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「……何だと?」

「メルシェイラさまの居室が何者かによって荒らされ、メイドがかすり傷ですが怪我をしております。汚物が撒かれ、カーテンや衣類が刃物で裂かれておりました。現在女官長が後宮内に持ち込まれたであろう刃物を探しております」

 一言一句、先ほどとまったく同じ言葉を繰り返したのは侍従長のエルネストだ。

 彼が奥向きからこちらへやってくることは珍しくないが、普段であれば食事時か仕事が終わる時間帯を狙ってくる。今はまだ日差しが高く、午後のお茶を飲むにも早い。

 急を要する用事があるのだろうとさほど気にも留めずにいたが、耳に届いた内容がきちんと脳内に届くまでしばし時間を要し、その意味を理解した瞬間無意識のうちに椅子から腰を浮かせていた。

「……彼女は」

 喉から込みあがってくる何かに声が掠れ、ペキリとペンが折れ曲がった。

「ご不在でしたので、お怪我などはございません」

 ハロルドは浮かせていた尻を椅子に戻し、手に持っていたペンを投げ捨てるように置いた。ほっと零れるのは安堵の息。

「お部屋が使い物になりませんので、後宮外のゲストルームにご案内いたしました」

 後宮にはまだ部屋が余っているはずだ。エルネストがそこではなく、あえて後宮外を指定したことに違和感を抱く。

「今宵の伽のご予定は繰り越されました。どうか妾妃さまのお側に」

「……どういうつもりだ」

 そんなことをすれば、メルシェイラが目をつけられてしまう。

 ハロルドは皇帝の妻たちの熾烈な世界を知っている。かつては己も後宮内で育ったのだ。そこに住む女性たちの、嫉妬と僻みと打算に満ちた生き様は、普通の感性では耐えられまい。メルシェイラのような無垢で年若い少女など、あっという間に飲み込まれて消されてしまうだろう。

「お命の危険があると判断致しました」

「……っ」

 折れ曲がってしまったペンを、秘書官がさっと書類の上から撤去する。視線が合いはしなかったが、その好奇心に満ちたようすに罵声が引っ込んだ。

「第二妃さまのご懐妊の件も、まだ調べが進んではおりません。これまでは後宮内ということで男手が入ることができませんでしたが、メルシェイラさまの一件を調べるという口実で憲兵隊を事に当たらせることができます。リオンドール卿であれば、手控えもなく事に当たるでしょう」

「……口実に使うか」

 食えない表情で己の侍従長が笑みを浮かべる。ハロルドは鋭い目つきでそれを見返し、必ずしも同意はできないことを示す。

「自信はあるのだろうな」

「一気に洗えば、相当数の整理ができるかと」

「……違う!」

「メルシェイラ妃のことですか?」

 ふと、少女の柔らかな声が耳朶を過る。彼女の小さな手を、優しい眼差しを、あたたかな腕を。

 たった一晩共寝をしただけの、いわば小娘ひとり。情をかわしてもしない彼女のことが、どうしてここまで気に掛かるのか。

 メルシェイラが傷つくと思うだけで、鳩尾の当たりがぎゅっと何かで絞られるような気がする。

「信頼できる女官とメイド、近衛の先鋭を揃えます」

 ハロルドははっと鋭く息を吸った。そんなことをすれば目の敵にされてしまう! 即座に却下しようとして、侍従長の静かな決意の面差しに言葉を詰まらせる。

「必ずお守り致します」

 無意識のうちに食いしばっていた奥歯がギリリと音を立てた。

 これまでハロルドは、いかなる意味でも特別な女性を作らなかった。そこまで心惹かれる事がなかったと言ってしまえば簡単だが、それよりも、『特別』は必ず無残に壊されてしまうと知っていたからだ。

 少なくとも、幼少期から彼が大切にしていたものはそのほとんどが今はない。

 気に入っていた玩具も、ペットも、仲が良かった乳兄弟も。貴族が通う学校でできた恋人と呼ぶにはあまりにも無邪気に共にいた少女も、騎士時代に副官をしていた年上の女性も。

 いつのまにか居なくなっていたなどと生易しい失い方でなく、すべて見せしめのように残虐な末路を迎えた。

 脳裏に、無残に穢され全身を切り刻まれた少女の姿が過る。彼女とメルシェイラの顔が一瞬ダブってしまい、それだけでもう駄目だった。

「陛下」

 赦さぬと、胸の奥の何者かが言う。

「……陛下」

 そうだ、すべて殺してしまえばいい。彼女を害する可能性のあるものはすべて。後宮の女どもを一掃してしまえば、このようなことは二度と起こるまい。

 ぐっと腕を掴まれて、いつの間にか己が愛剣を握りしめていることに気づいた。

 長年戦場でともにあったその剣は、これまで大勢の敵の命を刈り取ってきた。ひとたびその鞘から抜き放たれれば、血の雨が降るとまで言われている業物だ。

「離せ」

「陛下こそ、御手のものをお放しください」

 互いに真顔を突きつけて、にらみ合った。

 エルネストの指が二の腕に食い込む。そうはさせじと、ハロルドも筋肉に力をこめる。

「長年辛抱されていたことをすべて無に帰されるおつもりですか」

「……離せ」

「幾度でも申し上げます。……そろそろ陛下もご自身の思うようになされていいのではありませんか?」

 エルネストの言う『思うようにする』とは、はたしてどういう意味だろうか。

 皇帝位などもう嫌だ、義務もなにもかも捨てて自由になりたいと言えば、その通りに出来るのか?

 これまで生きてきた人生の中で、思うがままにしたことなど一度もない。

 そもそも皇帝になどなりたくなかった。騎士としての務めを全うしたかった。後宮などいらなかった。毎晩違う女の寝所になど通いたくなかった。

「どうぞこのエルネストにご下命を」

 細身のようでいて、意外と腕力のあるエルネストの指が筋肉に食い込んでいる。ギリギリと。引きちぎらんばかりの強さで。

 ハロルドは溜息をつき、ゆっくりと腕から力を抜いた。

「言っていることとやっていることが違うが」

「……もういい御年なのですから、上手に動かれませんと」

 ハロルドが正気に返ったと判断したのだろう。エルネストも手から力を抜いた。

「それにしても、久しぶりに陛下のそんなお顔を拝見しました」

「……そうか」

「頭に血が上って癇癪を起すなど、まだまだですね」

「癇癪など起こしていない」

「ちなみにですが、どなたさまを切り殺しに行こうと?」

「……」

 咄嗟に連想したのは、後宮にいる己の妻と呼ばれる女たちだった。まさか、怒りに任せて後宮内のすべての女を切り刻もうとしたのだろうか。

 ハロルドは、握りしめたままの愛剣に視線を落とした。

 それもいいかもしれない。……咄嗟に過ったその衝動は、とても魅力的に思えた。

「……今のそのお顔、メルシェイラ妃にはお見せにならないほうがいいかと存じます」

 ハロルドは己の侍従長に視線を戻し、その差し出された両腕をちらりと見てから目を逸らした。

再び執務机の方へ向かいながら、愛剣をエルネストの手に委ねる。

「その方に任せる」

 剣から手を離す瞬間、ぐっと押さえつけるように負荷を掛けた。

 両手でハロルドの剣を受け取ったエルネストが、わずかにもよろめかなかったことに舌打ちする。

「ただし……失敗は許さぬ」

「御意」

もはや初老といってもいい年頃なのに、外見は一向に衰えない。侍従職という内向きの職務についているのに、いつ身体を鍛えているのか。

ハロルドは、仕事漬けでしばらく剣を振っていないことを思い出した。

大量に積みあがっている書類を前に、ため息を飲み込む。

若干緩んできた気がする脇腹をさすり、鍛錬の時間も作らなくてはと今日の予定を振り返った。いざというとき、敵を屠れなくなっているようでは困るのだ。

 ……決して、年若い妾妃との年齢差を考えたからではない。

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