第26話

 その日、書類の山を片付け終えたのは夕刻だった。

 普段であればもっと遅くになるのだが、今日はまだ日没前。久々に時間が空いたので、鍛錬しようと身軽な服装に着替える。

 もともと騎士であったハロルドは、たまりにたまったストレスの捌け口に剣を振るう。真剣を無心に素振りしている時が、頭を空っぽにできてもっとも気が休まるのだ。

 近衛兵用の訓練場で黙々と剣を振り、気が向けば護衛たちと対戦をしたりもして、たっぷり身体を動かしたところでひと息入れる。

 次は愛馬の顔でも見に行ってやるかと、厩のほうへ向かおうとして、視界の端にずっと引っかかっていた青い屋根に意識が引き戻された。

 剣を振っていた間中、気になって仕方がなかった。

 あそこは青の宮。後宮から出ることができない妃に面会するために、その家族が逗留する離宮だ。

 たとえ高位貴族の娘であろうが隣国の王女であろうが、面会の回数も時間も事細かに決められているので、頻繁に利用されはするが無人のことも多い宮だ。

 メルシェイラは今、そのゲストルームの一室にいる。

 心細い思いをしているのではないか……そう思うだけで、いてもたってもいられなくなる。

 大丈夫だと言ってやりたい。

 もうこんなことは二度と起こらないと安心させてやりたい。

 だが、直接彼女に会うわけにはいかないのだ。

 後宮の妃が皇帝に面会するための決まり事は多岐にわたる。それらをすべて無視して会いに行くなど、許される行為ではない。

 丁度通路を逆方向へと曲がれば後宮外苑の通用口になる。青の宮はその奥にあって、距離的には厩に行くよりも近い。

 ハロルドは美しく整えられた通路の真ん中で立ち止まった。

―――許されない? 誰にだ?

 ふと、耳の奥で自身の声が響いた。

 ハロルドはこの国の皇帝だ。彼ほどの権威を持つものはおらず、彼の命令がこの国の指針だ。

 十年に渡り難しい政局を乗り切ってきたという自負があるし、隣国の度重なるちょっかいを跳ねのけてきた実績もある。

 この国の最高権力者であるハロルドが、望んで認められない事などあるのか?

 もう一度、青い屋根の離宮を見上げる。

 メルシェイラがそこで不安な時を過ごしているのだと思えば、逡巡はあっけなく霧散した。

 無言で進路を変更したハロルドに、近衛騎士たちも無言で付き従う。

 ためらっていた時間は長いが、離宮に到着するまでほんの数分だった。

 道は離宮の正面ではなく脇につながっていて、少し階段が続く。

 美しく刈り込まれた生垣が切れたところに、見知った近衛騎士がいた。

 彼はあからさまにビクリと身をこわばらせ、一瞬後に身をひるがえして誰かに何かを言う。距離があって聞き取れなかったが、不意の訪問に驚いているのは確かだ。

 彼の注進がどこかへ向かうよりも、ハロルドが青の宮に到着する方が早かった。

 近衛たちが固まっている方角が、おそらくメルシェイラのいる場所だろう。

 芝の張られた庭を横切り、サンルームへ。

 ガラス越しに、小柄な女性が目を見開いて立ち上がる姿が映った。

 夕刻の赤みがかった日差しの中、慌てた様子でハロルドの方へ向かおうとしてガラスに阻まれる。

 華奢な指が磨き上げられたガラスに触れ、我に返ったのか少し恥ずかしそうに俯いて淑女の礼をとった。

「陛下ぁ~急に来られたらびっくりするんですけど」

 騒然とした中声を掛けてきたのは、近衛騎士師団長のサダム・ドルフェスだ。

 ハロルドよりも更に一回り大柄で、武骨そのものの面相だが、喋り方がミスマッチに緩い。

 その巨躯を感じさせない動きでサンルームの端の出入り口から半身を出し、左右に首を揺らしている。

「なにか急用でも? それとも妾妃さまに会いに?」

 邪気ない風でいて、あまりよろしくないと思っているのがうかがい知れる。

 ハロルドはあえて返答せず、赤毛の師団長の肩を押してサンルームに足を踏み入れた。

 メルシェイラの座っていたソファーの向かいには、憲兵師団長のリオンドール・ネメシスが座っていて、おそらくは尋問中なのだろうとわかる。

 冷酷で残忍で容赦ないともっぱら噂されている憲兵師団長は、その大仰な噂の主にしては極めて凡庸な容姿をしている。人当たりも非常によく、常に感じの良い笑みを唇にたたえているが、一度でもその仕事ぶりを見たことがある者は彼を侮ったりはしない。

 当たり障りない会話をしているつもりで、いつの間にか情報を抜く。親し気に微笑みかけられて、自分が何を敵にしているのかわからないうちに、追い詰められてしまう。

 確かに彼は、容赦のない男だ。

「陛下」

 立ち上がったネメシスが、極めて穏やかな面相で微笑む。

 ハロルドは用心深くその場の空気を観察しながら頷いた。

 恐ろしく有能なこの男が、メルシェイラの心を切り刻んでいないか心配だった。見たところ険悪な感じも重々しい感じもないが、それで安心できないのがこの国の憲兵師団長だ。

「こちらにいらっしゃるご予定はなかったように思いますが」

「暇だった」

「陛下がお暇な時間などありませんでしょうに」

「時間が空いたんだ、それでいいだろう」

 ゆっくりと、ネメシスの唇が弧を描く。

 窓際に立つドルフェスが「うわぁ」と呻いて数歩距離を取ったが、真正面からそれを受けたハロルドには逃げようがなかった。仕方がないので息を止め、どんな口撃が来ても大丈夫なように身構える。

「……陛下! 今お茶を入れますので、どうぞお座りください」

 何も知らないであろうメルシェイラが、無謀にもハロルドとネメシスとの間に入った。

 ハロルドはとっさにその華奢な肩に手を置いて、守るように懐に抱き込む。

「えっ? え?」

「茶は侍従に入れさせる。座っていなさい」

 そのままひょいっと持ち上げて、ソファーに座らせた。

 きょとんとした表情でハロルドを見上げるその目は黒い。夜の闇のように美しく深い色合いに、引き込まれるように顔を寄せる。

「っ」

 その瞳をもっとよく見ようとしただけだったが、怯えたように目を閉じられてしまった。

「……」

「……」

「…………なんだ?」

 少々残念に思いながら顔を上げると、腹心たちは間違って何かを飲み込んでしまったような表情でこちらを見ていた。

「いえ」

「いいええ」

 一瞬後、わざとらしい笑顔とともにその首は左右に振られた。

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