戦業主夫
碓氷彩風
その男、主夫
「その男、主夫」・1
―1
主夫はグレーの割烹着に身を包み、昼食の準備を進めていた。
上背は無いが、無駄のない体格の持ち主であることは、捲った袖から出る、二本の腕を見れば明らかだ。その腕と、ゴツゴツした固そうな手を使って、主夫は不器用にフライパンを振るう。
カセットレコーダーから流れる年代物のロックを口ずさむが、微妙にリズムに乗れていない。
「♪~The eye of the……焦げたぁ?」
フライパンの中身をかき混ぜ、焼け具合を確かめる。菜ばしで摘んだキャベツの表面が僅かに黒く見えた。
ほんのわずか。体に入れても、ただちに影響は無いレベルだ。
たぶん、大丈夫。
己に言い聞かせて『コッコ堂』の出来合い中華ソースを流す。
火力を上げて、キャベツ、モヤシ、ピーマンにソースを馴染ませていく。
不意に、煮えたソースが手に飛び跳ねた。
「熱っ!?」
引っ込めた手で耳たぶを触った。
「……一人なのに、賑やかだな」
後ろから声が掛かった。振り返ると、妻が立っていた。
タンクトップと半ズボンを、しなやかな体にまとい、首にタオルを掛けていた。
肩まで伸びた黒髪はほんのり濡れ、窓から差す陽光の中で艶やかに輝いている。
「昼メシは?」
妻が尋ねた。切れ長の目、彫像のように深く整った目鼻立ちが怜悧な鋭さと、中性的な美しさを際立たせた。
「特製ホイコーロー」と、主夫が答える。
妻とは対照的に、彼はすっきりした顔立ちをしていた。温和な微笑みと相まって、優しさと穏やかな雰囲気を全身から放っていた。
「ふうん」と鼻を鳴らしながら、妻はフライパンへ目を向ける。
「肉、入ってないぞ」
「肉無しだから『特製』が付いてるの」
ぽややんと主夫は答える。
「回鍋肉のアイデンティティは?」
「昨日、マドカさんがお酒に酔った勢いで食べちゃったんでしょう」
沈黙。妻のマドカはあさっての方角へ顔をそらす。その間にユキは特製ホイコーローを皿に盛り付け始めた。
「フムン。今日の野菜炒めは美味そうだ」
腕を組み、マドカは言った。
「ホイコーローなんだけどなぁ」
食い下がる主夫、ユキ。
「うるさい。肉の無い回鍋肉を、ワタシは回鍋肉とは認めない!」
二人が問答を繰り広げているところに、玄関のチャイムが鳴った。
数分後、応対に出たマドカは、一人の少女を連れて、居間に戻ってきた。
痩身で小柄。まるで人形が歩いているようだった。アーモンドのように大きな目を左右に動かしている。
白い七分袖のワイシャツに、黒いキュロットは、地元の高校の制服だった。
少女は弱々しい声で、ユキに言った。
「あの……マオ・ユキさんですよね。お仕事の依頼で来ました」
-2
少女はタナバチ・アヤナと名乗った。夏休みを利用して、ひと月前に亡くなった祖父、カデヤカの遺品整理を手伝っているという。
「お店の名前は、カデヤカ古書堂さん?」と、ユキが尋ねた。タナバチが頷く。
「実は片付けの最中に、地下室が見つかったんです。祖父は地下室のこと、誰にも教えず、秘密にしていたんです。だから、誰も鍵の場所を知らないしわそもそも鍵穴も壊れていて、開けられなかった。それが……」
タナバチは、ぎゅっとスカートの裾を握る。
「……昨日の夜、扉が勝手に開いたんです。あたし一人で扉の前で片付けをしていたら、突然……。それで……見たんです。部屋の中で、大きなガイコツが、何かを食べていたんです」
「ふうん……」
キャベツをむしゃむしゃ噛みながら、マドカは相づちを打つ。隣に座るユキには、妻の目が死んでいるように見えた。
「そ、それで。どうなったの?」ユキは続きを促した。
タナバチはそこで気を失い、数分後に目覚めた。扉はしっかり閉まっていた。動いた形跡すら無かった。
「お父さんもお母さんも、見間違いだと言ってましたけど、あたし見たんです!」
「うん。信じたいよ、ボクも。君が見たのを」
と、ユキは頷く。
「無理に調子合わせてるんじゃないのか、お前?」
マドカが茶々を入れる。タナバチが泣きそうになるのを見据え、マドカは僅かに口もとを綻ばせる。
「その反応から察するに、五感で味わった体験は、かなり現実味を帯びていたのかもな。悪かった」
あっさり謝るマドカに、タナバチは面食らった。
「それで?」今度はマドカが水を向けた。
「今朝、祖父の書斎で手紙を見つけました」
少女は鞄から封筒を出した。
表には『真央様』と書かれている。
「地下室は化け物がいて危険だから、開けてはならないと。もしもの事があったら、マオさんに会いに行くようにとも書かれていました。その人は……」
タナバチは口を閉じて、一瞬ためらう。
「化け物退治の専門家だから、何とかしてくれるって。あの……あなたは一体……?」
ユキは三角巾を巻いた頭を掻いた。
「タナバチさん。僕がその……中高生向け伝奇小説の主人公に見える?」
「いいえ」即答。
「夢枕何某の小説に出てくるような、妖怪退治屋みたいには……」
「見えません」これも即答。
だよねえ、とユキは苦笑まじりに呟いた。
「コレは口外法度ってヤツなんだけどね。一応、いるんだ。理屈の通用しない存在が、悪さをしないようにアレコレ処置する職業が。タナバチさんが酷い目に遭ったのも、理屈が通用しない……少し不思議な人たちのせいだね」
「それじゃあ……ユキさんは」
タナバチが目を見開き、身を乗り出す。しかし、ユキは首を左右に振った。
「もうだいぶ昔、仕事で関わってた。でも、ごめん。君の依頼は引き受けられない」
「そんなぁ……」みるみる内に、タナバチの顔が真っ青になっていく。
ユキが続けて詫びの言葉を言おうとした時だった。
「引き受けても良いじゃあないか」
ぶっきらぼうにマドカが言ってきた。
「え?でも、マドカさん。依頼は役所の審査が……」反論しようとするユキ。
「正規の依頼じゃないからと、渋ってるんだろう。そんなの、ワタシから然るべき筋に話を通すだけで済む」
と言って、マドカはホイコーローを、どんぶり茶碗にドサっと載せた。
「それじゃあ、解決してくれるんですね!?」
ぱあっと、タナバチの顔が明るくなる。
マドカは飯をガツガツかき込みながら、
「やれ」と短く言った。
「やるのお?」
そういう事になってしまった。
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