4

 特殊な訓練など受けていないメイラの思考は停止した。

 暗い目をしたハリソン。

 真っ青な空を背景に、ギラリと光る刃。

 黄色味を帯びた乾いた土が、もわりと煙を上げて立ち込める。

「……ごめん、メイラねぇちゃん。俺」

 少し離れた位置で膝を付き、切られた肩を庇うように背中を丸め……聞き取れないほどの小声で呟くのは、幼い頃にはそのオムツを手ずから替え、ひとさじひとさじ離乳食を食べさせた、大切な弟だと思ってきた少年。

「ねぇちゃんじゃなくて、ミーシャを選んだ」

 マントの左半身が血の色に染まっている。顔色も、真っ青を通り越して白い。

「血、血が……!」

 パニックに陥り、ろくに働かない頭で、それでも可愛い弟の怪我が気に掛かる。

 そんなメイラに、死人のような顔色の少年が顔を伏せた。

「本当にごめん」

 さっとその場から飛びのいた彼の背後には、周囲の砂の色に紛れるような服装の集団が立っていた。人数にして、こちらの三倍以上。集団というよりも、統率されたひとつの部隊だ。

 彼らは無言でメイラたちを取りまき、衣擦れの音ひとつ立てずに刀身の短い剣を引き抜いた。

 ギラギラと、眩い太陽の日差しが刃に反射する。

 ひっ、とメイラの喉が鳴った。

 素人でもわかるほどの殺気に、まるで直接肌が切り裂かれたように感じたのだ。

「少し埃が立ちますので、目を閉じていてください」

 マローの声色が、普段通りなのが不思議だった。

 三十人以上もの男たちに剣を突きつけられて、心臓が鷲掴みにされるような緊迫感に包まれているというのに、後宮近衛の女性騎士たちはまったく顔色も変えていない。

 邪魔をしてはいけないと思いつつも、メイラはすがるようにマローの腕を握った。

 女性のものにしては逞しい手が、そっとメイラの視界を塞ぎ、ふわりとフードを深くかぶせる。

 メイラは促されるままぎゅっと目を閉じて、奥歯をガキリと噛んだ。 

 彼女たちを死地に連れてきてしまった。

 単なる自己満足にすぎない安易な行動が、取り返しのつかないことになってしまった。

 狙われていると、わかっていたのに。

 父に、くれぐれも行動に注意しろと言われていたのに。

 ザッと、音無き重い気配のようなものを感じて、息を飲んで頭を抱えた。

 キン! と鋼が触れあう音。ざざざっと砂を蹴る音。

 切迫した恐怖は、目を閉ざしていればなおのこと増す。

「……ッ!!」

 これだけ近ければ、自身に向けられた殺気が良くわかる。

 悲鳴もうめき声も聞こえない。しかし、人間と人間とがぶつかり合い、命のやり取りをする気配だけが鮮明に感じ取れた。

 やがて漂ってきた血の匂いに、メイラはブルブル震えながら、悲鳴を上げてしまいそうな唇を両手で覆った。

 嫌、……嫌!

 マローたちは命を掛けて戦っているのに、自分はいったい何をしているのだろう。

 小さくなって、丸くなって……まるで、蛇に睨まれた憐れなネズミのようだ。

 なにも出来ないのだから、巣穴から出るべきではなかった。周りを巻き込んでまで、粋がって行動するべきではなかった。

 メイラはぎゅっと頭を抱えて小さく丸くなったまま、事が早く終わるようにと願った。

 この血の匂いが、メイラの知る誰かのものでありませんように。

 どうか神様、彼女たちをお守りくださいと、奥歯を食いしばりながら必死で祈った。

 どれぐらい経っただろう。

 ぐ、と肩に手を置かれて、喉の奥で悲鳴を上げた。

「……しっ、お静かに。まだ敵がいます」

 マローの声だ。

 おそるおそる目を開けると、そこに居るのは普段通りの彼女たちだった。

 息を荒げ、震えているのはメイラだけ。

 見たところ、ともに居た全員が無事。かすり傷ひとつ負った様子はなかった。

「……あ」

「大丈夫ですか?」

「マ、マロー」

「お怪我は?」

「ルシエラ」

 生臭い血の匂いが乾いた空気とまじりあって、酷い吐き気がした。

「移動しましょう。……すべて想定内ですので、ご安心ください」

 想定内? ハリソンが敵と内通していたらしいのも? この、咽るような血の匂いも?

 そんな訳はないと言い返そうとしたが、息を吸った瞬間、その意気はしゅるしゅると萎んだ。

 メイラには、何を言う権利もない。

 わがままを言って、彼女たちを必要以上の危険にさらしてしまったのだ。

 ふと、騎士の一人が動いた。

 無意識のうちにそれを目で追って、彼女が抜身の剣を地面に向けて突き刺すのを見た。

 うめき声などは聞こえなかった。ただ、襲撃者のうちのひとりの息の根を止めたのだと知った。

 眩暈がした。

 吐き気と耳鳴りと、我慢しようとしたにもかかわらず、がたがたと膝が震え立っていられない。

 ごく自然に、マローの身体が余計なものを見せないように動いた。

「失礼いたします」

 広げた手に抱き寄せられて、弾力のある大きな胸に顔をうずめる。

 ああどうして、自分はただ守られているだけの非力な女なのだろう。

 敵の死に震えあがるなど、情けない。

 見ようとしなくても、足元に血だまりがいくつもあって、乱雑に転がった男たちの死体が否応もなく視界に入ってくる。

 怖い。どうしようもなく、恐ろしい。

 しかしこんな状況下でも、近衛騎士たちの表情に動揺はない。

 彼女たちは恐怖を感じないのだろうか。いや、そんなはずはない。心優しい彼女たちが、命のやり取りに思うところがないはずはない。

 きっと、面に出さないようにしているのだ。特にメイラの目に入らないように。

 彼女たちの想いを、無下にするわけにはいかなかった。

 ゴクリと喉を鳴らして苦い唾を嚥下して、マローの胸から顔を離す。

「……どういう状況なの?」

 我ながら、情けないほどに細く震えた声だ。

 しかし近衛騎士たちは神妙な顔をして、その場に膝をついて頭を下げた。

「囲まれるまで気づかず申し訳ございません。ですが、こんなこともあろうかと準備はしておりました」

 騎士姿のルシエラが、この殺伐とした背景にはそぐわない玲瓏たる美貌で言った。

「とりあえず修道院へ参りましょう。安全の確保はしておきましたので」

「え……」

 それでは、道案内などいらなかったのではないか。

 あらかじめハリソンが裏切るとわかっていたのか?

「まだ敵がいるようですので、退路をとります。子どもたちのことはご心配なく。こういう状況になった場合は、早々に避難させるように指示しておきました。おそらくはすでにもう街の方に移動しています」

「でも、ハリソンはミッシェルの事を言っていたわ。ミッシェルは孤児院の子よ」

「申し訳ございませんが、個々の名前までは把握できておりません。修道院の方にいる者に調べさせます」

 本当にハリソンは暗殺者ギルドの者なのだろうか。

 ミッシェルを脅しの材料に使われたのだろうか。

 問い詰めたいことは幾つもあったが、今はそんな場合ではないと飲み込んだ。

 ただ、こんな状況になっても、ハリソンに裏切られたとは思えなかった。もし子どもの命を楯に取られたら、メイラとて同じ行動を取っていたかもしれないと思うからだ。

「……急ぎましょう」

 マローに急かされ、斜面を下る。

 修道院でも火事があったのか、壁には黒い煤が付き、貴重な窓ガラスがそこかしこで割れているのが見える。

 早く駆け付けたいと思うのに、なかなか足が前にすすまない。

 幼いころから見慣れた家の、半壊状態という酷い有様に、心臓がギリギリと締め付けられるようだった。

「……来ましたね」

 キンバリーの淡々とした声が聞こえた。

 咄嗟に振り返ろうとしたメイラを、マローがひょいと片手で持ち上げた。

「失礼。走ります」

 この街まで乗ってきた馬たちは、すでに前の襲撃の時に手綱を放っている。

 下手にパニックになってしまえば、巻き込まれ事故に遭いかねないからだ。

 しかし十分に訓練された軍馬たちは、乗り手を置いてさほど遠くには行っておらず、むしろ修道院めがけて走る女騎士たちに速足で寄ってきた。

 マローはまるで曲芸をするかのような身軽さで、鐙に足を掛けることもなくその背に飛び乗った。

 メイラは、「ひやぁ!」と上げかけた声を必死で飲み込み、舌を噛まないように顎に力を入れた。

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