第66話

 角の部屋には陽光が差し込み、オレンジ色に染まっていた。

 開け放たれたバルコニーの向こうには海が広がり、落日にきらめく穏やかな波間に多数の帆船が行儀よく並んでいるのが見える。

 まるで物語の一節を切り取ったように美しく、強く印象に残る情景だった。

 入室と同時に、圧倒的に強い夕日のきらめきが視界を占領し、一瞬だけ足が止まる。

 海面を輝かせるその眩さが逆光になって、ソファーから立ち上がった人物の輪郭だけしかわからなかった。

「陛下!」

 その声を聴いた瞬間、ここが転換点なのだと悟った。

 皇帝として擁立された時からほぼ毎日聞いていた声だった。一度として疑ったことなどないし、その手腕に間違いはないと信じていた。

 水平線に落ちていく太陽が、きらきらと海面に光の筋を作る。

 今が一番眩い時間帯で、あとは刻一刻と夜が近づいてくるのだろう。

 それはまるで、己と叔父との関係を暗示しているかのようだった。

「どういうことか説明して頂きましょうか」

 目がくらんで、馴染み深いはずのその姿が良く見えない。

 同様に、人の心の中もうかがい知ることなどできはしないのだ。

「陛下といえども、確たる罪状もなく拘束するなど許されることではありません!」

 叩きつけるように高圧的な声だった。

「陛下!!」

 エルネストがバルコニーに面したガラス扉を閉ざし、カーテンを引く。

 そうすることでようやく目が慣れてきて、叔父の姿がはっきり認識できるようになった。

 相変わらずの美しい直毛をオールバックになでつけ、身だしなみに一分の隙も無い。

 その容姿は皇族特有のものとは違う。髪も目も銀灰色で、肌の色は若干濃いめだった。     

 騎士らしいがっしりとした体躯のハロルドとは違い、肩幅は細く、頬骨も痩せている。そしてその目つきは、ひどく険しいものだった。

 いつからこんな目でハロルドを見るようになったのかと考えて、もしかすると初対面の時からかもしれない、と思い至る。

 ネイサン・フィドール侯爵は、その父や兄が皇帝であった頃はまったく目立たぬ存在だった。皇族としてカウントしていいのかわからないほど身分が低く、もともと皇位継承権すら持ってはいなかったのだ。

 しかしその目立たなさ、毒にも薬にもならぬ存在感のなさが彼の命を生き永らえさせた。

 初めて会ったとき、生存している皇族の数は片手で数えても指が余るほどになっていた。ためらいもなく若いハロルドの目前で膝を折り、真っ先に従順を誓ったことが彼の皇帝への道を決定づけたのだが、逆を言えば、その行為こそが叔父を宰相という地位に引き上げた。

 サラサラの長い髪を床に着けて誓いの言葉を告げる。その口上に、心からの忠誠はなかったのかもしれない。

「陛下!!」

 鋭い鞭のような声だった。

 皇帝になったことで急に掌を返したようにおもねってくる貴族たちが大半な中、辛抱強く治世というものを教えてくれたことに対して感謝していたのだ。苦言も身内故のものだと許容していたし、至らない己を申し訳ないとすら感じていた。

 それらはすべて野心を秘めたもので、ハロルドをいいように操ろうとしていたのだろうか。

「……軍を許可なく動かし、我が妃を誘拐したことに関して調べている」

「許可なら私が独断で出しました。動かしたと言っても訓練ですよ。常日頃から連携を確認させておかないといざというときに」

 本来であれば真っ先に謝罪するべきところを、逆に正当化する。

 万全の信頼を置いていた叔父のその姿に、ふつふつと沸き起こってくるのは怒りだ。

「宰相に許可を出す権限はない」

「それはそうかもしれませんが、慣例的に」

「つまりはずっと、越権行為と知りつつ南方軍を動かしていたというわけだな? 一度として報告を受けた覚えはないが」

「陛下、正規軍であるからこそ普段からの訓練は重要なのです。いざというときに不備が起こらないように、」

「宰相」

 ハロルドは、失望と怒りを面に出さないよう奥歯を強く噛みながら告げた。

「軍については貴方より私の方が詳しい」

 低くはっきりした声でそう言って、じっと叔父の目を見つめる。少し、その灰色の双眸が左右に揺れた気がした。わずかにうかがい知れた動揺に、なお一層苦い思いが胸中を占める。

 ネイサン・フィドール侯爵はわかっていてそうしたのだ。長い年月を掛けてこの越権行為に慣れさせ、彼らが軍を掌握していることに誰も疑問を抱かないよう仕向けてきたのだ。

「宰相が正規軍に対しての命令を独断で出すなどあってはならないし、当然だが一地方総督にもその権限はない。軍を動かすには勅令あるいは元老院の過半数の賛成が必要だ。問題は、あなたの息子である総督が、我が妃を拘束するために軍を動かし、それについてあなたが私にも元老院にも話を通さず許可を出したという事だ」

 それが許される状況にしてしまったのは、ハロルドにも咎があるのだろう。今回のことでも、メルシェイラが関わっておらず、国の為に必要なことだと言われれば、そうなのかと思ったかもしれない。

「……総督府の機密情報を持ち逃げし、愛人と逃亡しようとしたのだと聞きましたが」

 少々分が悪いとでも思ったのか、叔父はじっと用心深い目でハロルドを見つめた。

「誰が?」

 総督の拘束以来、かなり厳重な情報規制を取っている。

 今宰相が口にした与太話は本来彼が知っているはずもない事で、つまりは事前に総督との間に密な情報のやり取りがあったという事を示している。

 彼もまた知っていたのだ。

 メルシェイラがこの街に囚われていたという事を。

「ハーデス公爵の養女とかいう毒婦ですよ」

「……ほう」

 腹の中で、獣が低く唸り声をあげるのがわかった。

 これまでは過去を鑑み揺れていた心が、今はっきり敵意のほうに振り切れる。

 ハーデス公からは、とりあえず今は正規軍を勝手に動かしたことに重点を置いて詰問すべきと言われていた。すぐにもメルシェイラを排斥しようとした事を問い詰めたかったが、言い逃れができないよう証拠を固めることが先だと諭されたのだ。

 もしこれが別の人間からの忠言であれば、うやむやにする気かと疑ったかもしれない。

 ハロルドは、公の黒々とした爬虫類じみた目つきを思い出す。

 あれは、獲物に狙いをつけた目だ。相手を油断させ、確実に仕留める距離に来るまでじっと待つ蛇の目つきだ。

「私にもいろいろなところに情報口があるのですよ。前々から男性が出入りしているらしいという情報を受け、密かに調べていたのですが、とうとう駆け落ちまがいに姿を消したと」

 ハロルドは無意識に遠くを見ていた目を叔父のほうへと戻した。

 ハーデス公の忠言の意味は理解できる。

 しかし、メルシェイラをことさらに貶めるような発言には我慢できなかったし、そこをスルーするのは夫として間違っていると思う。

「誰がそんなことを言っているのだ?」

「メイドや女官です」

「具体的に名前を言え。わが妻の名誉を、根も葉もない噂で傷つけるなど許せることではない」

 しれっと答える宰相の顔を、暴力的なまでの怒りを堪えて見つめる。

 ネイサン・フィドールの眉間の皺がぐっと深くなり、いかにも不満そうに唇の端がひくついた。

 何かを気に入らない時のその表情に、普段のハロルドであれば多少は配慮したかもしれない。

 しかし、この男がメルシェイラを殺そうとした黒幕かもしれないと思うと、すぐにでもその細い首根っこを掴んで引きずり回してやりたくなる。

「あれは我が妃、我が愛する唯一の妻だ」

 それでも内心の激情を抑え込んで静かにそういうと、フィドール宰相はふん、と厭わし気に鼻を鳴らした。

「……何を仰っているのですか。ハーデス公爵が送り込んできたどこの馬の骨とも知れぬ女でしょう」

 落ちてきた髪を耳にかけ、軽く顎を上げる。それはこの男がひどく苛立っている時の仕草だ。

「陛下が固執する要素があるようには思いませんが? 下手をすれば妙な病気を持っているかもしれませんよ。身持ちが悪い女のようですから」

「残念だな、ネイサン・フィドール。あれはまだ乙女だ」

「ご冗談を。一度は陛下の閨に上がった妾妃でしょうに。仮に何とか誤魔化してその時は処女で通したとしても、男と駆け落ちしようとした段階でとんだ阿婆擦れ、死罪ではないですか」

「わたしはあれを抱いてはいない。現在も処女であることは複数の医師が確認している」

「そんなはずはありません!! 後宮から姿を消して幾日経っていると思っているのですか。あの女に何と言って丸め込まれたか知りませんが、人がいいにもほどがありますよ陛下」

「……なるほど、よくわかった」

 ハロルドは、早々に理解した。

 宰相として長年信頼してきた叔父とは、もはや修復できないほどに道をたがえてしまったことを。

「あなたはどうあってもメルシェイラを排斥したいのだな」

 一度目を閉じて、ゆっくりと瞼を開ける。

 真向かいに立つ叔父が、ひどく歪んだ顔つきで何かを言おうとしたのを遮り、低く、単調に言葉を続けた。

「約束は覚えているか?」

 おそらくはメルシェイラに対して毒舌を振るおうとしたネイサン・フィドールが、改めて何かに気づいたように息を吸った。

「後宮を作り、多くの妃を召し上げる際にした約束だ」

「それは……」

「わたしが望んだ妃にしか子を産ませない。抱きはしよう。政治的なバランスに配慮もしよう。ただし、愛されるとは思うな。妃だというだけで種を貰えるとも思うな。仮にわたしが子は不要と考えた場合、わたしが選んだ血縁者の男子を養子に迎えることを拒否することは許さない」

「いえ、その時はそうお思いになったかもしれませんが、現にミッシェル皇妃さまはご懐妊され……」

「わたしはメルシェイラ・ハーデスを皇妃に望む。いずれ我が子を産み育て、皇后として隣にあってくれればと思っている」

「陛下!」

「メルシェイラしか愛さぬ。あれにしか子種は渡さぬ。もし子ができぬのであれば、」

 ソファーから腰を浮かせ、前のめりになった叔父の顔をじっと見据えた。

 ふっと鼻から吐き捨てるような嘲笑が零れ落ちる。

「イリシアス大公家のウェイド公子を養子にして皇位を譲るつもりだ」

「陛下っ!!」

 前イリシアス大公はハロルドの祖父の長兄である。第一皇子ではあったものの祖父よりは母親の身分が低く、帝国の北方にある小さな大公国を属国にしたときにその差配を命じられ、後継争いから降りた。

 嫡男に大公位を譲って隠居しているがまだ存命で、ハロルドのことも良く気遣ってくれる出来人だった。

 そこの孫息子が祖父に気質がよく似た優秀な子供で、前々から目を掛けてきていたのだ。 

 大国の皇帝などという重責は背負いかねるというのが口癖の親子には悪いが、正真正銘の嫡流で、正当な皇帝を名乗ってもおかしくない血筋なのだから諦めてもらおう。

「待ってください! そんな、では娘は、ユライアは」

 ハロルドは、垣間見えた叔父の本心を察した。

 愛娘を後宮にあげるとき渋っていたが、心の中では彼女がハロルドの息子を産み、そのうち帝国を受け継ぐという夢を抱いていたのだろう。

 そのためにメルシェイラを排除したかったのか? 腹の子を流させ、二度と孕めぬようにしたかったのか?

「約束したであろう。わたしが望む妃にしか子は産ませぬ」

「……っ」

「そなたの娘を後宮にあげる話が出た時、愛されもせず子も成せぬ、寂しい生涯になるだろうと忠告はしたはずだが」

 時が経てば、受け入れると思っていたのだろうか。

 基本ハロルドは女というものを厭うている。

 後世、あまたの妃を抱える多情な皇帝だが子をなす能力はなかったのだと言われても、それでよかった。

 母のように、心の一部を他所に預けるつもりはさらさらなかった。

「今回の件はしっかり調査してから元老院にかける。メルシェイラのことで私情をはさんだと言われたくはないからな。あなたも帝都に戻り謹慎するように。追って沙汰は伝える」

 がっくりとソファーに座り込んでしまった叔父を、じっと見下ろす。

 これが決別。以降この男は排除するべき敵だ。

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