黄昏のIX・A

アズサヨシタカ

黄昏のIX・A

第1章 彼ワ誰レヲ看取リテ

カワタレヲミトリテ(1)


 世界は〝コトワリ〟によって縛られているんだ。


 死んでも死にきれなかったキミたちは、当然、死者なのだけれど、完全に冥府の住人というわけでもない。

 現世に強い未練を残したキミたちは、その未練を断ち切らない限り、果たせぬ因果を背負ってヨモツヒラサカをさまよう怨霊。


 キミたちは輪廻りんねから外れ、前世と来世の狭間で苦しみ続けている。


 それはとても悲しく哀れなことだけれど、そんなキミたちだからこそ、ほんの少しだけ、ほんの半歩ほどではあるけれど〝コトワリ〟の外にこぼれ出ているということなんだ。


 キミたちは、死者でありながら、冥府の住人ではないために、現世に迷い出ることができる。


 冥府の事象を、現世に持ち込むことができる。


 キミに頼みたいのはそれだ。


 現世に黄泉返よみがえって、もう一度、戦士としての在り方を貫いてほしい。


 同時に、それはキミにとって好機であり、見返りとなるだろう。


 私はキミに同情し、共感している。


 それがキミを選んだ理由であり、基準であり、それ以外にどんな思惑も意図もありはしない。

 だから、後の全てはキミが一柱いっちゅうの〝イクサ〟として判断することだ。


 私とともに逝くのかどうか────。


 約束には証があるといい。


 形のない想いと意志のやり取りであるからこそ、目に見えて形のある証があれば、互いに安心できる。


 そうは思わないかな? 少なくとも、私はそう思うんだ────。



 


              ※



 夢を見ていたのだと言われれば、


 ああそうか……と、納得する程度には、曖昧あいまいな感覚だった。


 万事に曖昧で、整然とは言いがたい事象の羅列。

 ただ、それが夢だったのだというのなら、我ながら随分長々と眠っていたものだと、あきれてしまう。

 何せ、生まれてから老いて息絶えるまでの生涯の記憶だ。

 生まれ、育ち、あの人に出会って、憧れ、望み……。

 そして、最後に絶望して朽ち果てるまでの記憶。


 自分は────。


 瞬間、ゆるやかな追想は、胸に弾けた痛みによって消し飛んだ。

 焼けるような……とは良く言うけれど、これはもはや焼き尽くされるような感覚。まさに激痛だった。

 まるで心臓を剛槍で貫かれたかのような衝撃的な痛み。


 見開いた視界に映ったのは、現に自分の胸もとに突き立てられた刃の輝きだった。


 それは槍でこそなかったが、美麗な反りを描く鋭利な刀剣の輝き。

 美しい刀が、自分の胸に鮮やかに突き立っている。


 そう、美しい────。


 痛みを忘れ、疑念がわくよりも先に、その刃がまとう妖しいまでの美しさに魅入られた。


 その美しい刃光に誘われるまま、自分は手を伸ばした。

 震える両手で、刃を挟み込むように握る。

 指先が、腕が、いや、そもそも全身がうまく動かせない。

 痺れているとかではなく、神経そのものが鈍麻しているような不自由な感覚の中で、自分はどうにか胸に突き立つその刀を引き抜いた。

 己の血肉から刃が抜けていく感覚。ハッキリとイヤな感触ではあったが、それに伴うはずの激痛はわずかにも走ることはなかった。


「その刀が、約束の証だ」


 静かな声音が、静かに響いた。

 声の方を見やれば、闇にまぎれるようにたたずむ黒い影があった。

 黒い髪に、黒い瞳、黒い衣服。対照的なまでに白い貌が、青白く淡く暗闇の中で微笑んでいた。


「それは私にとって、とても大切な人の形見だから……。だから、必ず返しにきておくれよ」


 美しい姿、美しい声音、けれど、憂いに満ち満ちたその様子はハッキリと痛ましい。


「……願わくば、その魂が〝たり〟へと満たされますように……」


 弱々しい祈りを残して、その少女は闇に掻き消えるように消失する。

 まるで鳥が飛び立ったかのような羽音と、闇に舞い散る黒い羽根。

 少女の名残のように目の前に舞い落ちた黒羽根を、自分は震える手で拾い上げた。


 右手には黒い羽根。左手には引き抜いた刀。

 違和感が、あった。


「痛みがない……」


 ポツリと呟く。

 どこも痛くなかった。

 胸を刃で貫かれていたはずなのに、全く痛みを感じていない。


 目覚める直前に感じていた激痛はどこに掻き消えたのか?


 そもそも、貫かれていたはずの胸元には傷自体が見当たらない。

 身に着けた衣には、確かに刃が貫いた裂け目がある。けれど、その下の皮膚は裂けていない。否、正確には裂けてはいたのだろう。


 まるで粘土細工を無理矢理にこね上げたように、いびつに癒着したあとがある。


「……これは……」


 疑念の呻きは、ふさがっている傷にではなく、そこに刻まれた、あるいは浮かび上がっているような奇異な模様に対してだった。


〝天〟という漢字に読み取れた。


 梵字ぼんじのごとく装飾的にくずされているものの、確かにそう読める。いや、〝天〟という文字であると、なぜだか心で感じ取れた。


 魂魄こんぱくの欠落を示したコトワリ。

たり〟に至れぬ、欠けた〝〟を示す、因果いんがめい


 脳裏に次々と想起されるわけのわからぬ認識に追い立てられながら、自分は思わずその傷痕を手で押さえて、息を呑む。


 心の臓が動いていない。


 己の胸、そこに響くはずの生の鼓動を全く感じない。

 考えてみれば、あふれて流れ出たはずの血の跡すらも皆無だった。

 痛みも、血流も、鼓動もない。


「……まるで〝死人しびと〟だな」


 自嘲を込めて呟いた。

 だが、それも道理だ。そもそも自分は、生きる意味を成せぬままに朽ち果てた、確かな死人であったはずなのだから……。


 そう思い、知っていたはずの生涯を振り返ろうとして、その喪失感に思考が止まる。


「……ふむ。さて、思い出せないな」


 思い出せない。何も憶えていない。

 頭の中、これまで生きて積み重ねてきたはずの全てが、ポッカリと虚ろに消えていた。


 自分が何者であるのかはもちろん、なぜここにいるのか、そも、ここがどこなのかすらも全くもってわからない。


 まさに土の下から這い出てきた亡者のごとき虚ろさよ。

 その虚ろな感覚の中で、ただひとつだけ、疼くような熱があった。

 胸の奥、あるいは頭の芯に、熱く熱く疼いている衝動。


「……刀が、必要だ」


 そうだ。

 自分にはまず何よりも刀が必要だった。この手に刃を握らねば、自分が自分であることの何をも証明出来はしない。


 左手に握った刀。


 だが、これはダメだ。


 これはあの少女との約束の証。この美しく尊い輝きを、自分ごときの愚かな妄念でけがしてはならない。

 足元に落ちていたさやを拾い上げ、納刀する。

 腰に締めた革帯……ベルト……だな、その背腰部分に差し込み帯刀して、自分は歩き出した。


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