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問題は、夜着ではない。
メイラは手触りの良い白地の布に触れながら、ちらりとそれが入れられていた箱に目を向けた。
黒い漆塗りの中央に、大きな牡丹の細工がしてある。
何も知らなければ、さほど美しとは思わない意匠だ。花びらにはひびが入り、汚れているとしか思えない色合いをしているからだ。
しかしメイラは知っている。実はそれは、触れるのもはばかるほどの希少品だということを。
月光螺鈿。
文字通り夜に月の光の下で見ると、美しいグラデーションで淡く光るのだ。
メイラがかつて目にしたことがあるのは、親指の爪ほどのペンダントトップだった。それでも金貨三枚、つまり三百万ダラーもするという。
あの牡丹の大きさだと、目算でおおよそ三億、いや四億ほどにもなるのではあるまいか。これだけでメイラの三年間の目標金額を楽に超えてしまう。
金貨四百枚もあれば……と夢想しなくもなかったが、黙って拝領しておくにはあまりにも高額すぎる。
もしかするとご存じなかったのかもしれない。
メイラは濃い隈のある陛下の顔を思い浮かべた。
いやまさか、やんごとないお立場の陛下が知らないということはなさそうなので、よほど精神状態が悪くてつい適当にその辺のものを使ってしまったとか。
……ますます黙って頂いておくわけにはいかない気がした。
「刺繍の用意をしてもらえる?」
一度頂いたものを返すなど、非礼にもほどがある。
しかし夜着に刺繍をして贈り返せば、角も立てずに箱ごと返品できるだろう。
陛下の御召し物に刺繍を入れるなど、気後れすることこの上ないが、ほかにどういう手段があるのか思いつくことができなかった。
「今日はまだお休みになられていた方が……」
心配そうなユリを見上げてにっこりと笑う。
「病気じゃないの。大丈夫よ」
「ではせめてベッドの上で。明かりを近くにお持ちしますので」
夕刻に近づき、寝室は薄暗くなってきていた。
貴族の女性なら刺繍をするような時刻ではなかったが、一刻も早く贈り返してしまいたかったので、徹夜の内職も覚悟する。
今まで眠ってしまっていたので、その時間の分も取り返さなければならない。
「針が落ちたら危ないわ。広間の方でしましょう」
「針は本数管理をしておりますので大丈夫です。ベッドテーブルをお持ちしますので、そちらでなさってください。また倒れてもいけません」
浴室で眠り込んだことを心配してだろう、ユリが気遣わし気に言う。
「先に何かお召し上がりになりますか?」
体感的には先ほど朝食を食べたばかりの気がするが、もう夕方である。しかし空腹は感じなかったので、軽く横に首を振った。
ユリは一礼してベッドの脇から離れた。
その背中を見送ってから、メイラは無意識のうちに撫で続けていた白い布地に目を落とした。
ユリは「男性ものの夜着」などと悔しそうに言っていたが、これとて充分に高級品である。
おそらくはダッタ―ル産の真紗織り。夜着を作るのに最低限の布を手に入れるだけでも金貨が要る。更には陛下がお召しになられていた、という付加価値を足せば、その金額は計り知れない。
―――値段の事ばかり考えてるわね。
そんな自分がおかしくなって、メイラは小さく笑った。
しかし実際のところ、高額すぎて売るに売れないものは頂いても困るのだ。
いや、夜着のほうはリメイクができそうだが……。
膝の上に白い夜着を広げてみる。大柄な陛下の御召し物は、やはり一般的な男性のものよりも大きかった。
「……申し訳ございません、メルシェイラさま」
あれこれとリメイク品について考えていたところで、先ほどより幾分硬い雰囲気のユリの声が掛けられた。
「少し問題が」
メイラは己の欲深さを見とがめられた気がして居住まいを正した。
ユリの後にはシェリーメイ。彼女たちは三交代制のはずだが、昨夜からずっと働いているような気がする。
「メイドの一人が戻りません。軽く摘まめるものをと大膳所の方へ頼みに行かせていたのですが」
とっさに思い出したのが、焦げ茶色の髪の女騎士の言葉。
『足元には十分にお気を付けを』
非常に嫌な予感がした。
「……どれぐらい前に?」
「二時間は経っていると思います」
たとえば何かを作ってもらっているとしても、さすがに時間がかかりすぎている。
女騎士の言う足元とは、メイドのことなのだろうか。
彼女は、何か起こることを知っていたのだろうか。
「支度を」
「……いいえ!」
手にしていた夜着を軽く畳み、掛布を避けたところで制止された。
「今フランが迎えに行っております、メルシェイラさまが出られるようなことではございません」
「いえ、着替えておきます」
珍しく強めの口調で言うと、ユリはしばらく黙り、それから仕方なさそうに頷いた。
「……はい、メルシェイラさま」
「何が起こっているのか、すぐに報告を」
これが、ちょっと話し込んでいるとか、さぼっているとかならいいのだ。
何か重大な問題が起きていたらと思うと、居ても立っても居られない。
昨夜、メイラは帰らなかった。
恐れ多くも皇帝陛下の閨に侍り、一晩を同衾して過ごした。
単に寄り添って眠っただけではあるが、誰もその点を問題にはしないだろう。
実は深夜にはもどっていましたと言い訳するつもりでいたが、それが通るかどうかも怪しい。
妃の出入りは厳重に管理されているから、今夜誰が陛下の閨に侍っているのかという情報は、常に後宮中の知るところなのだ。
侍従ユリウスが言うように、どの妃とも朝まで過ごされたことがないのであれば、妾妃たちだけではなく側妃、いや皇妃さま方からも目をつけられてしまう恐れがあった。
それだけならまだしも、メイラの為に働いてくれている者たちに害が及ばないとも限らないのが恐ろしい。
メイラはベッドから降り、シェリーメイが持ってきた淡い青色のドレスに袖を通した。
ユリが着付けを手伝ってくれ、次いでシェリーメイが髪を梳る。
時間も時間なので簡単な髪型に結ってもらい、髪飾りもつけない。化粧もうっすらとにとどめた。
「失礼いたします」
寝室の外からフランの声がした。
「ユリさま、よろしいでしょうか」
「フラン? 入りなさい」
何故か入ってこようとしないので、こちらから声を掛けてみる。
「いえ、申し訳ございません。……ユリさま」
その断り方に嫌なものを感じて。
ユリが手で制止するのも聞かず、自ら扉まで歩いた。
ノブを押し、庭園に面した広い部屋に続く扉を開く。
「……フラン!」
メイラは小さく悲鳴を上げ、手で口元を覆った。
申し訳なさそうな侍女の顔には、何かで殴られたような赤いあざができていた。
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