第67話

 するべき仕事は山積みだったが、どうしても我慢できなくなって、一度メルシェイラの顔を見に寝室に戻った。

 薄暗い室内は暖炉の炎で温められ、じんわり汗がにじんでくるほどに熱い。

 しかし深く眠り込んでいる彼女の頬は白く、また熱が上がろうとしているようだった。

 ベッドの端に腰を下ろし、掛布から出ている細い腕をそっと手に取る。

 折れそうに細い手首には、暗がりでもわかるほど濃く痣ができていた。大人の男の指の形に、くっきりと。

 ジリジリと胸が焼け、何かがそこから溢れて暴れだしそうだった。

 内なる獣が唸る。この娘の命を無残に摘み取ろうとした敵を殺せと。

 頭を冷やすためにここに来たのに、否応もなく怒りの衝動が増していく。

 そっと、短くなってしまった黒髪を撫でると、幼子のように小さな頭がすり寄ってきた。

 美しかった黒髪は、首筋が見える長さでざっくりと絶たれていた。むき出しになった頼りない首の細さと、指の間を滑り落ちた短い毛先に、またも激しい怒りで腸が煮える。

 控えめで柔らかな彼女の微笑みを思い出す。

 戸惑うように揺れる黒曜石のような瞳を、すねたように尖らせた唇を、小鳥のさえずりのように愛らしい声を。

 ハロルドにとって女とは、貪欲に愛をねだる生き物だった。

 彼の母しかり、後宮の女たちしかり。

 父の後宮で幼いハロルドを蔑んできた女たちも、ひたすらに媚びる己の妃たちも、一心に愛されようと努め、他のことは顧みようとしなかった。

 財を賭して美しく装う。ライバルたちを、何の呵責もなく蹴落とす。

 そんな彼女たちの生き方について言えることは何もなく、理解すらしがたいと長年思ってきた。

 そんなもので得られる愛があるのかと。己の心には、微塵も響きはしないのにと。

 しかし今になって思う。

 所詮人間の本質とは似たようなものなのだ。

 これまで厭うてきた女たちの行動を、そっくりそのままなぞっている己がいる。

 美しく柔らかなものだけで彼女を包みたい。その妨げになる者はすべて排斥したい。

 それは彼女を守るというよりも、後宮の女たち同様に他者を蹴落とそうとする行為に近い。

 正直に言おう。

 腕の中にいる小鳥の為ならば、千の財を積み万の人間を殺してもかまわない。

 二度と余計なことを考える輩が湧いて出ないよう、血縁である叔父や従兄妹を血祭りにあげ、見せしめにしてやりたいとすら思っていた。

 これが誰かを愛するという事ならば、なるほど、この世がかくも殺伐としているのも頷ける。

 そっと、短くなってしまった髪を撫でる。

 伝わってくる体温はあまりにも高く、気がかりであると同時に、確かに彼女が生きているという証でもあった。

 こめかみに顔を寄せ、危うく失われていたかもしれないその熱に唇を落とす。

 熱を持った薄い皮膚をたどり、頬から顎、首筋へと指を這わせる。

 柔らかな黒髪で覆われた首は、ぞっとするほどに頼りなく、細かった。

 ユクリノスで拉致されたという知らせを受け、思い浮かんだのは幼馴染の死に顔だった。

 まだ恋だ愛だということを考えもしない少年時代、初めて見た同世代の少女の裸体は無残な暴行を受け惨殺されたものだった。

 その、人形のような青白い肌を思い出す。生気のない目を、苦しそうに歪む腫れあがった顔を。

 今も瞼に浮かぶその死に様が、メルシェイラのものと重なって。

 よくぞ無事に、翼竜を操れたものだと思う。

 帝都に帰還するまでの記憶はほぼないが、もしそこで彼女の行方の情報を得ていなければ、取り繕うこともなく手当たり次第に敵対勢力を追い立てようとしただろう。

 現に引き留めようとするドルフェス近衛師団長を素手で殴りつけ、冷静になれと説得してくるネメシス憲兵師団長に抜身の剣を突きつけた。

 エルネストの取り成しがなければ、守るべきものを守り損ねた後宮近衛たちをこの手で切り殺していただろう。

 幸いにも後宮内にある転移門の発見と調査は進んでいて、メルシェイラの女官についていたルーベント大尉がいい仕事をした。

 過去数年で稼働した行く先をピックアップして、すでにそこに潜入していた諜報員たちに情報を依頼すると、即座に返答があった街が一か所。

 それがここサッハートだ。

 かねてから要注意先として監視調査対象だったが、偶然にもメルシェイラの顔を知っていた者が逆に彼女のことを尋ねて来たのだ。

 その男がハロルドも良く知る影者であったことから、情報の真偽を確かめる時間も惜しみ駆け付けた。帝都から翼竜で数時間の距離であったことも幸いした。今の彼女の体調を考えれば、かなりギリギリのタイミングだったと思う。

 もう一度、大きなベッドに埋もれて深く眠っている少女を見つめる。

 柔らかな黒髪のてっぺんに顔を寄せ、深く息を吸い。その甘やかな匂いに込み上げてくる激情を溜息とともに飲み込む。

 華奢な彼女の足首には、鉄輪をつながれたような痛々しい跡があった。

 目を閉じると、鎖につながれた彼女が、男に組み伏せられ乱暴されている情景がありありと脳裏に浮かぶ。必死で抗うその四肢はあまりにも頼りなく、きっとろくな抵抗にもならないだろう。

 エルネストの機転で強引に連れてこられた御殿医師によると、手足の傷と、背中や肩に強くぶつけた箇所はいくつかみられるが、性的な暴行はうけていないという。

 女医師が彼女の身体を診察し、その局部を確認する最中であっても、ハロルドはメルシェイラの手を握り傍から離れなかった。

 乙女であるというその診断にもっとも安堵したのは、説明もなく竜籠に押し込まれ連れてこられた当の女医師であったかもしれない。

 コンコン、コンコン、と扉が静かにノックされた。

「失礼いたします」

 徹夜なのにまったく 疲れた表情を見せないエルネストが、入り口の近くで深々と頭を下げた。

「ハーデス公爵閣下が帝都に向けてご出立なさいました」

 高齢の公には申し訳ないが、元老院との折衝は任せることにした。

 ハーデス公爵と宰相の政争と取られるかもしれないが、やむを得ない。

「それから、少々気になることがございまして……」

 続く言葉が途切れた丁度その時、コココンと急くようなノックの音がした。

「はい」

 扉の近くにいたエルネストが小声で返答し、ハロルドの許可を得た警護の近衛騎士がドアノブに手を掛ける。

「……陛下」

 無作法な程の勢いで顔を出したのは、ロバート・ハーデス青竜将軍だった。

 その視線が、まずハロルドを見て、次にベッドの上のメルシェイラに移る。

「おそらく一個小隊程度の侵入者が。警護を増やしますので、しばらくこの部屋から動かないでください」

 険しい口調でそう言い終わるとほぼ同時に、パリンと窓ガラスが割れる音がした。

 ハロルドの手のひらの下で、メルシェイラの肩がびくりと震える。

 ふるふると、濃い睫毛が揺れた。

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