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 まだ夜明け前の黎明の中、二人そろって部屋を出た。

 当然のように抱き上げて運ぼうとしたハロルドに、猛然と抗議したメルシェイラは実に可愛らしかった。

 奪われはしないかと心配で、だからこその無意識の行動だったのだが、どうやら怒らせてしまったらしい。

 懸命に立腹していることを主張する妻の姿に、こんなものを外に出してしまって大丈夫だろうかとまた不安がこみ上げてくる。

 仕方がないので、彼女自身の足で立たせることには同意して、しっかりと腰を抱いて身体を密着させた。こうすれば、メルシェイラは腕の中。まさか皇帝の懐深くに手出ししようとする者はいないだろう。

 慰霊祭が執り行われるのは、ハーデス公爵領で最大級の規模を誇る大神殿だ。ハーデス公爵領で最も大きいという事は、他国を含め、他に類を見ない規模だということだ。

 メインである本殿をはじめ複数の建物で構成され、それらがいくつかの回廊でつながる複雑な形状をしている。

 建物自体が華美であるとか、豪華であるとかいうのではないが、この国では見かけない様式の建築が人々の目を引く。

 特に目を奪われるのが、神殿の敷地内にだけ生えている巨大な木々だろう。このあたりにはない種類の木で、とてもこの地方の環境に順応できるようには見えないのに、青々と葉を茂らせ空高くにまで幹を広げている。

 大人の男が三、四人腕を回してようやく届く太さの立派な大樹だ。それが複数、何百本と生えているのだから、遠目にはまるで命の森がそこにあるかのように映る。

 見ているだけでもため息が出るような、世の人間が想像する『神の世界』の具現がそこにあった。

 大海原を隔てた向こうにある中央神殿の総本山はこれをさらに大規模にしたものだというから、熱心な使徒であれば死ぬまでに一度は見てみたいと思うのは理解できた。

 そんな大神殿が、タロス城とは目と鼻の先、盆地を挟んで反対側の山側にあった。あそこで祭事が執り行われるから、タロス城が夜会の場に選ばれたのだ。

 今では半壊状態で見る影もない城とは真逆に、うっすらと靄が立ち込める中、かがり火に浮かび上がる神殿の威容は、見る者を自然と無口にさせる荘厳さがある。

 慰霊祭が始まる時刻は太陽が昇るのと同時刻。

 まだ暗いうちから参列者は集まり、儀式の時間を待っている。

 そこにも席次という概念があるので、ハロルドが到着したのは一番最後かつ、用意されたのは最前列の貴賓席だった。

 祭事の主催者であるハーデス公やその継嗣よりも後の登場になる。

 馬車で門前まで乗り付ける前から、メルシェイラの身体は小刻みに震え緊張していた。白髪頭の神職に案内案内され、本殿に足を踏み入れるやいなや、膝が震えて動けなくなった。

 ものすごい数の視線が、一斉にこちらを向いたからだ。

 ハロルドにとっては慣れたものだったが、ただ祭事に参列するだけだと聞かされていた彼女は、これほど注目されるとは思ってもいなかったのだろう。

 サッハートで群衆に取り囲まれた時もそうだが、すぐには動くことが出来なくて、ハロルドが腰に回した腕に力を込めて初めてはっと息を飲み、呼吸すら止めていたのだと分かった。

やはり、エスコートするより抱きかかえたほうが良くはないか。

「妾妃さまはこちらのお席へ」

 ハロルドがすぐにも妻を抱き上げようかと思案していると、頭を下げていた神職がふたり、メルシェイラを別の場所に誘おうとした。

 普通夫婦は同じ席である。

 祭事中に役目のあるハーデス公ですらも、複数の奥方を背後に控えさせている。

 ハロルドは不快に思いながら、その神職の顔をジロリと見下ろした。

「あっ、いえ、妾妃さまは親族席の方へという指示がございまして」

「誰から?」

 特に怒気を露わにしたわけではないが、中堅どころの神職らしき男は額に脂汗を浮かせた。

「我々は席次表をもとに参拝されるかたを案内するよう申し使っておりまして」

「……ほう」

「陛下のお席はあちらにございますが、妾妃さまのものは」

「どうかなさいましたか?」

 思わず顔を顰めたくなるような、上品で軽やかな女性の声がした。顔を顰めたくなるというのは、それがハロルドには不愉快に響くという事だ。

 振り返ると、艶やかな黄金色の髪に、はちみつのような色合いの瞳をした若い女性がそこにいた。

 ゴテゴテと着飾っているわけではないが、文句なしに最高級の美女だった。

 胸も尻も、出る所はしっかり主張しているのに、ウエストがものすごく細い。一般的な男性であれば無意識に見つめてしまうであろう美貌の持ち主で、しかもこちらを見上げる瞳は極めて理知的で優し気だ。

 確かに、桁外れの美人だった。

 しかしハロルドは遠慮なく不快感を露わにし、若く美しいお嬢さんだからこそ、やさしくも親し気な表情も作らなかった。

 こういうパターンは飽きるほどに経験してきた。

 もう後宮に妃を増やすつもりはないので、誰の目にも興味など微塵もないそぶりをしなければ。

 可哀そうだとは思わない。

 そもそも、ここで彼女が声を掛けてきたこと自体、ハロルドの側に上がろうという目論見があるからに違いないのだ。……決して自意識過剰などではない。

「……まあ、叔母上。臥せっているとお聞きしましたが」

 メルシェイラを叔母と呼ぶのだから、ハーデス公の孫のひとりか。

 女性の噂は耳に入れないようにしているが、それでも漏れ聞こえる美姫の存在は知っていた。おそらくは彼女こそが、ハーデス公爵家至玉の姫君なのだろう。

「お一人で歩けないほどひどいのでしたら、お休みなって? 別室を用意させましょう」

「その必要はない」

 一見、いかにも気づかわし気な態度に見える。

 叔母を気にかけ、心配そうにまなじりを下げた表情は、周囲の男性陣の視線を総なめにしている。

 意図的なのか、無意識なのか知らないが、相手が男であれば見惚れさせ、女であっても好意を抱くように仕向けるのがとてもうまい。己を誰よりも魅力的に見せることに長けているのだ。

「……寒くはないか? 妃よ」

 だが、ハロルドには逆効果だ。

 真に心根が優れていようがいまいが関係なく、こういうタイプの女性こそがもっとも苦手なのだ。

「震えているではないか。やはり抱いて運んではいけないか?」

 この女のようなタイプはプライドが異常に高く、無視されるのを最も厭う。

 案の定、彼女には目もくれず、懐の中の妻に口づけを落とすやいないや、視界の片隅でその花の顔が引きつるのがわかった。

「せ、席がないのでしたら、わたくしは」

「席などいらぬではないか」

 おそらくは姪と夫との攻防にも気づいていないメルシェイラが、針のような視線から逃れたいが一心なのだろう、余計なことを言いかける。その台詞を途中で遮って、かぶせ気味にわざと作った低音で囁くと、彼女の青ざめていた頬に一気に赤みが差した。

「我が膝の上が空いている」

「え、いえまさかそんな。大切な祭事ですのに」

 もちろん、生真面目なメルシェイラが祭事中にそんなことを受け入れるとは思わなかったが、ハロルドは追撃の手を緩めはしなかった。

「いつもの事ではないか。睦ましい夫婦の有様を、祖霊も神も微笑ましく見守って下さるだろう」

 要するに、こちらに秋波を送ってくる女への牽制である。

「まあもっとも、席などすぐに追加で用意できる。もうひとつ椅子を運んで来ればよい」

 ハロルドがジロリと再び神職に目を向けると、この寒さの中額に汗を浮かべていた男は慌てて礼を取って走って行った。

 あとで公にはひとこと忠告しておくべきだろう。

 ハーデス公がメルシェイラの席をハロルドの隣に用意しないなどということは絶対にありえないし、祖父を名乗る教皇であればなおさら、彼女がわずかでも危険だったり悪意にさらされたりする場所に送り込みたいとは思わないはずだ。

 つまりこれは、小娘の愚かな策略なのだろう。

 ハロルドの目に留まる機会を設けたかったのか、メルシェイラへの悪意かは定かではないが、あまりにも小物感が強い小細工だ。

「……あ、あの」

「挨拶も出来ぬ不出来な孫に、公もがっかりしているだろう」

「あっ」

 金髪の小娘は一気に頬を青ざめさせ、その場に崩れ落ちた。見るからに憐れなその有様に、周囲の目が憐憫に染まるが、ハロルドから言わせてもらえば、それすら意図的だと思う。

「さあ、余計な邪魔が入ったが参ろう。歩けるか? まだ体調が万全ではないのだから、遠慮せずともよいのだぞ」

 とかなんとかいいつつ、ただ妻を抱き上げて運びたかったのだ。

 メルシェイラが返答する前に、ハロルドは華奢で小柄な妻を腕に抱き上げた。

 安定の縦抱き。親が幼子を抱く際の体勢だが、これが一番しっくりくる。

「陛下!」

「ハロルドと呼べと申しているではないか、妃よ。そんなつれない態度を取るなら、あとでお仕置きをせねばな?」

「おっ、お仕置き?!」

 ひっくり返ったメルシェイラの声が、やけに大きく響いた。

 自分でもそれに気づいたのだろう、パッと両手で口を覆い、真っ赤な顔をしてハロルドの首筋に顔をうずめる。

 そうだ、この位置だ。そここそが彼女の定位置だ。

 ハロルドは、温かい妻の身体を抱きしめながら、唇を柔らかくほころばせた。

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