第47話 最後の決戦

 その日、月が妙に赤く輝いていた。まん丸のこれ以上ない巨大な満月だった。それは真っ赤に燃えたつような光りを滲ませ、怪しく私を見つめていた。

「・・・」

 なんだか今夜は特別な夜のような気がした。何か最後の決定的な何かが起こるような、そんな予感がした。

「・・・」

 私は小さく震えた。


「ただいま」

 私が部屋に帰ると、珍しく雅男が先に家にいた。

「ああ」

 雅男が珍しく返事をした。

「すぐにご飯作るね」

 私は台所に立った。いつになく不思議と何事もなく淡々と当たり前の日常が進んでいく。

「ご飯できたよ」

「ああ」

 私たちは向かい合って、ごはんを食べ始めた。

 怖いくらいの静かで平和な時間が流れる。

「角のケーキ屋さんつぶれたよ」

「ああ」

 何気ない会話が自然と出る。

 しかし、お互いの心の中で、何かが沸々と燃えていた。空気がピリピリと極限まで緊張し、震えていた。

「・・・」

「・・・」

 いつしか、お互い黙々と、食事だけが何かの機械仕掛けのように進んでいた。淡々とした時間だけが、その場に流れる。

「別れよう」

 雅男が口を開いた。

「やだ」

 私は即答した。

「・・・」

「・・・」

「殺すぞ」

「殺してみろ」

「・・・」

「・・・」

 お互い食べる手は止まらず、淡々と食事だけが進んでいく。

「出てけ」

「やだ」

「・・・」

「・・・」

 静かに雅男の箸が飛んできた。私はすまし顔のまま、普通に箸を手で払った。

「出てけ」

 雅男が叫んだ。

「やだ」

 私が冷静に答える。

「てめぇ~」

 ついに、雅男の怒りのオーラが、メラメラと燃え上がり始めた。

「今日こそ決着をつけてやる」

「望むところだ」

 ついに食べる手を止め、私たちはバチバチと火花を散らし、向かい合った。

「ぶっ殺してやる」

 雅男は立ち上がった。私は座ったまま、雅男を見上げた。その私の冷静な態度に雅男はさらに怒りをふくらませた。

「今日こそぶっ殺してやる」

「おもしれぇ」

 私は挑発するように雅男を睨み返した。それに対し、ギリギリと怒りをきしませるように、雅男は歯を鳴らした。

「うをぉ~」

 雅男はいきなり自分が座っていた椅子を思いっきり投げつけて来た。私は上体を伏せ、寸でのところでそれを交わした。椅子はそのまま後ろのベランダの窓ガラスを突き破って、下に落ちて行った。

「てめぇ~、今マジで当てる気だっただろ」

 私は雅男を睨み返し、叫んだ。

「あったりめぇだ。今日こそぶっ殺してやる」

 雅男はものすごい勢いで、私に掴みかかってきた。

「やれるもんならやってみろ」

 私も負けていなかった。私は雅男を力いっぱい掴み返した。

「うをぉ~」

 私たちは、お互い掴み合いながら倒れ、ゴロゴロと床を転がり回った。

「ぶっ殺してやる」

「やれるもんならやってみろ」

 私たちは、掴み合いもつれ合い、叫び合いながら、転がり続けた。

「ぜってぇ~、愛してやる。愛して愛して愛し抜いてやる」

 私はマウントを取ると、雅男に顔を押し付け叫んだ。

「てめぇ~」

「ぜってぇ~、別れてなんかやらないからな。どこまでも愛してやる。お前が地獄に落ちたって愛してやるからな、覚悟しとけ」

「くっそ~」

 雅男は、下から力の限り私の服を締め上げてきた。

「うううっ」

 私も雅男の襟首を締め上げるが力が入らない。

「殺してやる殺してやる」

 雅男の込める力が、ギシギシと私を締め上げた。そして、マウントが入れ替わった。

「うをぉ~」

 雅男はさらに力を込める。私は右手を探り、手に当たった床に転がっていた大皿を手に握りしめた。そして、それを持ち上げ雅男の脳天に振り下ろした。

「うあああ」

 雅男の大きな叫び声が響き、私の体から雅男が離れた。私はすかさず立ち上がり、雅男と距離をとる。

「てめ~」

 雅男が頭を押さえながら顔を上げ、凄まじい目で私を睨みつける。頭からは凄まじい勢いで血が流れ出している。

「はあ、はあ」

 私も、息を切らしながら雅男を睨み返した。

「・・・」

「・・・」

 少し距離をとり、その間合いの中で、私と雅男は無言で睨み合う。激しい息遣いだけが、その場にものの動きとして漂う。

 ピ~ンポ~ン

 その時、そんな緊迫した空気の中を、間抜けな電子音が鳴り響いた。

「・・・」

 私たちの動きが止まった。

 玄関を開けると、若い警察官が二人立っていた。

「!」

 雅男の返り血を浴びた私を見ると、二人の警察官はのけぞるように驚いた。

「あの・・、近所から苦情が来てまして・・」

 なぜ警察官になどなったんだといった、いかにも気の小さそうな右側の若い警察官が、おずおずと言った。

「うるっせぇ。警察ごときが人んちのことに口出してんじゃねぇ」

 私がキレると、警察官二人はかわいそうなくらい小さくなってすごすごと帰って行った。

「ちっ」

 私はその背中に舌打ちをして、玄関を思いっきり閉めた。

「・・・」

 私は、振り返り再び雅男と相対した。雅男はリビングから重心を低くし、私を睨みつけていた。

「ぶっ殺してやる」

 雅男が重みのある声で呟いた。

「ああ、やってみろ」

 私は雅男を睨み返す。

「ぶっ殺してやる」

 そして、ものすごい勢いで、雅男はリビングから私の方に突進してきた。

 ガンッ

 何かすごい衝撃の後、私の目の前が真っ暗になった。

はっと気づくと、雅男が手にフライパンを持って、再び突進してくるところだった。

「うをっ」

 私は雅男が振り下ろすフライパンを寸でのところでかわした。

「てめぇ~」

 私は雅男を睨んだ。雅男はすかさず第二撃を振り下ろしてきた。私はそれをかわしリビングに逃げると、近くにあった椅子を持ち上げ、思いっきり振り上げた。

「うをぉ~」

 それは、第三撃をかまえて、突進してきた雅男の振り上げたフライパンごと雅男を吹っ飛ばした。雅男が吹っ飛び、床に倒れたところを私は、すかさず上から馬乗りになった。

「うああああ」

 私は再びマウントを取って、上から雅男をコブシで次々殴った。

「私のこときれいだって言っただろ。誰よりもきれいだって言っただろ。もう一回言ってみろ。もう一回言ってみろよ」

 私は泣きながら雅男を殴った。

「言ってみろよ~」

「お前に俺の苦しみが分かってたまるかぁ~」

 血を滲ませながら 下から雅男が叫ぶ。

「ああ、分んねぇよ。お前の苦しみなんか分かんねぇよ。分ってたまるかぁ」

 私は次々コブシを繰り出し雅男を殴った。

「うをああぁぁ~」

 雅男は突如として呻くように叫ぶと、殴られながら、下からものすごいバカ時からで、巴投げみたいに私を吹っ飛ばした。

 私は壁まで吹っ飛ばされそこにしたたか頭を打ち付けた。

「うううっ」

 一瞬、意識が朦朧とする。

「うああああ~」

 そんな私の方へ、雅男はまた獣のようにものすごい勢いで、突進してきた。血だらけの顔で、目を血走らせ、雅男はものすごい形相で突進してくる。私はすかさずテーブルの上にあった卓上ポットを手に取った。

 そして、迫りくる雅男に、私は手に持ったポットを左から思いっきり右へ振り切った。グギッと鈍い音と共に、雅男はそのまま右方向に顔を歪めて吹っ飛んだ。

「・・・」

 雅男は、床に仰向けに倒れた。そして、そのまま、ピクリとも動かなくなった。

「はあ、はあ」

 私の激しい息遣いだけが静かな部屋に響く。

「・・・」

 雅男は動かない。部屋に恐ろしいほどの静寂が流れた。

「・・・」

 雅男は動かない。

「雅男・・?」

 私は雅男に近寄って、その脇に卓上ポットを起くと、雅男に顔を近づけた。雅男はやはりピクリともしない。

「雅男」

 とてつもない不安が、私の中に湧き上がってきた。

「雅男」

 私は叫んだ。

「雅男」

 雅男の体をゆすり叫ぶ。しかし、反応はない。

「あああ」

 私は雅男の体に突っ伏した。

 その時、突然、倒れていた雅男が目をぱちりと開け、ゾンビ映画に出てくる突然復活するゾンビのように、むくりと垂直に上半身を起こした。

 そして、雅男は近くにあった私が置いた卓上ポットを無言のまま手に取った。

「うをわぁ~」

 そして、雅男は私にそれを振り下ろした。雅男の振り下ろした卓上ポットが私の額に思いっきり命中した。

「うわっ、ああ」

 私の額からものすごい勢いで血が噴き出した。

「俺はお前が・・、お前が、好きなんだ。堪らなく好きなんだよぉ~」

 さらに雅男は、狂った獣が発する奇声のような声で、猛烈に叫びながら私に掴みかかってきた。

「好きなんだぁ~」

 血だらけの雅男が叫ぶ。そして、叫びながら私を殴る。

「好きなんだぁ~」

 雅男は殴り続ける。

「てめぇー」

 血を噴きだす私は、そこで完全に何かが切れた。私は近くにあった底に重しの付いた置時計を掴んでそれを思いっきり横に振った。それが雅男の右頬に当たって、歯が何本かぶっ飛んだ。そして、さらにそれを思いっきり雅男の頭上から振り下ろした。

「うがぁっ」

 雅男が叫ぶ。

「うをぉぉ~」

 私は体勢の崩れた雅男に向かって突進し、掴みかかると、再びマウントポジションを取った。雅男はそれでも下から腕を伸ばし私の首を絞めてきた。私は、そんな雅男を、上からこぶしで思いっきり何度も何度も殴りつけた。

「私だって・・、私だって・・、好きなんだよぉ。堪らなく好きなんだよ。あなたの事が・・、どうしようもなく好きなんだよ」

 私は泣きながら、雅男を殴り続けた。

「好きなんだぁ。好きなんだよぉ~」

「俺だって、俺だって、お前が好きなんだぁあああ」

 それでも食いしばった歯から血を泡立たせ、雅男は下から私の首を絞め続けてくる。

「ぐぐぐっ」

 私の意識は徐々に薄れ・・、私は光を見た――。  

 懐かしい光景が広がっていた。そこには笑顔の兄がいた。元気だった頃の母と父がいた。唯が笑っていた。シヴァがいた。純朴だった頃のカティがいた。その横にはにかんだティマもいた。

 私はその光の中に吸い込まれるように、入っていった。そこはとても温かかった。得も言われぬ幸福が私の全身を包み込んだ。

 尼僧の、あのやさしい目が私を見つめていた。

「許すのです」

 あのやさしい声が、私の頭の中に響いた。

「あなたはもう十分苦しんだでしょう」

 尼僧は微笑んだ。

「許してあげなさい・・」

 ―――あなた自身を―――

 チリン、チリン

 その時、ティマのくれた魔よけの鈴が鳴った。

 気付くと、私は雅男に馬乗りにされ首を絞められていた。私は泣いていた。私の目からは、溢れるように涙が流れ落ちていた。でも、それは温かい涙だった。

 私は微笑んでいた。殺されかけているのに、私の口元には温かい微笑みがあった。私の心はそのもっとも深いところから、得も言われぬ温かい愛が溢れ、その愛に包み込まれていた。

「許すのです」

 その時、あの尼僧の声が聞こえた。

 その瞬間、私は、世界の全てを、私の人生の全てを許せる気がした。

「私を殺して・・」

 私は言った。それはまったく嘘ではなかった。心の底からそう思った。雅男の腕の力が緩んだ。

「私はあなたを許すわ」

 殺されかけているはずの私の胸には温かな、とても温かなやさしい気持ちが溢れていた。雅男の全てを、雅男の苦しみの全てを、私は温かな光で、圧倒的な大きさで包み込んでいた。私は殺されてもいいと思った。例え殺されても雅男を許せると、心の底から思った。

「許すわ。あなたの全てを」

「うをぉーああー」

 雅男は叫び、私の首から手を離し立ち上がると、ベランダの方に突進して行った。そして、そのまま窓を突き破り、あっと思う間もなく、そのままベランダを飛び超えて雅男は消えた。

「あっ、ああ、ああ・・」

 私は何か叫ぼうとしたが、言葉にならなかった。

 そこから、私の意識は断片的に灰色でスローモーションのように流れていった。

 誰かが叫んでいる。悲鳴、救急車のサイレン。茫然と立ち尽くす私。

 どうやって下まで下りて行ったのだろうか。下に降りてゆくと、すでに雅男の周りを近所のやじ馬共が取り囲んでいた。

「あああ」

 私はそこまで飛んで行って、野次馬を突き飛ばし、掻き分け、血まみれの雅男を抱きしめた。

 雅男は死んでいた。

「ああああ、あああああ」

 何をどう受け止めていいのか分からなかったが、でもそれは確かに私の手の中にあった。死が、雅男の死が今この手の中にあった。

「ああああああぁ」

 私はまた大切な人を失ってしまった。また、また・・、

「うう、うう」

 私の口から言葉にならない呻きが漏れた。

「ううううう・・・」

 雅男の左の頭部からトポトポと脳みそが漏れ出ていた。私の全身は震え、涙が溢れた。

 雅男は動かなかった。動かなかった。ただ動かなかった。動くということの対局の世界で固まってしまっていた。私の中には雅男のその重厚な重みだけがあった。

「見るなぁー」

 私はやじ馬たちに向かって叫んだ。どこから声が出ているのか、自分でも驚くような奇異な声だった。

「見るなあー、見るなあー」

 私の大切な人のこんな姿を見ないで欲しかった。

「見るなぁー、見るなぁー」

 涙がさらに溢れた。私は泣いた。泣いて叫んだ。

「見るなあー、見るなぁー」

 私はもう、狂ってしまいそうだった。いや、もう狂っていた。

「見ないでください・・・、見ないでください・・・、うううっ、うううっ・・」

 震える全身で雅男を必死で抱きしめた。雅男を力の限りきつくきつく抱きしめた。やじ馬たちは、私と雅男をただ冷たく黙って見つめていた。

「ううう、ううう、見ないで・・見ないで・・ください・・・」

 漏れ出た脳みそを私は必死で雅男の頭の中に何度も戻し入れた。何度も何度も。たくさんの奇異な冷たい視線がそんな私を見つめていた。

「雅男、雅男」

 でも何度入れても、何度入れてもまだ温かいそれはぬるっと私の掌に戻って、そして地面に落ちてしまった・・。


 ―――暗くなった誰もいない病院の待合室の受付の下で、私はうずくまり、ピンク色の古い公衆電話から受話器を線いっぱいに伸ばし、マコ姐さんに電話していた。

「おいっ、どうした。おいっ」

 電話の向こうでマコ姐さんが叫んでいる。私はもう心が壊れてしまいそうだった。全てが、私の全てが壊れてしまいそうだった。

「私、もうダメだ」

 それだけ言うのが精いっぱいだった。

「お前、今どこにいるんだ」

 マコ姐さんは直ぐに来てくれた。

「私が雅男を苦しめていた。私が・・」

「お前だって苦しんだじゃないか」

 マコ姐さんは泣きじゃくる私を、黙ってその胸に抱き寄せてくれた。

「私は何も分かっていなかった。雅男の苦しみを・・、雅男はとても苦しんでいた。とても・・」

「・・・」 

「わたし・・・、私が不幸にしている。私が不幸なんじゃなくて、私がみんなを不幸にしている。みんな・・・、みんな・・・、カティもティマも・・・、村の人も・・・、お父さんもお母さんも・・・、唯も・・・、雅男だって私が・・・、」

「そんなこと無い。そんなこと無い。お前は一生懸命やってる。お前のせいじゃない。お前のせいじゃない。お前は一生懸命やってるよ」

 マコ姐さんはそう言って、私をやさしく子供をあやすみたいに軽く揺らしながら抱きしめてくれる。

「ううううぅっ、うううっ」

 私はマコ姐さんの胸の中で号泣した。

「わああああっ、わああああ」

 思いっきり思いっきり、全身で泣いた。


「最初に会った時も、マコ姐さんに慰めてもらいましたよね」

 さんざんに泣きじゃくった後、少し落ち着いた私は、マコ姐さんの胸の中に子供のように身を委ねていた。

「そうだったな」

 マコ姐さんの胸はどこまでも温かく、そして大きかった。

「お前はいつも一人で抱え込んで、限界まで頑張って・・」

 マコ姐さんは温かくどこまでも温かく私を抱きしめていてくれる。

「ほんとにお前はやさし過ぎるよ・・」

 マコ姐さんは、私をやさしく見つめながら言った。



               愛憎篇・おわり

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

神様は明後日帰る 第5章(愛憎篇) ロッドユール @rod0yuuru

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ