6

 足腰には自身があったが、本職の軍人たちにかなうわけがない。

 メイラは大人しく人形のように抱きかかえられて運ばれた。

 その肩越しに、実家ともいえる修道院が燃えていくのを見つめる。

 石造りなので一気に延焼という事にはならないが、内側から激しく炎が上がっている様子が、遠ざかりつつある目にもはっきりと見てとれた。

 メイラのせいだ。

 わがままを言って、子供たちの無事を確かめたいなどと言わなければ、こんなことにはならなかった。

 正直に言えば、あまりにも身に沿わない今の状況に疲れ、里心に駆られたのだ。

 生まれ育った修道院の空気を吸いたくて、清貧なその暮らしが懐かしくて。

 父が言う様に、自重するべきだった。

 大切に思うからこそ、危険を呼び込む可能性があるのだとわきまえるべきだった。

 上下に激しく揺すられながら、ぎゅっとマローの方にしがみつく。

 目を逸らしてはならない。

 この結果を、忘れてはならない。

「……伏せて!」

 周囲を警戒していた海兵が鋭く叫んだ。

 マローの手が、メイラの後頭部を支えるように抱え込む。

 カカカカッと刃物が投擲された。

 そこかしこでカキンと剣で受け流す音が聞こえ、肝が冷える。

「食い止めます。先へ進んでください」

 ディオン大佐が敵とマローとの間を遮るように立った。

「……提督、あとはよろしくお願いします」

「了解した」

 久々に聞いたリヒター提督の声は、どっしりと低かった。

 どこからともなく現れた私服を着た海兵たちが、メイラと女性騎士たちを取り囲む。

 皆に守られた場所から、剣戟を交わす男たちの後姿をくいいるように見つめた。

 味方の一人が切りつけられ、倒れる。

 悲鳴を飲み込み、ひりひりと痛む鼻の奥に顔を歪めた。

 噛み締めた唇が切れ、錆びた血の味が口の中に滲む。

 ヒュウと突風が砂埃を巻き上げた。灌木がザワザワと音を立てて揺れる。

「魔法詠唱者がいる」

 ルシエラの声は場違いに淡々としていた。

 まるで、散歩の途中で薄汚い野良犬を見つけた、とでも言いたげな表情で、小高い丘の方をじっと睨んでいる。

「防御手段は?」

「ない」

 提督の端的な返答に、ルシエラがチッと舌打ちする。

 あきらかに怯んだ提督のほうなど見ようともせず、抜いていた剣を鞘に戻し、マントの懐に手を突っ込む。

 彼女が何かをしようとしたのは確かだが、それは最後まで至らなかった。

 先に敵の魔法詠唱者が術を唱え終わったらしく、突風と火矢がダブルでこちらに襲い掛かってきたのだ。

 そんな状況でも、周囲は冷静だった。

 確実に火矢を叩き落とし、突風からメイラを守るべくマローの周囲に寄る。

 メイラは、この場にいる味方全員が死ぬ幻影を見た。

 自身の死よりも、自身を守って彼らが帰らぬ人になる方が恐ろしかった。

 ぎゅっと目を閉じて神に祈る。

 しかし、修道女だったからこそ、こういう場合に救いはないのだと知っていた。

 神は、人々の生き死にに関与はしない。

 その魂の行く末に慈悲を与えてくれようとも、人間の営みに直接手を貸すことはないのだ。

―――陛下!

 マローに必死にしがみ付きながら、今わの際に無意識に呼んだのは夫だった。

 鮮やかな朱金色の髪を、美しいクジャク石のような双眸を、低く甘い声を。

 一瞬にして蘇ってきた愛する人の面影に、最期の最期、すがりついた。

 パキリ、と何か硬いものが割れる音がした。

 そのあと一気に、周囲の音という音が消えた。

 メイラはぎゅうぎゅうとマローの首に抱き着いたまま、その後数秒じっとしていた。

 何が起こったのかわからなかった。

 というよりも、魔法の攻撃をかわし生き延びたのだという理解もおいついていなかった。

 先に動き出したのは味方側だ。

 呆然としているメイラを抱いたまま、マローが再び走りはじめる。

 メイラはぼんやりと、音のない周囲を見回した。

 聞き慣れた風の音も、茂みのざわめきも、冬鳥の鳴き声も……大勢が移動する足音すらも聞こえない。

 まるで、深い水の中にいるか、鼓膜が破れたかのようだった。

徹底的な無音など経験したことはなかったが、静けさよりも圧迫感、恐怖心のほうが勝った。

 キーンと耳鳴りがした。

 喉が詰まって、無意識のうちに呼吸を止めていた。

 トン! とマローが段差を飛び降りた衝撃で、ようやく息をすることを思い出すが、その頃にはほぼ酸欠で意識が朦朧としていた。

 子供たちが隠れ家にしていた洞窟の入り江には、海軍のボートが十艘近く繋がれていた。

 見張りに残っていた水兵は、大きな襟の軍服を着ていて、帰還した面々の表情を見て即座にボートのもやいを外す。

 がくりとメイラの首が後方にブレたので、気絶しかかっていると気づいたのだろう。

 マローに顔を覗き込まれ、何か問いかけられるが、やはり音は完全に聞こえなかった。

 慌てて後頭部を支えられ、彼女の肩に額を預けた。その丁度視線の先に、斜面の細い道を降りてくる砂色の民族衣装の集団が見えた。

 追手だ。

 しんがりを務めていたディオン大佐が、ボートを守るように再び立ちふさがる。

 狭い洞窟なので、剣を振り回すのは難しいはずで、大柄で大剣持ちの彼には分が悪いだろう。

 しかし道が狭いのは、迎撃側には有利だ。

 味方の最後の一人がボートに乗るまで、大佐はその場を一歩たりとも引かなかった。

 メイラが見ることができたのはそこまでだった。

 彼女が乗り込んだボートは真っ先に入り江を離れ、揺れの考慮などない漕ぎ手の全力で沖へと逃れたからだ。

「……さま、御方さま」

 しばらくして、ようやく音が戻ってきて、故郷の潮騒の音とマローの気づかわし気な声とを拾う。

 抜けるような青い空と、揺れが大きな荒い海。唇に飛んだ海水の塩辛さに、震えながら息を吐いた。

「大丈夫ですか?」

「な、何が」

 無意識のうちに顔に飛んだ飛沫を拭おうとして、陛下から下賜されたフィンガーレスのグローブがだらりと垂れたのに気づいた。

「……あ」

「魔道具の防御が発動しました。おかげで無事乗り切れましたよ」

 指を通すリングの部分が砕け、ぽろぽろと落ちてきた。

 その欠片がキラキラと太陽の光を弾き、瞼の奥を刺激した。

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