水中の青空

猫柳蝉丸

本編

「ほら、肉食えよ、肉。せっかくのバーベキューなんだから」

 兄貴が僕の取り皿に次々とお肉を積み上げていく。

 僕はそんなにお肉が食べられる方じゃないんだけど、それでも少し嬉しい。

 兄貴が僕の事を気にしてくれてる事が分かるから。

 兄貴、少し横に大きいけれど背が高くて角張った体型が男らしくて羨ましい。

 弟の僕とは全然違う逞しさに惚れ惚れすると同時に、自分の貧相さが悲しくもなる。

 まあ、母さんが再婚して出来た兄貴なんだから、体格の違いは当たり前なんだけど。

 四年前、母さんが再婚して兄貴が出来てから僕の人生は一変した。

 過去の僕に、未来の僕が兄貴とビーチパーティーをするくらいアクティブになってるって伝えても信じないと思う。それくらい過去の僕は根暗だった。具体的に言うと食玩を集める事くらいしか趣味が無いくらい根暗だった。外出する時はいつもヘッドフォンを着けて音楽を流して、誰にも声を掛けられない様にしてたくらいに。世界と自分とをいつも遮断するくらいに。

 そんな僕が今はどうだろう。

 真夏の昼間、ビーチパーティーでバーベキューをするくらいにまでなるなんて。

 本当に夢でも見ているみたいの違いだ。

「僕を気にしてないで兄貴も食べなよ、お肉、いっぱいあるんだからさ」

「そうそう、一番食べたいのは晃君の方でしょ?」

 真里菜さんが苦笑しながら兄貴の取り皿にお肉を載せていく。

 付き合って半年も経っていないはずだけど、真里菜さんはもう兄貴の事をよく分かってるみたいだ。髪が長くて華奢で清楚な感じの真里菜さんなのに、豪快で男らしい兄貴とは上手くいってて不思議だった。男と女って言うのは意外とそういうものなのかもしれない。

「載せてもらった分はちゃんと食べなさいよ」

 凛ちゃんが何故かジト目で僕の方を睨んで言う。

 凛ちゃんの方こそお肉が食べたかったのかな?

「ごめんね、次に焼けた肉は凛ちゃんに優先して食べさせてあげるから」

 頭を掻きながら微笑むと、凛ちゃんは短い髪をなびかせて僕の脛を軽く蹴った。

 痛くはなかったけど理不尽で意味不明だった。

 姉妹でもお姉さんの真里菜さんとは全然違ってるんだよね。

 中学生の女の子のする事はよく分からない。

「おっ凛ちゃんマジで雄一の事が好きだな」

「そんなんじゃないから!」

 兄貴がからかうと凛ちゃんはまた僕の脛を蹴った。今度はちょっと痛かった。

 どうして僕が蹴られなくちゃいけないんだろう。

 中学生の女の子の考える事は本当によく分からない。

 それでも気付けば僕は笑ってしまっていた。

 楽しいビーチパーティー。笑い合える大切な人達。本当に、夢みたいだ。

 こんな夢がずっと続けばいい。心の底からそう思った。



     ▽



 僕には好きな人が居る。

 こんな気持ちになったのは初めてだった。

 その人の為なら何だって出来るし何だってしてあげたい。

 そう思えるくらい僕はその人に夢中になった。

 その人の隣でずっと笑い合えたらどんなに幸せだろう。

 叶わない想いだって事くらいは分かってる。

 少し明るくなったとは言え、僕は根暗で冴えなく貧相な身体つきの男に過ぎない。

 それ以上に、その人には既に素敵な恋人が居るから。

 僕はこの想いを心の底に留めるんだ、皆が幸せなままで居られるために。

 だから、僕はヘッドフォンを着け続ける。

 世界と自分を遮断するためじゃない。

 僕自身が世界の中に無理なく溶け込めるために。



     ▽



「ごめんなさいね、雄一君」

 バーベキューの片付けをしていると、真里菜さんが急に苦笑して言った。

「凛も悪気は無いと思うの」

「そう……なんですか?」

「ええ、うちって二人姉妹でしょ? 歳が近い男の人とどう接していいか分からないだけだと思うんだけどね。まあ、それにしてもあんなに蹴らなくてもとも思うんだけれど」

「気にしてませんよ」

 嘘じゃなかった。

 蹴られるのは好きじゃないけど、凛ちゃんの事は嫌いじゃない。

 妹が居たらこんな感じだったんだろうな、って微笑ましくなっちゃうくらいには。

 ちょっと視線を向けてみると、凛ちゃんは兄貴とビーチバレーをしているみたいだった。

「あの子ったら片付けくらい手伝えばいいのに」

 真里菜さんは頬を膨らませるけれど、僕は苦笑しながら凛ちゃんを擁護する事にした。

「片付けなんて得意な人間がやればいいものですから。残りは僕が片付けますし、何なら真里菜さんも兄貴達とビーチバレーしてても構いませんよ?」

「そういうわけにはいかないでしょ、お姉さんなんだから」

 そう言って、真里菜さんが僕の額を軽く人差し指で小突いた。

 どんな形であれ身体的接触が多いのは、この姉妹の特徴なのかもしれない。

「それにしても雄一君」

「何ですか?」

「前から思っていたけれど、雄一君って凄く落ち着いてるわよね。何だか晃君の方が逆に幼く見えるくらいよ」

「根暗なだけですよ。あんまりアクティブじゃないってだけです。でも、真里菜さん、兄貴の幼く見えるくらい元気で活発なところが好きなんでしょ?」

「まあ、そういう事も言っちゃうタイプなのね、雄一君って」

「意外でしたか?」

「いいえ、そんな雄一君、とても魅力的だと思うわよ?」

「ありがとうございます」

 恋人でない男を褒めながらも真里菜さんの笑顔には屈託が無い。

 そんな嫌味の無い優しさを持った人なんだろうと僕は思った。

 本当に、兄貴とお似合いの人なんだ。

 僕はそれを深く実感して、頭に載せているヘッドフォンに手を当てた。

 子供の頃から手離せない僕の相棒。

 代替わりを何度も重ねながらも、それでも僕はヘッドフォンを手放せない。

「もう一つだけ訊いてもいい?」

「いいですよ」

「雄一君、いつもヘッドフォンで何を聴いているの?」

「単なる環境音ですよ。聴いてみますか?」

 僕があまりにも簡単にヘッドフォンを外すのに面食らったのだろう。

 真里菜さんは少し動揺した表情でかぶりを振った。

「大丈夫よ、少し気になっただけだから。けれどどうして環境音なんて聴いているの?」

「落ち着くんです」

「落ち着く?」

「ええ、ちょっと根暗なタイプなんで、いつも落ち着いておきたいってだけなんですよ」



     ▽



 片付けを終えて海岸を歩く兄貴と真里菜さんを見ていると、兄貴とのビーチバレーを終えた凛ちゃんが不機嫌そうな表情で寄って来た。真里菜さんを兄貴に取られたのが悔しかったのだろうか。それとも兄貴を真里菜さんに取られたのが悔しかったのか。そのどちらなのかは僕には分からない。

「お姉ちゃんと何を話してたのよ」

「別に何でもない話だよ」

 頬を膨らませた凛ちゃんの満足いく答えかもしれないけど、嘘じゃなかった。

 僕と真里菜さんは本当に別に何でもない話しかしていない。

「本当に?」

「本当だよ、嘘をつく理由なんかないじゃないか」

「ふうん……」

 黄色いワンピースの水着の前で、凛ちゃんが腕を組んで首を傾げる。

 そんなに僕の言葉に信用が無いんだろうか?

 ビーチパラソルの下に入ってから、凛ちゃんが僕の隣に座って言った。

「雄一君はさ」

「うん」

「お姉ちゃんの事が好きなの?」

「どうしたの、藪から棒に」

「だって仲良さそうだし、気も合ってる感じじゃない」

 それはそうかもしれない、と自分でも思った。

 豪快な兄貴と清楚な真里菜さんが付き合ってると考えるより、大人しい僕と真里菜さんの方がお似合いのカップルだと考える方が中学生の凛ちゃんには自然なのかもしれない。僕だって中学生の頃は自分によく似たタイプと付き合いたいと思っていた。

 それでも、男と女はそう単純なものでもない。

 僕はそれをどうにか噛み砕いて凛ちゃんに説明する事にした。

「僕は確かに真里菜さんの事が好きだよ。恋愛とか略奪愛って意味じゃない。兄貴の恋人として好きだって意味なんだ。凛ちゃんにはまだ分からないかもしれないけど、気が合うから恋人になるってわけじゃないんだ。正反対に見える二人の方が付き合うに相応しい事だってあるんだよ」

「雄一君、無理してない?」

「無理してないよ、どうして?」

「だって雄一君、たまに悲しそうな顔してるじゃない」

 驚いた。意外によく見てるなって思った。

 確かに僕はたまに悲しくなる事がある。悲しそうな顔をする事だってある。

 だけどそれは凛ちゃんが考えているような意味じゃない。

「悲しい顔をしている時があるのは認めるよ」

「ほら」

「でもね、兄貴と真里菜さんが付き合ってるから悲しいわけじゃないんだよ。色々な事情があってね、それで悲しくなる事くらいあってもいいだろう?」

「色々な事情って何。そんなので誤魔化されないから」

「誤魔化してない……って言っても凛ちゃんには信じられないよね。だから、教えてあげるよ。でも、あんまり誰にも知られたくない事だからさ、この事は他言無用で頼むよ」

「……分かった」

「兄貴がね、大学を辞めるって言ってるんだ」

「えっ……」

「義父さんの事業の調子が悪いらしくてさ、大学の学費がかなり負担になってるみたいなんだよ。それで兄貴が大学を辞めて働くって言ってるんだ。『俺は馬鹿だから、俺より雄一の学費に金を使った方がいい』って。僕の為に大学を辞めようとしてるんだ。兄貴にだって学校の先生になるって夢があるのに」

 突然の現実に凛ちゃんが目を伏せる。

 生々しい事情に踏み込んでしまった負い目があるのだろう。

「……ごめんなさい」

 消え入りそうな言葉で凛ちゃんが謝ってくれた。

 だけど、それは別に凛ちゃんが悪いわけでもない。

「謝らなくていいんだ、凛ちゃん。むしろ中々言い出せなかった僕の方こそ悪かったね、勘違いさせるような事をしちゃってて。だから、安心して、凛ちゃん。僕は兄貴と真里菜さんの仲を邪魔しようなんて全く考えてないんだ。逆にこれから大変な兄貴を支えてもらいたいと思ってるくらいなんだよ。そっちの方が大変かもしれないけど、凛ちゃんも兄貴と真里菜さんの仲を応援してくれるかい?」

「それは応援する……応援するよ、雄一君、当たり前じゃない」

「ありがとう、凛ちゃん」

「でも、雄一君、それなら私……」

「何だい?」

「私も……、役に立ちたいな。ねえ、雄一君、私も雄一君と一緒に何か出来る事無い?」

「気にしないで、凛ちゃん。気持ちだけで十分だよ」

「で、でも、私は雄一君が……、雄一君と……」

「本当に大丈夫なんだよ、凛ちゃん。凛ちゃんは凛ちゃんで楽しい中学生活を送ってほしい。それが僕の望みだよ」

「雄一君……」

 凛ちゃんの瞳が涙で潤んでいる事は分かっていた。

 僕の言葉を拒絶と受け取ったのだろう。

 それでも、僕は凛ちゃんを抱き締めて慰めたりはしなかった。

 そんな残酷な事なんて、僕には出来ない。

 だから僕は何も言わず凛ちゃんの隣に座って青い空を見上げるだけだった。



     ▽



「兄貴」

「おお、どうしたんだ、雄一」

「ちょっとした確認に来ただけだよ」

「そうか、何だ?」

「今日は兄貴が運転して帰るんだよね?」

「おお、そうだぞ。その為にビール飲みたいのを我慢して肉だけで辛抱してたんだ」

「意外に我慢強いよね、兄貴は」

「意外とは何だ、意外とは」

 兄貴が僕の肩に腕を回してから軽くヘッドロックを極める。ヘッドフォンを見事に避けて極めてるのが熟練の技って感じだ。兄貴と兄弟になってから何百回と極められているんだ。ある意味では当然かもしれなかった。

 しばらく後、技を解いた兄貴は姉妹で泳いでいる真里菜さん達を見ながら言った。

「俺には勿体無い彼女だよな、真里菜」

「そうだね、いい人だよ、真里菜さんは」

「凛ちゃんもな」

「うん、凛ちゃんもいい子だよね。二人と知り合えてよかったよ」

「凛ちゃんと何を話してたんだ?」

 意外に観察眼がある兄貴の事だ。僕と話した後の凛ちゃんの様子がおかしいのに気付いたんだろう。僕は何も隠さずに素直に話す事にした。

「凛ちゃんに、真里菜さんの事が好きなんじゃないかって疑われたよ」

「好きなのか?」

「好きだよ、兄貴の恋人としてね」

「凛ちゃんはそれを信じてくれたか?」

「それならどうして悲しい顔をしてるのって言って信じてくれなかったから、義父さんの事業が傾き掛けてる事を話しちゃったよ。ごめん、兄貴に断りもしないで」

「いいさ、いつかは話さなきゃいけない事だしな」

「兄貴は……」

「どうした?」

「兄貴は、本当に大学を辞めるの?」

「ああ、何度も話し合ったはずだろ? 大学に残るのはおまえの方がいいって」

「それなら、兄貴の夢は……」

「俺の夢の事はいいさ。兄貴だからな。自分より弟の夢の方が大切なのは当たり前だよ」

 そう言った兄貴の顔に後悔は感じられなかった。

 さっぱりした顔で、僕の事を一番に考えてくれる優しい兄の顔。

 それはとても嬉しくて、幸せで、切なかった。

 自分にそれほどまでの価値があるなんて、とても思えなかった。

 こんな嘘ばかりの僕に。

 僕が俯いているのを慰めるつもりだったんだろう。兄貴は軽く僕の頭を叩いてくれた。

「気にするなって、親父の仕事も俺の夢のもう一つなんだ。教師になるほどじゃないけど、親父の事業の手伝いだって全然悪くない。軌道に乗ったら雄一の小遣いだってもう少し増やしてやれるかもしれないぞ?」

「そんな……そんな事より……」

「何だ?」

「ううん、分かってるよ、兄貴の決意は覆らないって事くらい」

「そうだな、俺は親父譲りの頑固者だからな!」

「兄貴ってば本当に……」

「それより雄一、おまえ海でもやっぱりヘッドフォンなんだな」

「うん、習慣になっちゃってるからね、手放せなくて」

「何を聴いてるんだったか……、何とかのゆらぎだっけか?」

「そうだよ、兄貴。根暗だからさ、いつも聴いておきたいんだよ」

 そうだ、僕はヘッドフォンを手放せない。

 手放してしまったら、聴かなくなってしまったら、どうなるか自分でも分からない。

 人間の精神を安定させる効果を持つ周波数のゆらぎ。

 1/fゆらぎを。



     ▽



 そうして、僕は青い青い海を一人で泳いでいく。

 泳ぎは得意ではないけれど、浮き輪代わりのゴムボートを使えば沖まで泳げなくもない。

 泳ぐ。

 泳ぐ。

 ヘッドフォンから流れる1/fゆらぎで心を安定させながら泳いでいく。

 五分くらいは泳いだだろうか。

 海岸に居る兄貴達を遠目に見つけてからゴムボートによじ登る。

 ゴムボートに積んでおいた水筒を持って一息つき、青空を見上げる。

 青い海の上の青い空、何だか涙が出そうになるくらい綺麗だった。

 だけどまだ目的を果たしたわけじゃない。

 僕は涙が出そうになる目元を拭って、水筒に耳を寄せる。

 とても聞き心地が良いとは言えない飛行音を耳にして、僕は安心した。

 水筒の中には三日前に苦労して捕まえたスズメバチが入れてある。

 僕はこれから水筒の中のスズメバチの毒針に自分から刺される。昔、一度刺された事があるから、もしかしたらアナフィラキシーショックが起こるかもしれない。それなら一発で死ねるけれど、別に起こらなくても構わない。海の沖でスズメバチに刺されてしまうと言うアクシデントこそが必要なだけだから。そう、スズメバチに刺された事に動揺して海に落ちてしまうってだけでも死んでしまう理由には十分なはずなんだ。

 僕はこれから死ぬ。自殺ではあるけれど、そうと知られてしまうわけにはいかない。

 兄貴に夢を諦めてほしくないってのは勿論ある。僕がスズメバチに刺されて死んでしまうって事故を装えば、それが自殺とまでは保険調査員も気付かないはずだ。それで僕の家に僕の生命保険が振り込まれて、兄貴が大学を辞める必要性も失われる。その為に母さんに無理を言って新しい生命保険にサインしてもらったんだ。何が起こるか分からない世の中だからこそ念の為にって無理矢理説得して。

 だけど、それは自殺の動機の一つに過ぎない。

 僕が死にたい本当の理由は、これ以上兄貴の幸せな姿を見たくなかったからなんだ。

 兄貴の事が嫌いなんじゃない。

 真里菜さんの事が嫌いなわけでもない。

 凛ちゃんだって嫌いじゃない。

 皆の事が好きだからこそ、僕は死ななくちゃいけないんだ。

 僕は兄貴の事が好きだった。根暗でヘッドフォンを着けて外界との接触を遮断してばかりの僕を救ってくれたのは兄貴だった。兄貴は誰かと一緒に居る楽しさを教えてくれた。誰かを好きになる喜びを教えてくれた。兄貴の弟になれて幸福だった。

 真里菜さんと付き合い始めた時には、祝福出来ると思っていた。

 この兄貴への想いは閉じ込められると思っていた。

 だけど、駄目だった。兄貴の幸福そうな姿を見る度に身が引き千切られそうだった。

 真里菜さんが嫌な女だったらまだ救いがあったかもしれない。それでも真里菜さんは素敵な女性で、女の人を恋愛対象として見れない僕から見ても魅力的で、憎む事なんて出来そうもなかった。兄貴を支えてくれる最高の女性だった。

 だから僕は、死ななくちゃならない。

 このままだと僕は全てを壊してしまうかもしれないから。

 兄貴も、真里菜さんも、凛ちゃんも、家族でさえも。

 それを抑えるために僕はヘッドフォンに新しい役目を与えた。

 1/fゆらぎ。精神を安定させる周波数。プラシーボかもしれない。それでも僕は長年一緒に居た相棒のおかげで、どうにかその嫉妬心を一時的には抑える事が出来た。けれど、それが長く続くとは思えない。いつしか1/fゆらぎを遥かに超える憎悪や嫉妬心が僕の身を焼かない自信は無い。

 だから、僕は、死ぬのだ。

 1/fゆらぎで自分を抑えられる内に。1/fで自殺への恐怖を抑えられる内に。

 今日のビーチパーティーは楽しかった。最後の晩餐に相応しかった。もう迷いは無い。

 この楽しかった記憶を胸に、僕はこれから何もかもを海の中に沈める。

 兄貴を好きだって想いも、真里菜さんを憎みたかった気持ちも、凛ちゃんの悲しそうな表情も、空を見上げながら大量の海水で包んでしまうんだ。僕が憎しみと後悔の獣と化してしまう前に。

 ありがとう、兄貴。

 僕は兄貴の弟になれて幸せだった。愛してた。僕の事なんて忘れて幸せになってほしい。

 さようなら、真里菜さん。

 真里菜さんは素敵な女の人です。兄貴をずっと支えてくれると嬉しいです。

 ごめんね、凛ちゃん。

 僕は君の気持ちには応えられなかった。ひどい事をしたと思ってる。だから、ごめん。

 僕は深呼吸して、最期の1/fゆらぎに耳を傾ける。

 大丈夫、1/fゆらぎのおかげか分からないけれど、死への恐怖はそんなに無い。

 後は恐怖が湧き上がる前に、憎しみに呑み込まれる前に、この命を終わらせるだけだ。

 僕はそうして、

 手の中に握っていた水筒の蓋をゆっくりと開いて、

 自らの手のひらで、

 水筒の注ぎ口を、

 塞いだ。

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水中の青空 猫柳蝉丸 @necosemimaru

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