さいごのおむすび
河邑 遊市
第1話 9ヶ月振りの帰郷
昭和20年4月のある夕方。
温かな風が包み込んで、優しく身体を撫でていく。
まだ植え込まれて日が浅い背丈の低いウリの苗が、風に揺られてカサカサと音を立てる。まだまだ小さくても、立派に葉を擦らせて音をあげているのを見ていると、まるで小さな子どもが自分の帰りを喜んでくれているみたいで、心の内が燻られるような嬉しい気持ちで満ちていくような気がする。
夕日に照らされた里の景色はまるで郷愁を誘う力を持っているみたいで、早く実家の家屋を見てみたい、家族のみんなに会いたいという渇望を煽ってくるようだ。自然と、歩く速さが増していることに気が付く。
丘の上から故郷の様子を一望すると、ホッと安心して、全身の緊張が一気に弛緩していく心地良い感覚を味わえる。おそらく、もうすぐ22年目に入る自分の人生の大部分の時間を過ごした場所だからか、身体がこの景色を覚えているように思えてくるほどだ。
この坂道を下りれば、もう家はすぐそこだ。
帰ってきたのだ。
故郷に戻ってきたのだ。
一時的とはいえ、やはり生まれ育った郷里に帰るというのは、本当に嬉しく感じるものだ。
何故なのだろう?
どうして生まれ育った場所に戻ってくることが、こんなにまで喜ばしいことなのだろうか。住めば都ということわざの通り、他所で暮らしても、やがてその土地の魅力の虜になって、新天地での暮らしをそれなりに楽しんできたと思っている。それでも、故郷には敵わないのだ。
ここからの景色、しっかりと見ておかないとな。
そんなことを思い、立ち止まって谷の様子を眺める。
横浜の町は山や丘が多く、関東平野の沿岸部の都市の割に起伏が多いのが特徴だ。
横浜駅からそれ程離れていないこの町も、横浜独特の地形に倣い、三方を丘に囲まれ、谷間の真ん中辺りを小さな川が貫き、その川の周りに家や田畑の緑が敷き詰められている。谷の向こう側の丘には、これまた夕日に照らされて橙色に輝く林があり、空の霞んだ青色との対比が実に美しく、風にたなびく新緑の葉がザワザワとおしゃべりでもしているように見える。
谷間の里とは対照的に、丘は自然のままの景観になっていた。都市化が進む横浜市でもこの地域はまだまだ森や林が多くあり、少年時代にはよく友達とその林に入って虫取りをした記憶がふと蘇る。
谷間から電車の警笛が響いてくるのを聞いて、思い出したように再び歩き出す。
何度も通った道だった。だから、無意識のうちに実家へ続く方へと歩が進む。もしかしたら、目を瞑ったままでも帰れるのではと、冗談めかしく思ったりもする。実際に可能なのかどうか興味はあるのだが、それ以上に、今は歩きながら流れる故郷の町並みを堪能したいと思う。
丘を下り始めたとき、なんとなく重たい気持ちが脳裏をよぎる。故郷に帰ってきたことの喜びと同じように現れた、ある焦燥感があるのだ。
ちゃんと、言わないとな…。
そう強く感じる。
故郷に帰った、正確には、立ち寄ったのには、理由があったのだ。
前回立ち寄ったときとはまるで違う。ほんの9ヶ月前の出来事なのに、あの日のように、フラッと、所属する仕事場が変わることに伴う移動の最中に遠回りしながらも、実家に立ち寄ったのとは何もかもが違うのだ。
何が違うのだと言う?
身なりや身体には、何も変化は見られない。強いて言うなら、あの日よりは坊主頭の髪の毛が少しばかり伸びていて、
心情についてはどうだろう。
こちらは、かなり違うと思う。原因はここだろう。
やはり、落ち着かない。
なるべく気持ちに揺らぎが起こらぬように、冷静で居続けようと固く誓って、この地へ足を踏み入れたはずだった。それなのに、故郷の景色を眺め、懐かしい気持ちが湧いてきた途端、一瞬にしてその誓いは破られ、実家に近付くにつれて胸の鼓動ですらしっかりと認知出来るくらいにまで、落ち着きを失っていく。
ちゃんと、伝えたら、みんなは、どう思うのかな…。
いや、どう思うのかなんてわかりきったことじゃないか!
わかっている。だから、辛いんだ…。
頭の中で葛藤が始まる。
坂道を下り切って、住宅が点々と並ぶ道を行く。そんな時だった。
「あら?」
と言う中年女性の声が聞こえたので、声の方を見ると、そこには割烹着姿の女性が家の軒先からこちらを見ていた。植木に水をやっている様子だ。
女性「
自分の名前を呼んでくるこの女性のことは、小さい頃からよく知っていた。仲の良かった友達の母親だったからだ。
立ち止まって、被っていた帽子を外して会釈する。
雄吉「ご無沙汰しております。」
女性が雄吉へと近寄ると、舐めるように足下から頭まで、しっかりと確認してくる。陸軍の制服に身を包んでいるため、
女性「また立派になって。一時帰郷かい?」
雄吉「そうなんです。実は、また基地が異動になって。」
雄吉の言葉に、女性は目を丸くさせて、興味津々といった様子で頷いてきた。
女性「そうだったの。次の基地は、近いの?」
雄吉「いえ、今度は三重県です。」
女性「三重県?! それはまた、ずいぶんと遠くに回されてしまったね。」
苦笑いしながら雄吉は「はい…。」と答えるしかなかった。
女性「この前は群馬県の、何処だっけ?」
雄吉「
つい昨日までは、館林陸軍基地の航空師団に所属していた。2年前の昭和18年10月に学徒出陣で陸軍へ入隊してから、飛行兵を練兵する
女性「群馬県だって遠いって思ってたのにね。でも、飛行機乗りになって、立派にお役目果たしてるんでしょ? 最近じゃあよく、東京の方が度々空襲で焼けているって聞いてるし、いつかこの横浜にもアメリカが爆弾落としに来るんじゃないかって、みんな心配してるけど、アタシはきっと、雄吉くんがアメリカの爆弾落とす飛行機を堕としてくれるって思って、大丈夫だって言ってんのよ。」
なかなか高く持ち上げられてしまっているんだなぁ。
話を聞きながらそう感じる。
嬉しさ反面、緊張も感じることである。
雄吉「ありがとうございます。僕も、故郷の町が焼かれるなんてことになったら、絶対に敵の飛行機を堕として、みんなのことを守ってみせます。でも、もう三重県に行ってしまうんで、それももう出来なくなりそうですけど。」
女性「あ! そうだったわね。残念ね。」
またしても、雄吉は苦笑いしながら「はい…。」と返した。
雄吉「あの、
女性「武雄?」
なんとなく、女性の表情に切なさが滲み出るのを感じる。
女性「工場に仕事しに行ってるわよ。夜には帰ってくると思うけど…。」
そうか…。武雄も、工場に勤務させられてしまったのか。それにしても、おばさんの表情が曇ったのが気になるけど…。
雄吉「わかりました。そしたら、また来ます。」
女性「ええ。どうぞ。」
雄吉「失礼します。」
また帽子を取って会釈する。そして、再び実家へ向かって歩き出す。
武雄は、物心ついた頃からの幼馴染みで、幼少の頃から視力が悪く、特に乱視がきつかったため、徴兵検査を受けるも
もはや軍隊以外の場所では、若い男子なんてほとんど残っていないのではと感じるほどだ。そんな中で、今まで兵役に就かずにいる丙種と診断された男は、軍需工場などの後方支援において、きっと貴重な男手なのだろう。
武雄と話せるのも、きっとこれが最後になる。
アイツには、話せるかな?
期待と不安に入り乱れた心境の中、黒い丸眼鏡を掛けた丸みを帯びた優しい笑顔が思い出された。
1歳年下の小柄な青年で、昔から何でも無いことでも笑い出してしまうほどの笑い上戸だった武雄。名前に同じ「雄」の字が入っていることから、謎めいた連帯感があって、一緒に居るのが当たり前のような存在だった。尋常小学校卒業後はお互いに異なる進路を進んだが、それでも時々家の近所でばったりと出会うこともあったし、数えるほどしか無かったが、用事を合わせて遊んだり横浜駅の方へ出掛けたりしたこともあった。
いろんな思い出が涌いては消えて、繰り返していく。
雄吉「ああ!」
狼狽しながら頭を振って、邪気にとらわれた心の解放を試みる。
こんなに落ち着かない気持ちになってしまうなんて。
困惑の念が胸の内いっぱいにまで広がる。
しかし、もはや猶予は無さそうだ。
気持ちに静寂をもたらそうと努力してはみたものの、それが叶う前に実家の前に来てしまったのだ。
雄吉「はぁ。」
思わず溜め息が出た。
自分の名字、“
町内を一周してから、改めて玄関のブザーを鳴らそうかな?
弱気になって、そんな甘美な逃げ道を作ろうとしていた。そんな自分に気が付くと、更に焦り出し、自分が嫌になる。
いや、せっかく帰ってきて玄関前まで来たのに、出て行くなんてな。
家族と対面出来る時間だって限られているし、それにこのまま町内一周なんてしたら、くよくよ迷って、今度は駅へ向かってそのまま三重に発ってしまうよ。
そう考え至り、雄吉は意を決して玄関のブザーに右手の人差し指を乗せた。
そして、一旦目を閉じて深呼吸する。
雄吉「よし。」
両目を見開き、一気に人差し指に力を込めた。
家の中からブザーの音が聞こえてくるのを感じると、人差し指への力を緩めた。
間もなく、廊下を歩く足音が聞こえ始め、足早にそれが近付いてくるのがわかる。
「はい!」という、明るい口調で返事する聞き慣れた中年女性の甲高い声が聞こえる。
玄関の戸の曇りガラスに、母と思しき白い影が写ったと思ったとき、勢い良く玄関の戸がガラガラと音を立てて横へずれた。
この瞬間が、なんとなく一番緊張するような気がする。
細身で少しばかり疲れたような表情で、白髪が目立ち始めた割烹着姿の母、
多喜「あらまぁ!」
玄関の戸を開ききったところで凍りついたみたいに、母が自分の顔を呆然と見上げたまま固まる。瞬きすらしない。自分の帰郷に、何が起こったのかすんなりと呑み込めないといったところだろうか。
雄吉は黙ったまま、帽子を外して深々と礼をした。
雄吉「ご無沙汰しております。」
堅苦しい挨拶しか、今は出てこない。不思議と、半年以上家族と離れて暮らしてしまうと、何故か余所余所しい振る舞いをしてしまうのだ。親元を離れて一人の独立した大人になれたということなのか、それとも人間は常に一緒に居ないと親しみが無くなってしまうのか。
多喜「どう、したの?」
怪しい者でも警戒するような視線で雄吉のことを見てくる母だった。ただ陸軍に所属する息子が実家に帰ってきただけだと言うのに、ここまで不可解な様子を呈するとは。
しかし、これには理由があった。
今回の帰郷について、雄吉は事前に家族へ知らせていなかったのだ。だからこそ、突然家の玄関先に現れた我が子の姿に不審な気持ちを抱いてしまうのは仕方の無いことだと、雄吉は思うのだ。
雄吉「また、異動がありまして。その途中に立ち寄った次第です。」
何度も頷きながら、母の表情が少しずつ緩み出す。
多喜「そうだったの。驚いたわ。突然お前がこんなとこに立ってるもんだから…。」
雄吉「すみません。突然異動になって、事前にお知らせする術が無かったものですから。」
苦笑いしながら答える雄吉。
実のところは、事前に連絡する機会が全く無かった訳ではない。
ここへ来る途中の鉄道駅には、電話だってあった。電報の一つ入れることなんてそんなに難しいことではない。
それでも出来なかったのは、やはり今回の帰郷には大きな事情があったためだ。
惑いがあった。
多喜「それはそれは。大変だったんだね。」
ようやく母の顔に笑みが戻ってきた。もう不審者と同じような招かれざる客の対応とは違う、柔らかな眼差しを向けてきてくれている。
多喜「さ、中にお入り。疲れたろ?」
静かに「うん。」と答えて、雄吉は家の中に入る。
雄吉「みんなは?」
玄関の床に腰を下ろして靴の紐を解きながら、雄吉は母に聞いていた。
雄吉の家には、両親と祖父母、それから弟二人、妹三人が住んでいた。
3歳年上の姉、
今はその座を、第三子で3歳年下の次女、
かつて姉から受け継いだ“世話役”を、一つ下の妹に託した形だ。だからなのか、この実家へ帰ってくる度に、寿実がしっかりと“世話役”の役目を果たしているのか気になってしまうのだ。ただ、“世話役”としての仕事は、明らかに妹の方が優れていた。姉と同様、話を聞く分には、今では寿実も母の良き片腕になって、姉弟たちの面倒はもちろんのこと、料理や洗濯、掃除までの家事を母と共に協力してこなしていると言う。家事をすることについて、雄吉はほとんど出来たとは思えない。男が台所に立つなど、世間様に知られたらとてつもない恥を晒すことになる。代わりに、大工仕事や父の手伝いなど、男として果たさねばならない仕事については、可能な限り尽くしてきたと思う。しかし、そうは言っても、母の評価が高いのは姉と寿実だった。まぁ、母の仕事を手伝ってくれている訳だから、当たり前と言えば当たり前なのだが…。
多喜「寿実と
奈海は海村家6番目の子で、四女になる一番下の妹になる。雄吉とは10歳も年が離れており、更には異性ということもあってあまり一緒にいる機会がなかった。
多喜「
嘉代は寿実の次の妹で、雄吉の6歳年下である。
雄造は8歳年下の次男で、雄吉にとっては初めて出来た弟だった。そのため、年の差はあるものの、同性の兄弟ということでとても仲が良かった。
多喜「
まだ10歳になったばかりの末っ子三男坊だ。
ちなみに、海村家の男子には皆、“雄”の字が使われているが、これは父の名、
雄吉「みんな元気そう?」
多喜「まぁまぁね。雄竜はこの前風邪引いてたし、奈海も季節の変わり目に体調崩してたから。」
雄吉「そうか…。」
多喜「みんなきっと、雄吉が帰ってきたこと、驚くわね。」
「うん。」と小さく呟いて、靴を脱ぎ去る。
居間の方からまた別の足音が聞こえてくる。
「お母さん?」
この少し響く透き通った感じは、寿実の声だな。
多喜「寿ちゃん! 雄吉帰ってきたわよ。」
寿実「え?!」
間もなく、自分の帰宅を驚く妹が姿を現す。彼女もきっと、母と二人で夕飯の支度でもしていたのであろう。母譲りの割烹着姿だった。
寿実「お兄さん!」
雄吉「よ! しばらく。」
寿実「し、しばらく…。」
先ほど玄関の戸を開けてくれた母と同じような、驚愕というよりも呆然とした表情を浮かべて、寿実は座ったままの雄吉を見てくる。
事前に帰るという報せが無いだけで、みんな同じような態度を取ることに、雄吉はどこか面白味を感じつつあった。
寿実「え?! どうして?」
またその説明をしないといけないんだな。
そんなことを考えながら、ゆっくりと床に上がって立ち上がる。そんな雄吉の念を察したのか、母が口を開く。
多喜「なんかね、異動があったみたいで、その途中に立ち寄ったんだって。」
寿実「そうだったの。何も連絡が無いから、どうしてここにお兄さんがいるのか、びっくりしちゃったわ。」
雄吉「ごめんな。何も連絡出来なくて。急に異動が決まったもんだから、報せる術が無くてさ。」
寿実「まぁ、それは良いんだけど…。」
母が何か閃いたようにパンと手を叩く。
多喜「こうしちゃいられない。ご馳走準備しないと!」
雄吉「え?! 急に帰ってきてしまったのに、そんなご苦労は…。」
ご馳走を準備すると言っても、そんな贅沢が出来る訳じゃない。食料だって満足に得られる状況じゃないのに、それを圧して自分のためにご馳走を拵えさせては申し訳ない。
しかし、母は当然のように笑顔で言ってくる。
多喜「せっかく帰ってきたのに、何も持てなさないのも失礼な話でしょ。御国のために一生懸命働いてる息子が帰ってきたなら、それなりのことはしないと、家の台所を預かる者としての意地が廃るってもんよ。」
雄吉「は、はい…。」
多喜「それに、もうすぐお前の誕生日だろ。そのお祝いもやらないといけないしね。」
5月10日が誕生日だった。今日は4月21日だったので、確かにもうすぐ自分の誕生日なのだが…。
雄吉「そんな。もう僕は22になるんですよ。誕生日にお祝いしてもらうなんて年じゃありませんよ。」
内心嬉しさはあるのだが、やはりどこか気恥ずかしもあった。
多喜「良いじゃない良いじゃない。さ、こんなとこにいつまでも突っ立ってないで、向こうへ行きましょう。寿実、お茶を出してあげて。」
寿実「はい。」
そんなやり取りが済むと、母も寿実も颯爽と台所の方へと消えた。
まるで、旅館の女将と若女将だな。
そんなことを思いながら、雄吉は居間へと向かった。
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