第19話 再び・・
「じゃじゃ~ん。今日は雅男の好きな、寄せ鍋だ」
私は鍋の蓋を開けた。そこからもうもうと湯気が上がり、グツグツと踊る野菜や鶏肉や牡蠣がおいしそうに揺れていた。
「あっ、帰って来た」
玄関で音がした。
「いつもタイミングいいな」
私は笑顔で立ち上がった。しかし、その音はなんだかおかしかった。何かが大きくぶつかる音がする。なんだか嫌な予感がした。
私はリビングの扉を開けた。
「・・・」
嫌な予感は、その通りになった。雅男はまたしたたかに酔っぱらっていた。
「雅男・・」
雅男は玄関脇に倒れるようにして一人悶えていた。
「はい、お水」
私は雅男をリビングのソファまで連れて行くと、コップの水を持って来て渡した。雅男はそれを黙って受け取り、一口だけ飲んだ。
「大丈夫?」
私が恐る恐る声をかける。
「俺が周りからなんて言われているか知ってるか」
「えっ」
「俺がなんて言われているか知ってるか」
雅男が私を睨んだ。私は、恐怖に固まった。あの目だった。あの時の目がそこにあった。私は首を横に振った。
「恋人に体売らせて、人助けしてるってな」
「・・・」
「女を犠牲にして、自分だけいいカッコしてるってな」
「・・・」
「俺は何も言えなかったよ」
「・・・」
私は体を強張らせ、うつむいていた。
「聞いてんのか」
「ごめんなさい・・」
雅男のものすごい怒鳴り声に私は身を小さくした。
「ごめんなさいじゃねぇんだよ」
「・・・」
「そういうことじゃねぇんだよ」
雅男は悶えるように叫ぶ。
「そういうこと言ってんじゃねぇんだよ」
「ごめんなさい・・」
私は怯えながら小さく言った。私にはそう言うしかなかった。
「だから、ごめんなさいじゃねぇだよ」
雅男はそう叫びながら、私の髪の毛をわしづかみにして、頭を力いっぱい振り回した。
「そうじゃねぇんだよ」
「やめてっ、痛い」
私がそう叫んでも、雅男のすごい力は私を圧倒し振り回した。
「そういうこと言ってんじゃねぇんだよ」
雅男の叫び声は、圧力を増した。
「なんとか言え」
「暴力だけはやめて」
私が雅男を睨むように見て、どこからその力が湧いて来たのか毅然と言うと、雅男の手は一瞬止まった。
「暴力だけはやめて」
私は思いっきり叫んだ。雅男が怯むのが分かった。
「叩くのはやめて」
「うううっ」
雅男は呻きながら固まっていたが、自分の中の何かを打ち破るみたいに再び右手を上げ、ものすごい形相で、それを振り下ろした。そして、私の右頬に熱い痛みが走った。私が雅男を見る。雅男も負けずに私を見下ろしていた。
私の頬を生ぬるい涙がゆっくりと滑り落ちていった。
「お前は何も分かっちゃいない。何もだ。何も分かっちゃいないんだ。何もだ」
そう言いながら、雅男はそれから何度も何度も右手を振り上げた。
「うううっ、うううっ、殴らないで・・、うううっ、もう・・、叩かないで・・」
気づくと、私は怯えた子供みたいに壁の隅にうずくまり泣いていた。私はもう抵抗する気力も失っていた。ただ、身を小さくしてもうそれ以上逃げようのない壁の隅に固まっていた。
「ううっ、ううっ、エックッ・・、ううっ、叩かないで・・」
私はただ繰り返し哀願していた。子供みたいに泣きながら、必死に哀願していた。
「叩かないで・・、お願いだから・・、叩かないで・・、うううっ、もう、叩かないで・・」
その時、雅男は、急にはっと我に返ったみたいに大人しくなった。
「叩かないで・・、お願い・・もう・・」
「・・・」
雅男は、信じられないものでも見たみたいに、目の前の光景に愕然としていた。そして、私を見下ろし、立ち尽くしたまま震えた。
「・・・」
しばらくして、雅男はその場に耐えられなくなったのか、慌てて自分の部屋に行ってしまった。
「うううっ」
私は一人取り残されたリビングで泣き続けた。
「うううっ、もう叩かないで・・、うううっ―――」
「なあ」
「はい?」
私は隣りのマコ姐さんを見た。
「あっちの仕事は順調なのか」
「えっ」
「ほら」
「ああ、はい、順調ですよ」
「そうか」
「なんでですか」
「まあ、なんとなくな」
「どうしたんです?」
「うん」
マコ姐さんはなんだかいつもと様子が違っていた。
「どうしたんです?」
「うん」
私たちは、これから仕事というけだるさの中で、いつものように夕暮れに染まるビルの屋上でタバコを吸っていた。
雅男に殴られた壮絶な体験の、もうその次の日にはなんてことないいつもの日常があった。まるでなんでもなかったみたいに、夢でも見ていたみたいに、それは平穏にそんな事実とは関係なくただ当たり前にそこにあった。
やはり雅男は、次の日になると私に土下座して必死で謝った。そんな雅男を見ていると、なんだかかわいそうになって、私は許してしまう。それも前と一緒だった。
「どうしたんですか」
「いや、あたしもやろうかなって」
「ぶっ」
私は吸っていたたばこを噴き出した。
「どうしたんですか」
私は目を丸くしてまじまじとマコ姐さんを見た。
「まあな、なんとなく。面白そうだなって」
「どうしたんですか。なんか変ですよ」
「まあ、なんとなくな。こういう時ってあるんだよ。なんかたまに、突然、なんとなく・・、なんか日常がつまんなくなっちまってさ。なんか新しいことないかなって感じにさ・・、季節の変わり目とかさ・・、なんかな・・」
「はあ」
マコ姐さんは無気力に煙草の煙を風に乗せて、ぼーっと、夕暮れを見つめていた。
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