げ、二人の額に指で聖刻を刻めばあらかたの行事は終わる。

 古来伝統の慰霊祭とはいえ、本質的には祖先を祭るものである。ただの参列者であるハロルドは無言で礼を尽くすだけでよく、メルシェイラを隣の椅子に座らせ神妙な顔で祭事が滞りなく終わるのを待った。

 とにかく今の時期は寒い。特に、暖房設備もない神殿内部は息すら凍りつきそうで、身体が丈夫ではない妻がまた熱でも出しはしないかと心配だった。

 祭事が終われば抱き上げて、マントの内側に入れても怒らないだろうか。

 衆目の中、お仕置きなどという台詞で揶揄われたと思った彼女は、無断で抱き上げ運んだことも含めてすっかりへそを曲げてしまっているのだ。

 メルシェイラの小さな唇はむっつりと引き結ばれ、まだ腹立ちが収まってはいないと告げている。

 なんとかしてその怒りを収めてもらおうと、祭事の間中ハロルドが考えている事と言えば妻への御機嫌取りの方法だった。

 この後、市井の者たちはお祭り騒ぎになるが、貴族たちもまた一か所に集められ、豪勢な食事や酒が振るまわれる。

 本来であればタロス城での会食が予定されていたのだが、黒竜の襲撃で半壊状態なので急遽教会内部に特別に場所を設けられた。

 ここでもハロルドはもっとも上座だろう。万が一にもないとは思うが、またメルシェイラを蔑ろにするような様子が見てとれれば、公には悪いがすぐにも席を立って部屋へ戻ろうと思う。

 滞りなく慰霊祭が終了し、無言で祈りを捧げていた貴族たちが顔を上げた。

 まだ誰一人として席を立たないのは、ハロルドがそこに居るからだ。

 十年前までは彼に頭を下げる者などほとんどいなかった。しかし、十年間にわたり帝国を支配し、時に武力を、時に政策を駆使して国を守り栄えさせてきたハロルドを、今となっては誰一人として無視できるものはいない。

 そんな彼が真顔で考えているのが、若い妻の機嫌の治し方なのだから……我ながらおかしなものだ。

 衆目の中、ハロルドは無言で立ち上がった。

 余には目もくれず、真っ黒な目でこちらを見上げているメルシェイラに手を差し出す。

 本当であれば問答無用に抱き上げたかったのだが、また怒られそうなのでやめておいたのだ。

 差し出した掌の上に、妻の小さな手がおずおずと乗せられる。

 どうやら少しは機嫌が直ったらしい。無意識のうちに、ハロルドの口角が上がった。

 その手をぎゅっと握り、少し力を込めて引くと、心許ないほどに軽い力で彼女の身体は椅子から浮いた。

 もっと食べさせ、肥えさせなければ。こんなにも容易く持ち上がるようでは、賊どもに簡単に攫われてしまいかねない。

 再び案内に立ったのは、見覚えのない若い有能そうな神職だった。

 柔らかな笑顔でハロルドを見上げて、丁寧に礼をとる。

「先ほどは上役の司祭が手違いに気づきませず、大変申し訳ない事を致しました」

 神職とはいえ若い男。しかもなかなかに面立ちの整った好青年だったので、ハロルドは本能的にメルシェイラへの視線を遮る位置に立った。

「会食場へご案内いたします。こちらへどうぞ」

 遠くハーデス公爵家の領地であっても強力に作用するその権力に、あるものを畏怖の、あるものは羨望の眼差しを向ける。露骨にすり寄ろうとするものが多すぎて、食傷気味ですらあった。

 だから、たとえ神職とはいえ油断はしない。

 メルシェイラが傍にいるならなおの事、用心に越したことはない。

 そんなハロルドの心情に気づいているのか、その若い神職は更に笑みを深めた。先に立って案内しながら、左右の身廊に挟まれた中央の通路を進む。

 左右に分かれていた貴族たちが立ち上がり、退出するハロルドに礼を取る。祭事に相応しい色合いの服装をした貴族たちが粛々と頭を下げる様は、ハロルドには見慣れたものでも、おそらくはメルシェイラにとっては初めての体験だろう。ものすごく緊張してしまっていて、転んでしまうのではと気が気ではない。

 やはり抱き上げて……と逡巡していると、それを察知したのか黒い瞳が咎めるようにこちらを見上げた。

 ハロルドは、また機嫌を損ねてはなるまいと励ますように微笑み、そっと支える手に力を込めた。

 やがて通路を歩ききり、体格の良い神職が二人待つ両開きの扉に近づく。

 神殿の正入り口にあたるその扉は、複雑なレリーフが施された重厚感のある木製で、分厚さも大きさも相当なものだ。とても二人では動かせそうにないサイズなのだが、どんな魔法か、さして力を込めた風もないのに静かに扉は開かれた。

 丁度朝日が差し込む位置に設置された扉は、眩いばかりの陽光を一気に礼拝堂の奥深くにまで届けた。

 メルシェイラがはっと息を飲み、無意識なのだろう、手で胸の前に聖刻を刻む。

 その計算され尽くした間取りと言い、時間的なタイミングといい、あからさまな演出だと冷めた目を向けてしまうが、信心深い妻には深い感動をもたらしたらしい。

 眩し気に目を細め立ち尽くしてしまった腰に、手を触れた。

 再びこちらを見上げた黒い双眸が、濡れたように潤んでいた。

 ハロルドはそっとその頭頂部に口づけを落とす。

「腹が減らぬか? 妃よ」

 状況に全くそぐわぬ質問に、メルシェイラの黒いまつげがパシパシと上下した。

「昨夜もあまり食べておらぬだろう? 会食といえば肉料理が多いものだが、ここは神殿なので潔斎料理らしいぞ」

 メルシェイラもまた、油分や脂質の多い食事を好まないのはわかっている。

「どれ、また果物でも食べさせてやろうか?」

 人を惹きつけるシステムに溢れた神殿などに興味はない。

 神がいようがいまいが、人間の営みに大きな変わりはなく、そんなものにいちいち頼っていては国を導いてはいけないからだ。

 信心深いメルシェイラの前で口にはしないが、彼女が神に祈りをささげることすら面白くはなかった。

 もちろん、場にそぐわないそんな感情は微塵も面には出していない。

 要するに妻の気を引きたくて、わざと甘く低い声を作って耳元で囁くと、純真なメルシェイラはすぐに頬を赤らめ、そわそわと目線を彷徨わせた。

 上手くいったとほくそえみながら、もう一度背中を押すと、彼女は朝日に見惚れることなく歩き始めてくれた。

 立ち止まって待っていた若い神職が、微笑ましいものを見る目でメルシェイラを見ている。

 ハロルドは、寒風から遮るためだと自身に口実を許して、小柄なメルシェイラをマントでくるんで隠した。

「外は寒いな」

「はい、ハロルドさま。ですが気持ちの良い朝です」

 礼拝をする本殿から出ると、周囲は巨木が均一的に植えられた独特な斜面がしばらく続き、更にその向こうには、先日までは美しいかったであろう城が無残な姿をさらしているのが見えた。

 特に背の高い塔の部分が大破し、上の方の階の半分ほどの屋根が吹き飛んでいる。

「……被害に遭われた方々も、この清々しい光に心穏やかであって下さればいいのですが」

 幸いにも城下街に被害はなかった。

 表立っての被害は城だけで、あとは多数の重軽傷者がいるだけだ。あんな凶暴な竜に襲撃されたにしては、こちら側の死者がゼロというのは奇跡に近い。

 黒竜を倒すのにもう少しでも手間取っていれば、被害はもっと甚大なものになっていただろう。

「そなたが無事であってくれてよかった」

 あのひと際ひどく破壊されている場所に彼女が居たのだと思うと、今更ながらに肝が冷える。

 ハロルドの心からの一言に、メルシェイラがこちらを見上げ、微笑んだ。

 しかしその笑みは、ひどく悲し気なものだった。

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