サリユクカコカラニジムヤミ(5)


               ※


 頬に触れる優しい温もりに、自分はゆるりと目を覚ました。


 寝起きのぼやけた視界に映るのは、ナナオ殿の顔。自分の顔を間近に覗き込んでくるような、この状況は…………ああ、なるほど、どうやら、また彼女の膝で甘やかされていたらしい。


 いつもなら、悪戯いたずらな猫その物にこちらを見つめてくる金色の双眸は、しかし、目蓋に閉ざされている。艶やかな唇からは規則正しくも微かな吐息がこぼれていた。

 うつらうつらと小さく揺れている、その様子は、どうやら……。


 寝ている……のか?


 思わず疑問形になったのは、いつもの狸寝入りを疑ったからではない。その逆で、やけに無防備な気配と、呼吸のリズムが、本当に深く寝入っているとしか思えぬのものだったからだ。

 彼女の、寝たフリではない本当の寝顔を見るのは、これが初めてだ。

 頬に触れている彼女の手。いつもはからかうように弄ってくるその指先が、今はそっと触れているだけ。


 ……こうしていると、本当に日向の縁側で猫と戯れている心地だな。


 彼女の柔らかな温もりは相変わらず甘やかで心地良く、自分は確かに癒やされながら……。


 ……いや、そもそもなぜ自分は、彼女の膝で寝転けているのだ?


 再び微睡みに落ちそうになる意識を奮い立て、身を起こした。


 見渡してみれば……ここは、地下鉄ホームの縁台……ベンチか?

 自分でここに横たわった憶えはない。自分は…………確か、ケン殿が屍鬼を屠るのに立ち会ったのだ。

 それから……。


〝……その者の名は、伊佐良木光彦。伊佐良木来光の兄だ……〟


 回想が、疼きと共にわき上がる。


 そうか、あの後、昏倒してしまったのか……。


 そして、ナナオ殿が寄り添い、膝を貸してくれていたのだろう。さて、どれだけの時を無様に昏倒していたのやら。

 窓も無い閉鎖空間のこと、日差しで時を計ることも叶わない。

 時計は、ここには無い。

 正確には、全て破損していることを。あるいは、というべきか……?


 ふと、視界の先を蒼い光が横切った。


 見れば、改札階への階段口に向かって、小さな蒼い蛍火が流れている。目線の高さでヒラヒラと踊るそれは、あの冥府の工房へと誘う灯火だ。


 自分はゆるりと立ち上がる。

 ナナオ殿は……まだ眠っているな。気配に敏な影姫が、ここまで深く寝入っているということは、よほど疲れているのか。

 ならば、それは、昏倒した自分を案じて介抱してくれたがための、気疲れであろう。無理に起こすのは忍びない。


「……暫時、失礼する……」


 そう囁き残して、蛍火を追った。


 誘われるままに、階段路を上る。

 電灯の明かりは消え、代わりにフロアを照らすのは蒼いかがり火。淡く照らし出されたそこには、ズラリと並ぶ武具の数々。

 相変わらず、いつの間にやら展開されたアトリエの光景だが、そういうものだと了解していれば、驚くことでもない。


 薄闇の向こうには、腕組み仁王立ちでこちらを睨みつけてくる、濃紺頭巾の店主……雲井殿。

 今回、彼が陣取っているのは〝総合案内〟〝遺失物取り扱い〟の看板が掲げられている窓口だった。


「毎度、アトリエ〝SHIGURUI〟へようこそだな。この甲斐性無しのタラシ野郎よ」


 イキナリ随分な言われようだった。

 甲斐性無しはともかく、タラシ呼ばわりは心外というか、どういう言い掛かりなのだ?


 疑念と抗議を込めて睨み返すが、雲井殿は何処吹く風よと鼻で笑う。


「そのタラシ振りで、ちゃんと腰の二刀ふたりにも優しくしてやってるか? また無茶させて破損ケガさせましたなんぞぬかしたら、容赦なく鋳溶かすぞ」


 無論、鋳溶かされるのは刀ではなく、自分だろう。


 苦笑いながら、腰の大小を鞘ごと差し出した。


「…………………………………………」


 雲井殿は受け取った二刀をそっと置き、ひと振りずつゆるりと抜き放って、その刀身と機巧を検める。丁寧に、丹念に、それこそ、愛娘の髪を櫛解いてでもいるような真剣な所作だが、実際、彼にとっては正にその通りなのだろう。


〝緋水〟と〝水月〟の二刀。


 かつて自分が不甲斐無くも折り砕いてしまった二刀を素材に、雲井殿が生まれ変わらせてくれたものだ。


「…………ふん、まあ、良いだろう」


 頭巾から覗く双眸が、からくも笑みに細められる。

 この偏屈なる冥府の鍛冶師は、武具を女性と見立て、敬意をもって接するとともに、それを客である自分たちにも要求する。

 無様な刃毀れなど刻もうものなら、閻魔えんまや仁王の如き迫力で責められるのだ。

 前回、二刀をヘシ折ってしまったことは、まっこと言い訳しようもない不甲斐ない大失態。なれば、出会い頭の罵倒程度は、甘んじて受けるべきである。


 幸い、今回は及第点をもらえたらしい。

 そのまま研ぎの作業に入る雲井殿の姿に、正直に安堵の息を吐いた自分だったが……。


「……ふふ、まるで悪戯を叱られる小僧のようだね。天下無双を号する剣客が、実に可愛らしいことだ」


 含み笑うような笑声が、背後から響いた。

 振り向けば、壁に寄り掛かって微笑んでいる黒髪黒衣の姿があった。


 影姫、黒羽根シズカ…………殿。


 いつの間に現れたのか? それとも最初から居たのか?

 いつもながら何の気配も物音もないままに、相変わらずの皮肉げな笑みで美貌を歪ませ、こちらを流し見ている。


 相変わらず……?


 いや、その表情は、何かを堪えているような……。


「どうしたのだ?」

「……ああ、一応、キミに警告をしてあげようと思ってね」


 自分の問いに、彼女は長い黒髪をゆるりと掻き上げて応じる。


「少々、ヤバイ連中がウロついている。鬼号……まあ、要するに〝鬼〟だね。キミも、物語や御伽噺おとぎばなしで見知っているだろう? 概ねその通りに人に害を為し、世界に仇を為す……英雄の仇役たる人外の強者さ。せいぜい、気をつけることだ」


 やや小首をかしげ、斜に構えてわざと見下すような視線を投げてくるその仕種は、殊更に尊大に振る舞っているようで……。


 自分は、シズカ殿の黒い双眸をジッと睨みつける。

 気位の高い彼女が、しかし、睨み返すことはなく、それどころか、いかにもバツが悪そうに視線を逸らした。


 自分はすぐに彼女の前に歩み寄り、改めて間近からその様子を検めてみれば……やはり、その白貌は鬼火に照らされた中でなお青ざめて、薄らと脂汗が滲んでいる。


「…………何だい?」


 視線を逸らしたままに、彼女は問い返す。


「左腕を、動かしてみてはもらえまいか?」


 自分が望めば、途端に彼女は身をよじる。

 右手で自身を掻き抱くようにしたその所作は、こちらを拒絶して身を退くように見せて、その実、左半身をかばっているのが歴然だった。


 この影姫の意固地は、よう思い知っている。

 ならば、問答無用にその左肩に手を添え、こちらに向き直らせた。


「……ぁ……ッ!」


 込み上げた悲鳴を噛み締めたシズカ殿。だが、その視線は抗議に睨み上げてくることなく、斜めに伏せられる。

 それこそ悪戯を咎められる童のようなしかめっ面で、苦しげに汗を浮かべて、唇を引き結んでいる。


「おい色男、無茶すんなよ。影姫様の左肩は重傷だ。一応は霊符で覆ってあるがな、人間でいやあ止血してるだけだ。肩に空いた穴は塞がってねえし、欠片も癒えちゃいねえ」


 窓口から投げられたぶっきらぼうな叱責に、自分は眉根を寄せ、改めてシズカ殿を見やる。


「肩に空いた穴……?」


「……ふん、少し、ヘマをしてしまってね。自分の槍でブッスリやられてしまった。オマケに手持ちの得物は全部砕かれてしまったから。半ベソかいて逃げ出して、新しい武器をねだりにきた。……そのついでに、キミらにも警告してやろうと思っただけだよ」


 やや早口に捲し立てられた内容に、自分はハッキリと驚愕する。

 この黒羽根シズカ殿を敗走させる……それほどに、その〝鬼〟とやらは強いのか?


 鬼────。


 シズカ殿にも言われた通り、自分も物語や御伽噺で見知っている。超常の怪力に、神通力を備えた怪物たち。多くは神仏の加護を受けた英雄たちに退治される悪役。


 そのような存在が、まことに居るのであらば────。


「……やれやれ、強者との闘いを予感した途端に、眼の前に居る私の心配は二の次かい? つくづく、救い難いねキミは……」


 溜め息まじりの抗議。

 ハッと見返せば、黒い瞳が、さも胡乱うろんげにすがめられて、こちらを見上げている。


「あ、申し訳ない……大丈夫か?」

「大丈夫なわけがないだろう? 言った通り、左肩に穴が空いてるんだ。ああ、そうとも、別に心配して欲しかったわけじゃあないさ」


 けれどね────。


ないがしろにされて、喜ぶ被虐趣味でもない。知らなかったかい? この黒羽根シズカの気位は、とても高いんだ……」


 冷たい声音と共に伸びてきた白い右手が、自分の襟首をつかみ、グイと力任せに引き寄せられる。


 間近に睨み上げてくる鋭い黒瞳。


 いや、貴方たち影姫のそういう性分は、ようく思い知っている……が、そう応じたところで、それこそ火に油を注ぐだけだろう。


 なので、自分はただ、神妙に黙したまま。


 黒髪の死神は傷の痛みに息を乱しながらも、込み上げるイラ立ちを抑えきれぬとばかりに険悪な怒り貌で、さらに襟首を絞め上げてくる。


 見事に、逆鱗に触れてしまったようだ。


 抗うわけにもいかず、弁明も言い訳も潔く無しだろう。

 正に蛇に睨まれた蛙……いや、死神に睨まれた死人か。

 自分はどうすることもできず、せめて逃げはすまいと、向けられた冷ややかな眼光を真っ直ぐに受け止めていたのだが……。


「こ、こらぁーッ! な、ななな何しよっとね!!」


 フロアに轟いたのは、悲鳴か怒声か判じかねる叫声。

 誰の声かは見るまでもなかったが、だからこそ眼を向けぬわけにはいかなかった。

 襟首を絞め上げられたまま、どうにか向き直れば、ズンズンとこちらに迫り来る蒼髪の影姫様。金瞳を見開き、柳眉と猫耳を逆立てた、正に怒髪天を衝かんばかりの姿だ。


「ふ、二日も目覚めんで……! 心配して……ウチは……なのに、気がついたら居らんなってるし! そしたら、な、何で……! シズカとそげにイチャついとぉね!!!」

 

 これがイチャついているように見えるのか!?


 いや、見えなくはないのか……? 


 ともかく、それは明確な誤解である。


 ハッキリと否定を返そうとした自分だったが、それに先んじて、シズカ殿が深い溜め息を吐いた。


「……やれやれ、相変わらず騒がしい猫だね……」


 ウンザリとした呟きとともに、襟首が解放された。

 そのまま離す……わけではなく、シズカ殿は何を思ったのか、こちらに撓垂しなだれ掛かってきた。自分の胸元に右手を添え、頬を擦り寄せて、上目づかいに黒瞳を潤ませてくる。


 実に、わざとらしく媚びた仕種……。


「……何のつもりだ?」

「ん? キミこそ、仮にも女神に抱きつかれているというのに、その淡泊な反応は何だい?」


 からかうような物言い。

 だが、その対象は自分ではないのだろう。黒瞳の視線はツイと横にズレて、総身をわななかせているナナオ殿へと向けられた。

 それから、殊更に艶然と笑みをほころばせながら、あかんべー……と、真っ赤な舌を出した。


「シ、シズカーーーーーーッ!!!」


 牙を剥いて叫んだナナオ殿。

 直後、蒼い色彩が旋風のごとく流れて、自分の視界が急速に揺れる。


 一瞬、高所から放り出されたような浮遊感。


 気がつけば、ナナオ殿に抱き締められていた。

 ギュッと力を込めてくる、か細くも力強い腕。それは、慈しむ愛情よりも、誰にも渡さぬという強い焦燥をもって、自分を掻き抱いてくる。

 フーッ! と、吐息も荒々しく唸る様は威嚇する猫そのままに、周囲には、その怒気を表すように、蒼い七尾が鬼火をまとって猛り踊っていた。


「ふふ……恐い恐い。ひねくれた悪友の、他愛もない冗談じゃあないか。そんなに怒らないでおくれよ」


 悪びれた風もなく、真っ向から笑みを返す黒羽根に、しかし、人の顔色を読むのが得意な猫殿は、金瞳を怪訝けげんに細めて口の端を下げた。


「……シズカ、あんた、怪我しとうとね?」


「ああ、重傷だ。キミの大切な殿御はそれを気づかってくれただけ。そして、ひねくれた私が、いつも通りにからかいで返しただけ。ただ、それだけのことさ……」


「…………」


「……ま、抱きついても眉ひとつ揺らされなかったのは、少々面白くなかったけれどね」


「からかっただけ……?」


「ああ、からかっただけさ。だいたい、その男は、私の愛しい遮那王しゃなおうではないんだ。なら、からかい以上の何を抱くんだい?」


 右肩だけを器用にすくめるシズカ殿に、対するナナオ殿は、無理矢理に溜飲を下げるように、深呼吸をひとつ。


「わかった。なら、そういうことにしといたげる……」


 けど────。


「それはそれとして、ウチ、あんたを一発殴るって決めとうよ」


 宣告は、憤怒ではなく義憤を込めて。

 猛り揺れていた七本の蒼尾、その内の一尾が拳を象ると、瞬に走り伸びて、シズカ殿の頭頂をゴツンと殴った。

 黒髪をたなびかせた影姫は、だが、打たれた頭よりも、左肩を押さえて身もだえる。


「シズカ、あんた、人の遺体を触媒にしてイクサを黄泉よみがえらせるとか、そんな方法、いったいどこから仕入れたとね?」


 鋭い詰問。

 黒羽根ジスカ殿が怪訝も露わに表情を顰めたのは、傷の痛みよりも、ナナオ殿の言葉に込められた、遣り切れない感情を察したゆえだろう。


「……何か、あったのかい?」


「ここに居る生存者に、お兄さんの身体の……身体の本来の持ち主の、妹さんが居ると。まだ小っちゃい子……了解?」


 ああ……と、シズカ殿は吐息をこぼす。


「……了解した。それは、殴られて当然だね」


 心の底から納得したと、苦々しい笑みを浮かべて吐き捨てたのだった。





 

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