第9話
九
「今まで隠していて……ごめん」
「……ちゃんと全てを話して、ソウくん。貴方とサヤさんは……夜科蛍だったんだね」
あれからすぐに夜は明けて、夜宴の島での三度目の夜……そして、兎狩り二日目が終了した。
白兎と黒兎は鬼達に連れ去られ、強く抱きしめあっていた彼とサヤさんも離れ離れになり、私達は元の世界に戻ってきた。
起きてすぐ、いつもの公園に集まったものの……私は未だに彼の目を見れないままでいた。
「……あぁ。鏡花水月はサヤの作品で、それ以降の作品は全部、俺が書いたものだ」
ずっと憧れていた夜科蛍の正体が、サヤさんと彼だとわかっても……私は何故か、少しも嬉しくはなかった。
それどころか、目の前にいる夜科蛍が【彼】じゃなければ良かったのに……なんて思いながら、私はそっと目を伏せる。
「ソウくんとサヤさんって、恋人同士だったんだね」
「……ううん、違うよ」
「……え?」
私は思わず顔を上げて彼を見る。ちょうど私の方を見た彼と目が合うと、彼は悲しそうにニコリと笑った。
「サヤは……俺の実の姉さんだよ」
「……お姉さん?」
「うん。サヤの名前は【五十嵐紗耶】。正真正銘、俺の……三つ上の姉だよ」
――あの鬼女の正体が、彼のお姉さん? でも、それじゃあ何故? サヤさんは、とても彼を愛しているように見えた。それに彼も、『俺は、君の愛する人だ』と……確かにそう言った。姉弟の愛情表現にしては、些か過剰に思える。
「……サヤは、昔から少し身体が弱くてね。よく入退院を繰り返していたから、ろくに学校に通う事も出来なくて……入院中は病棟にある学校に通っていて、家では俺が勉強を見たりしていたんだ」
彼は気の抜けたような表情でボンヤリと空を見上げながら、そっと呟いた。
「サヤは……俺をとても愛していた。家に閉じ篭ってばかりのサヤには、信用し、心を許せる相手なんて、俺くらいしかいなかったから」
「ソウくん……」
「勿論、俺だってサヤの事は好きだ。姉弟なんだから。……けど、彼女は俺を男として見ていた。少し留守にしたり連絡を返さないだけで、彼女は泣いて『どうして私だけを見てくれないの? どうして私を愛してはくれないの?』と泣き喚く事も度々あった。俺は、俺に依存し過ぎて変わっていくサヤが……少し怖かった。そんなある日……サヤは突然、おかしな事を言い始めたんだ。自分は昨夜、夜宴の島という不思議な世界に招かれたのだと。俺は最初、意味のわからない事を懸命に語り続けるサヤに対し、きっと夢でも見たんだろうなんて思っていたけれど……彼女のその話は朝が来る度、毎日続いた」
「夜宴の……島……」
「その【夜宴の島】について話すサヤが、何だかとても楽しそうに見えて……それなら別に、このままでいいんじゃないか? なんて思いながら、俺は毎日その夜宴の島の話に付き合った。まぁ詳しい内容は、敢えて教えてくれなかったけどね。……サヤが夜宴の島に行ったのは、今から七年前の話だ」
「七年……確か、仙人のお爺さんが『宴が開かれるのは、七年振りだ』って言っていたっけ。じゃあサヤさんは、その時に……」
彼は弱々しく、小さく頷くと、更に話を続けた。
「彼女の顔には笑顔が戻った。毎日泣いてばかりだったサヤの心に、まるで一筋の光が射し込んだかのようにも見えた。……それから彼女は以前よりも部屋に閉じ籠るようになって、朝とご飯の時以外、ほとんど顔を見せなくなった。俺は……確かに心配はしたけれど、毎朝サヤの顔を見るといつも元気そうだったし、干渉される事も減ったから……少し安心したりもしていたんだ。そしてサヤは、わずか数日で書き上げた数冊ものノートを俺に渡してきた。中身は小説のようだった。彼女は俺にこの文章をまとめ、手直しをしてくれと頼んできたんだ」
「小説………」
「それを最後まで読んだ俺は、深く感動した。確かに文章は拙いものの彼女の美しい世界観に感動すら覚え、心酔した。サヤは、俺達二人をキャラクターに置き換えて小説を書き、そして完結させた。……それが鏡花水月だった」
彼はベンチから立ち上がり一歩前に踏み出すと、広くて青い空を仰いだ。
「俺は、サヤが作り上げたその物語を、何とか俺の手で最高傑作に仕上げてやりたい。そして、出来る事なら陽の当たる場所に出してやりたい。……そう思った。身内の欲目なんかじゃなく、鏡花水月は……本当に素晴らしい小説だと思ったから。とにかく俺はその一心で、キーボードを叩き続けたよ」
「……そうして、鏡花水月は生まれたんだね。鏡花水月は、二人の想いが重なりあって出来た……作品」
彼とサヤさんは姉弟だけど、それ以上に深い繋がりを持っている。私なんかが入り込む余地などないくらいに、強くて硬い絆が二人にはある。……それが凄く伝わってきた。
「彼女は、よく言ってたよ。夜宴の島で過ごす夜が終わったら『私、今度は夜宴の島の物語を書きたい! ……だからソウ、それまで楽しみに待っていてね?』と」
夜宴の島の小説を……? 私と一緒だ。
私は急に、今まで書いた小説の全てを破り捨てたくなった。私は、彼女には……【夜科蛍】には敵わない。――敵いっこないの。
「……けれど、幸せな時は長くは続かなかった。それから更に数日が経つと、サヤの様子はあからさまにおかしくなっていったんだ」
『……夜宴の島の事を思い出せない。行った事はちゃんと覚えてるし、風景も何もかも覚えているのに……どうして⁉』
「そう言って彼女は取り乱し、錯乱する事も増え、発作も……頻繁に繰り返すようになった。次第にベッドから起き上がる事も出来ないくらい、サヤの身体は弱っていったよ」
「それって、店長夫妻が言ってた通りだ……サヤさんは夜宴の島での十七夜を終え、無事に帰還してから、記憶を失ったのね?」
「きっと、そうだと思う。彼女は何ヶ月経っても、一年、二年が過ぎても……夜宴の島の事ばかりを考えては涙を流し続けた。俺はそんなサヤに、どうしてやる事も出来なかった。その間に、公募に出していた鏡花水月は賞を取り、書籍化する事が決まった。俺は、本当に嬉しかった。サヤの世界が世間に認められたんだ、って。……けれどサヤは喜ぶ事なく、うわ言のようにいつも『夜宴の島に戻りたい。ソウと結ばれる事も出来ないこんな世界なんて捨てて、夜宴の島の住人になれたら』……そう言っていたよ」
「それで……サヤさんはどうしたの……?」
「……死んだよ。病死じゃない。自殺だ。サヤにとって夜宴の島は生命そのもの。きっと、生きていくのに必要な全てだったのかもしれないね。……俺よりも、大切だったんだと思う」
――自殺、死。
重みのあるその言葉に、私はどう答えていいのかわからず戸惑っていると……頭上から優しい声が降り注いだ。
「大丈夫。もう五年も前の話だ。ミズホがそんなに気にする必要なんてないんだよ」
そう言うと彼は、私の髪を優しく撫でた。
「……ソウくん。サヤさんは夜宴に島について、何かに書きまとめてはいなかったの?」
「……書いていたらしいよ。けどそれは、夜宴の島で起きた事の記憶を失ったと同時に、全て消えてしまっていたらしい」
「……じゃあ、あの対談は?」
「あれは、俺。本当は二人でする筈だったんだけど、サヤの言葉を俺が預かった」
「……鏡花水月を書こうと思ったのは、夜宴の島と呼ばれる不思議な島へ招かれた事がきっかけ……だったよね」
「そう。だから俺は、サヤの言う夜宴の島に行って、真相を確かめたいって……ずっとそう思って生きてきた。そんな時、都築教授の部屋から藤尾夫妻の記事を見つけたんだ。……運命だと思った。サヤが招かれた夜宴の島に、俺も訪れる運命だったのだと。あの鬼女が本当にサヤだというのなら、俺はサヤの事を何があっても守らないといけない。……彼女を二度も、死なせるわけにはいかないから」
彼から全ての話を聞き終えた後、私達は一先ず解散する事になった。……互いに考えなくてはならない事が沢山ある。しなくてはいけない事だって沢山あるんだ。学業だって仕事だって、これ以上疎かには出来ない。そんな事は、重々承知しているのだ。
でも……『一緒に帰ろう』と彼から差し伸べられた手を、私はどうしても掴む事が出来なかった。
適当な理由を口にして、何とか彼に先に帰ってもらうと……一人残った私は、暫く公園のベンチに座っていた。
私の、自覚したばかりのこの気持ちは……結局彼に伝えられないまま。
彼との距離が狭まったかもなんて、一人で勝手に思っていたけれど……勘違いだったみたい。それどころか突然押し寄せた大波が、私達の距離を更に大きく広げ……彼が、もう二度と手の届かない……遥か遠くまで行ってしまったかのように思えた。
『好きだ』と伝えた瞬間に、彼が私の目の前からいなくなってしまいそうで……結局私は、彼に何も伝える事が出来なかった。
彼に、この溢れんばかりの想いを打ち明けてしまったら、一気に全てが壊れてしまいそうで……『行かないで』なんて、言える筈がなかった。
「……好き。ソウくん、大好きだよ」
こんな想いをするくらいなら、気付かなければ良かった。
こんな気持ちになるくらいなら、知りたいなんて思わなければ良かった。
貴方を好きになればなるほど、醜い自分の心が剥き出しになって、私はどんどん自分の事を嫌いになっていく。
……彼は何も悪くない。そんな事は私が一番よくわかっている。私が勝手に彼を好きになっただけ。この痛みはその代償。だから、彼を責めるのは筋違いというものだ。
ああ、いっその事……彼の事を嫌いになれたなら。
今すぐ記憶を失える、魔法の薬があるというのなら、私は迷わず一滴残さず飲み干すだろう。
彼の事を好きな気持ちが膨らんで、私が私じゃなくなりそうで……けど、こんな自分は見せたくなくて、こんな自分を知られたくなくて。……惨めな私。いっそ消えてしまいたい。彼に軽蔑される、その前に。
雲行きが徐々に怪しくなり始める。それでも私は、ベンチから立ち上がる事が出来なかった。
――もう小説は、書けない。
彼と私の物語なんて、書ける筈がない。……彼は鏡花水月のキャストであり、夜宴の島のキャストにはなり得ない。
それに、頑張って書いたところで……結局は全て消えてしまうのだから。
サヤさんなら、夜宴の島を、あの世界を……どう表現したのだろうか?
ぽつぽつと、空から雨が降り始める。私の代わりに泣いてくれているようなこの雨は、今までどれ程沢山の涙の代わりを引き受けてきたのだろう……?
優しい雨に負担をかけてしまうけれど、今は私の悲しみの半分を受け持って。……お願い。
じゃないと、私はきっと……悲しみに押し潰されてしまうから。
――ソウくん。
私じゃ……駄目ですか?
***
『えー皆様。この夜で兎狩りは終了で御座います。何度も言うようですが、各自、悔いのないよう、最後まで奪い合って下さい。以上!』
……神様は皮肉だ。こんな時に限って、目が覚めたら隣に彼がいるのだから。
おはようなんて笑顔で言わないで。その手で優しく髪を撫でたりしないで。……辛くなる。
とにかく、今日で兎狩りも終わる。私は、白兎と黒兎を見つける事だけに集中しなければ。
兎に触れたら兎の姿を認識する事が出来る。
彼は白兎に触れた。なのでこれからは、白兎の姿は彼にもちゃんと見える筈だ。
鬼面達はきっと、もう既に全員が双子に触れている事だろう。
私も白兎と黒兎、何とか両方に触れる事が出来たので……この目はもう、あまり役に立ちそうにない。
――鷹の目。
私は彼に、白兎から聞いた【この目の事】について、一切何も言わなかった。
もうどうでも良かった。人間じゃなくなろうが何だろうが。私が意思をなくした獣になるというならば、いっそなってやろうじゃないか、とさえ思ってしまう……自暴自棄だ。
私のこんな姿を見たら、白兎は怒るだろうか? ……それとも、哀しむだろうか?
せめて今夜、白兎と黒兎を助けられたら……もうそれだけでいい。
そしたら、私は双子達に願うんだ。『この夜宴の島からもう……解放して欲しい』と。
そして私はいつも通り、下らない毎日を送り、つまらない人生を生きていく。……それでいい。
刺激的な日常は、時に我が身を傷つけ、犠牲となる。彼と出会ってからの私は、正にそのルートを辿ろうとしているのではないか? ……どうでもいい。考えるのも疲れた。
「ミズホ? どうした? 何か元気ないみたいだけど……」
彼のその言葉に、私は平気な振りをして笑顔で答える。
「え? そんな事ないよ⁉ ソウくんの勘違いだって! 元気、元気! そんな事より、今日でようやく兎狩りのイベントが終わるんだね。……頑張らないと!」
「……そう」
「私、シロくんと約束したんだ! 絶対に助けるって! だから、約束はちゃんと守らなきゃね! さ、早く行こう!」
私が一歩踏み出そうとすると、彼が私の手をぐいっと後ろに引いた。
「な、なに⁉」
「やっぱり黙ってはいられないから言うけど……ミズホ、まったく笑えてないよ。そんな作り笑顔を見せるくらいなら、思ってる事全部ぶちまければいいのに。朝からずっとおかしかった。……俺、何かしたかな? もし、そうなら……ごめん」
私は、じっと見つめてくる彼の顔を直視する事が出来ずにいた。――言える筈がない。
私は、彼のお姉さん相手に醜いまでに嫉妬し、恋にトチ狂った憐れな女なのだ。そんな事を言ってしまったなら、きっと彼は間違いなく私の事を嫌うだろう。
サヤさんは……彼にキスをした。彼は、それを拒まなかった。
きっと……彼らにとっての【それ】は、日常茶飯事の事だったのかもしれない。
海外では、挨拶で交わされるような簡単なものだ。特に深い意味などないのかもしれない。
けれど、私は……サヤさんだけでなく、彼もまたサヤさんの事を、深く愛しているような気がしてならなかった。
「……ミズホ、泣いてる」
彼は私の涙を指ですくうと、眉を下げ……とても悲しそうに笑った。
「ミズホが泣くと、俺……何だか胸が苦しい」
……あたしだってそうだよ。貴方を想うだけで心が張り裂けそうなくらい苦しいんだよ。
どうして貴方が夜科蛍なの……?
どうして私をここに連れてこようと思ったの?
貴方はとても……残酷だ。
「……ねぇ、ソウくん。聞きたい事があるの。ソウくんはこの兎狩りの勝利者は、誰であって欲しいと思ってる?」
「え……?」
「正直に答えて」
彼は少し複雑そうな表情を見せると、意を決したように強く言い切った。
「……ごめん、ミズホ。俺……サヤに勝たせてやりたいって思ってる」
……やっぱり。
わかりきった答えに、いちいち傷付くこの弱い心を今すぐ消し去ってしまいたい。
「……けど、願いを叶えてもらえるのは一人だけなんだよね? そしたら鬼達は、一体どうするつもりなんだろう」
「……わからない。代表者に権利を譲るか、取り合いになるか。……とにかく俺は、サヤを勝たせて願いを叶えさせてやりたい。それが無理なら、俺が何としても双子達を捕まえて、サヤの願いを代わりに願ってやるつもりだ」
彼の気持ちはよくわかる。大切なお姉さんが、亡くなってもなお、この世界に留まっているなんて……とても哀しい話だ。
私には兄弟はいないけれど、もしいたとしたらきっと、同じ想いを胸に抱くだろう。
彼の事が好きな私が……彼の為に出来る事。それは彼の想いを尊重し、力になる事なのかもしれない。
「ソウくん、私……協力するよ! サヤさんを勝たせてあげよう」
「ミズホ……」
「私、ソウくんの力になりたい! ……お願い。手伝わせて」
「……ありがとう」
そう言って彼は優しく笑うと、私の頭にポンと手を置いた。
「……ミズホ。これは単なる俺の想像に過ぎないんだけれど、聞いてくれる?」
「……うん!」
「鬼は、元々は夜宴の島に招かれた人間達だったんじゃないかな。けれど、同じ人間でも……明らかに藤尾さん夫妻とは違う点が一つだけある。それはきっと、鬼になってしまった人間達は皆、夜宴の島に【魅入られてしまった】者達ばかりなんじゃないかと俺は思ってるんだ」
「この世界に魅入られた……人間?」
「藤尾さん夫妻は、夜宴の島の事など早く忘れてしまいたかった事だろう……恐ろしく、不気味な世界。恐らく、彼らはもう二度とこの夜宴の島には戻りたくないと、そう思っていた筈だ。それは、あの二人を見て、一緒に話を聞いたミズホならよくわかると思う」
私は、コクリと大きく縦に頷いた。
「……けれどサヤは違う。夜宴の島に戻りたくて、帰りたくて仕方ないと取り憑かれたように言っていた。……そしてその結果、自ら命を断った。他の鬼面の連中もそうじゃないのかな……?」
「え……? じゃあ皆、死んでなかったって事? 本当は皆生きていて、もう一度この世界に招かれた……そう言う事なのかな?」
「……いや、サヤは確か火葬された。俺はそれをちゃんとこの目で確認した。だから、恐らく肉体は持たない、魂……霊魂のようなものかもしれない。とにかく、人でも何者でもない存在。それが鬼の正体だと、俺は思ってる」
「魂……それとも、意識とか?」
「意識……?」
「夜宴の島を恋い焦がれるあまり、死に際に強く想った意識だけが飛ばされ……もう一度、この世界にやってこれたのかもしれない」
「意識か、成る程ね……考えれば考えるほどここは不思議な世界だよ。本当に。とにかく魔女は、鬼面達が願う内容は【解放】か、神に近い存在になる事……即ち、【進化】だと言っていた。きっと一部の鬼達は、もうこの世界から解放されたいと思ってるんじゃないのかな? 一度は想いを馳せてここまで来たけれど、鬼として生きる事に疑問を抱き始めたのだろう。そして残りの鬼達は、今もなお夜宴の島に相応しい存在になりたがっている。……サヤも、その一人だ。俺は、サヤに勝たせてやりたい。けれどサヤの願いを叶えた場合、サヤは夜宴の島の住人となり、この世界にずっと縛られる事になる。生前あいつの思うようにしてやれなかった分、今は力になってやりたいけど、本当にそれでいいのかなと思ってる自分も……確かに存在しているんだ」
彼の言う通りだ。解放を選べば、きっとこの世界でのサヤさんの存在は消滅する。
そして、進化を選べば……サヤさんはずっと夜宴の島で生き続ける事になる。
そうなったら、彼は一体どうするつもりなんだろう?
十七夜が終わるその時、彼は――
「……他の願いじゃ駄目なの?」
「えっ?」
「サヤさんが勝ってしまってたら、私達にはどうする事も出来ないけど……ソウくんが勝てば、サヤさんを生き返らせてと願う事だって出来る筈じゃ」
「駄目だミズホ。生は尊い。……既に生命を失った人間を蘇らせる事なんて、してはいけない。人としての道理から外れてしまうよ。サヤはもう死んだんだ。生きるなら、この世界じゃないといけないんだ」
そう言った彼の顔は、とても歪んでいて悲しそうで、私は胸が痛んだ。
「……ソウくん、とにかく今は色々考えてる場合じゃないよ。考えるのは後にしよ? どれだけ足掻いても、これが最後の一日。双子達とサヤさんを、私達の手で助け出すの! 状況はかなり不利なんだから、早く行動に移さないと」
「――大丈夫。絶対に勝つよ。何といっても、こっちにはミズホの目があるからね」
「え? ……でも私、双子達に触れて目を使わなくてもあの子達の姿が見えるようになったから、この目はもうあまり役には立たないと思う」
「そんな事はないよ。たとえ姿を認識する事が出来たとしても、どこにいるかわからなければ意味がない。そうなると、ミズホのその目の本領発揮だ。その目が見た風景から、今兎や鬼面達が森の中にいるのか海岸にいるのかが把握出来る。それはかなり重要な事だよ」
「そうか……! そういう使い方もあるね!」
「本当に凄い目だよ、それは。俺もそんな便利な目があればなぁって思う」
「……うん、そうだね! あ、私ちょっと調べてみるね!」
彼の言葉が胸に刺さる。……仕方ない。彼はこの目の事を何も知らないんだから。
このまま、私はどうなってしまうんだろうか。闇に潜む獣となり、この暗い森の中を駆け回る存在となってしまうのか?
――いや、まだ大丈夫。まだ【目】だけだ。それに、シロくんが元に戻してくれると言ったじゃないか。
まだ三日目。ギリギリ間に合う筈……早く見つけなきゃ。
「……いた、二人一緒にいる」
「他には何が視える?」
「満月……大きな満月を背に、白い砂浜の上で座ってる二人が視える」
「……海岸だな。どの方角だろう?」
「ちょっと待ってね? あれは……」
ギリギリ視界の端に映っていたのは、海辺の近く、若干入り口が低めの小さな小さな洞穴。
それにはとても見覚えがあった。……白兎といた洞穴だ。
「わかった! わかったよ、ソウくん! 昨夜の場所から、そう遠くない」
「昨夜の? ……よし、わかった。すぐ行こう!」
彼は私の手を引き、海岸に向かって足を進めようとするが、私はそれを制止する。
「――ちょっと待って!」
「⁉ どうした、ミズホ?」
「何だか違和感が……ううん、違和感というよりやっぱりおかしい」
「おかしいって何が……?」
「双子達の周りに、鬼が一人もいないの」
「――えっ?」
「それにシロくんとクロちゃんが、私が目を使った瞬間から……二人とも、こっちをじっと見てる。まるで、私が目を使って二人を見てる事に気付いているかのように……」
私は急に、とんでもない胸騒ぎに襲われた。背筋が凍り付き、嫌な汗が流れる。動悸が激しくなり、手足の震えが止まらない。――何だこれ? こんなの初めてだ。
「兎の面をつけているから口元の動きもわからないし、声も聞こえない。けれど、何でかな……? 双子達に『ここには来るな』と言われているような気がするの……」
「ミズホ……」
「駄目……怖い! 何でだろう……? わからないけど怖くてたまらない。あの場所に行っては駄目。絶対に行ってはいけない!」
私は突然パニックを起こしたように取り乱す。……仕方がない。底知れぬ恐怖が、身体中を隈無く駆け巡るのだから。
何故? 一体私の身に何が起こっているの? ……わけがわからない。
「左目を閉じれば……白兎が」
「え……?」
「右目を閉じれば……黒兎が」
彼は静かに口を開く。
「そして……両目を閉じたら俺の姿が視える」
「ソウくん……?」
「ミズホのその目はもしかして、この世界の【全て】が見えているのではないかな」
「私のこの鷹の目には、世界の【全て】が見えている……?」
「そう。ただ、それをミズホ自身に信号として知らせる手段が三通りしかないから、把握しきれていないだけで……ミズホの目は、きっと全てを見据えている。……多分、あの場で何か恐ろしい事が起きているんだ。その目はその全てを知っているからこそ、ミズホの身体に恐怖を感じさせている。俺には何だか、ミズホ自身がその目に取り込まれ始めているような……そんな気がした」
彼の鋭い視察に私の胸はギクリと音をたてる。私が鷹の目に取り込まれ始めている……?
彼の言葉が正しいなら……もう、私の身体は【この目】と一体化し始めているという事なのだろうか? 既に、人ではなくなろうとしているのだろうか? ……そんなの嫌だ、どうしたらいいの?
「ミズホ、君はここに残るんだ」
彼は私を静かに見つめると、安心させるようにゆっくりと低い声でそう告げた。
「今の君の様子を見て、あの場所に連れて行く事なんて……俺には出来ない」
――彼の言う通りだ。目尻に溜まる涙。いつの間にか地面についている膝。滴るように流れる冷や汗。怖気づいたと言われても過言ではない。
私の身体が全身全霊をかけて、あの場所に行く事を拒絶している。
「俺が一人で行く。ミズホはここで待ってて」
「でも……! ソウくんにはシロくんの姿は視えても、クロちゃんの姿は視えないんだよ⁉」
「あいつら、一緒にいるんだろ? ……大丈夫だ。何とかなるよ」
彼はニコリと笑うと、素早くひょっとこの面を被る。
「心配しなくても大丈夫。俺を信じて、ここで待ってて?」
大きく暖かい手のひらが、私の頭に優しく触れた。
やがて、その体温がそっと頭から離れると……彼は私に背を向け、海岸に向かって走り出した。
「ソウくん、待って! 行っちゃ駄目! 行かないで、ソウくん!」
私は必死に彼の名を呼んだけれど、彼は右手を挙げ、振り返る事もなく視界から消え去った。
{蝙蝠}(こうもり)が、危険で悍ましい程に、恐ろしい夜の空を飛び回る。黒い空に映る黒いシルエット、今の私には不吉以外のなにものでもない。
獣の遠吠えが、森の奥の方から聞こえてきた。
不気味なこの島に平穏など……どこにも存在しないのかもしれない。
――今の私はヒトなのか? ――それとも、バケモノなのか?
そんな事すらわからなくなっていた私は、考える事から逃げ出したくて……ただひたすら、彼の無事を祈り続けていた。
どれくらいの時間が経っただろう。……一時間? いや、正確には三十分も経っていないのかもしれない。
私は膝を抱えて、樹の根元に小さく座り込んでいた。彼が今どうしてるかなんてわからない。目を使う事を躊躇い、確認する事が出来ないからだ。
私が膝に顔を埋めていると、遠くの方からパキッと折れた木の枝を踏みつけ、こちらに向かってくる足音が聞こえてきた。私は咄嗟に顔を上げる。
「ひっひっひ! こんな所で何をしているんだい? まるで、狼に怯える仔山羊のように震えているではないか?」
嗄れた声で下品に笑う老婆に、私は一瞬にして警戒態勢をとる。
「……何しに来たの⁉」
「いやぁ、何て事はない。その目は役に立っておるかと思ってな? ちょっとばかり気になってのう。ひっひっひ!」
「……よくもそんな事が言えたわね! 私がこの目にどれだけ苦しめられているのか、貴女わかってるの⁉」
「ふんっ、元はと言えばお主が欲しがった物じゃないか? やだねぇ、人のせいにするんじゃないよ。お主が自分で飲むと決めたんだ。責任転換はよしておくれ。あぁ、気分が悪い」
老婆はブツブツ文句を言いながら、近くにある大きな石に『よっこらしょ』と腰を下ろした。
「……お願い、元の目に戻して。何だか、怖くてたまらないの。……身体の震えが止まらない。このままじゃ、私が私でなくなってしまう……頭がおかしくなりそうよ」
「……おやおや、可哀想に。決して案ずる事などない。その目は三日経てば元に戻る。今日で終わりだ、気にしなさんな。――さぁて、喉が渇いただろう? 好きな物をお飲み。どれも今のあんたが欲しがっているものばかりだ」
老婆がパチンと指を鳴らすと小さな机が現れ、ドリンクの入った三つの瓶が並んだ。
「この三つも、普段なら宴に並ぶ事のない特別な薬じゃよ。さぁ、好きなのをお飲み。別に全部でも良い」
「嫌だ……! もう絶対に騙されない。魔女のドリンクは二度と口にしない!」
「……ほう、いいんかい? あんたの……あの連れの男、今どうなっているか知らないだろう?」
「……どういう意味?」
「なぁに、言葉の通りさ。知りたいなら……ほれ、その一番左端に置いてある紫色のドリンクを飲んでごらん? 何でも聞こえる耳だ。どんなに遠くの声でも、決して聞き逃しやしないよ? 俗に言う、地獄耳っていうやつさ。視るのが怖いのなら、聞いて知れば良い。簡単な事じゃろうて」
「……何でも聞こえる、耳」
私は涙目になりながらも、ゆっくりとその紫色のドリンクに手を伸ばす。
――【地獄耳】。どんな声でも聞き逃さない……悪魔の耳。
こんなの、飲んでいい筈がない。そんな事はわかってる。……わかっているんだ。
けれど、ソウくんは今……どうしてる? ちゃんと無事でいるの? ……どうして戻ってこないの?
ずっと、ずっと……待っているのに。
……魔女の言葉が正しいとすると、ソウくんの身に何か悪い事が起きているのかもしれない。そう考えただけで、胸が締め付けられそうなくらいに苦しくなった。
――私は彼が、とても好きだ。
だから、彼の身に何か悪い事が起こってると言うのなら……私は……
今の私に出来る事……そんなものは数少ない。【やれる事】は限られているではないか。
ゆっくり左端の瓶を手にすると、唾液をゴクリと飲み込む。その姿を見ていた魔女はとても愉快そうな顔で微笑んでいた。
私は瓶の蓋を開ける。ポンッと気持ちの良い音が鳴り、その入り口から、微かに紫色の煙が宙に立ち昇った。
視てしまうよりも、聞く方がまだマシなのかもしれない。
確かに怖いけど……今はとにかく、彼の事が心配でたまらない。こんなところでずっと不安に怯えながら、彼の帰りを待っているくらいなら、いっそ……
私は戸惑いながらも、そのドリンクを一気に飲み干した。
「……っつ!」
【目】の時と同じように、猛烈な痛みが私の耳に襲いかかった。
まるで耳を、熱した鉄でジュウジュウと焼かれているような耐え難い激痛に、正気を保ってはいられず……思わず気を失いそうになる。
飲んではいけない事なんて、承知の上だった。……もう後悔はしない。
何の役にも立てないよりも、何か少しでも彼の役に立ちたいの。
……貴方を想う気持ちが、時に身の破滅に繋がるかもしれない。自ら、自分を犠牲にしてしまうかもしれない。
――でも、もういい。自分の気持ちに、嘘は吐きたくないの。
……彼はきっと喜ばない。とても優しい人だから。
だから、私が勝手にしたい事をする。――ただ、それだけだ。
「ソウく……ん………」
彼を救えるのなら、私はもう人間じゃなくても良い。
獣でも、悪魔でも、死神でも……
痛みが徐々に治まり始めてきた頃。特に意識はしていないのに、まるでストップ機能が壊れ、延々と流れ続ける演奏のように……幾つもの【声】が止む事なく再生された。
「……なに……何なの、これ……⁉」
私の耳が捉えたシグナルは、大方断末魔のような……悲惨な叫び声であった。
その声のあまりの大きさに、私は思わず両耳を塞いだ。
男性、女性、老人、低いものから高いもの……男性の低い呻き声から女性特有の高い金切り声まで、私の聴覚に直接振動を与え続けた。
「……ひっひ、お前さんにも聞こえたかい? 聞こえるのは、【今話されているもの】だけではないんじゃよ。その場に残った残留思念すらも聞き取れる。ほーれ、よく耳を澄ませてごらん? あんたにも聞こえる筈だ」
――老婆の言うとおりだ。叫び声が大きすぎて聞き取りにくいが、微かに聞こえてくる沢山の声と想い。
助けて……! 苦しい!
……死にたくない。
やめて……!
選ばれた……神に、なりたかった……
ただ……人間に戻りたいだけだったのに。
来るな!
――生きたい。
私の身体は震え上がり、恐怖のあまり歯がガチガチと音を立てた。
……言葉だけでわかる。あの場で今、一体何が起きているのかなんて、【一瞬】にして理解してしまった。
私は、私の背中にぞくりと嫌な汗が流れるのを感じずにはいられなかった。
耳を塞ぎ、目を閉じて、声が途切れるのを待つものの……一向に終わりを見せないその声に、私は心身共に疲労を感じ始める。……やがて聞きなれた筈の声が、私の聴覚の湖に波紋を広げた。
『こっちだ! 早く!』
――ソウくん! ……これって、絶対にソウくんの声だ。
彼の声を、私が聞き間違える筈がない。
『走れ! 立ち止まるな!』
焦りのみえる声で、誰かと会話をしている彼。……相手はきっと、サヤさんだろう。
何だか二人の会話に、こっそりと聞き耳を立てているかのように感じ、少しいたたまれない気持ちになった。
『――許せない。あの双子達は私の物なのに、絶対に許さない……』
『それ以上喋るな! 傷口に響く! ……サヤ、もう兎達の事は諦めろ。争いが生み出すのはいつだって絶望だけだ。どうしてそれがわからない? サヤは、この世界の住人になって何がしたいんだ!』
『うるさい! うるさい! 貴方にはわからない! 私がどれ程この夜を待ち侘びていたか……貴方なんかに、わかる筈がない!』
『わかるさ! サヤが『この夜宴の島に帰りたい』、そう毎日のように言い続けてきたのを……俺はずっと見てきたんだから』
少しの沈黙が二人の中に生まれる。その沈黙の間が、二人の心境を複雑に物語っているかのようだった。
『ねぇ……ソウ。やはり貴方と私は、恋人同士だったの?』
『……いいや、恋人同士なんかじゃない。俺達は姉弟だ。俺はサヤの弟だよ』
『おと……うと……? そんな……そんなの、嘘よ! だって、私は貴方を愛しているもの!』
『嘘じゃない、俺は――』
その瞬間、突然耳の中にキーンという超音波のような音が広がり、彼とサヤさんの声は一瞬でかき消された。
「いきなり何⁉ ……あれ? まだ何か声が聞こえる」
私の聴覚が、小さく低い声を逃す事なく捉える。小さな声なのに、先程まで聞こえてきたどの声よりも、はっきりと私の耳まで届いた。
それは、怨みがましく……震え上がりそうなくらいに恐ろしい声だった。
どこだ……
どこにいる……
鬼の娘と、娘を連れて逃げた男……
そしてあと一人、あの人間の娘……
許すまじ……一人残らず……
根絶やしにしてくれる――
「……っ!」
血の気が一瞬にして引いてしまうくらいの恐怖が、突然私の身に襲いかかる。
「……おや、どうした? 酷い顔色じゃないか? 何かあったのかい?」
老婆が、ニヤニヤと気持ち悪い笑顔で私に問いかけてくる。
――あれ? 急に声が聞こえなくなった。
「言い忘れておったが、その耳は人体への影響や負担が大きいので連続して長くは使えない。もう暫く経てば、また聞こえるようになるだろうさ。ひっひっひ!」
私は耳からそっと手を離す。……先程から気付いていたが、耳の形状が随分と変わっている。
先が尖っていて、少し硬い。その姿は、容易に悪魔を連想出来た。悪魔など非現実的なものだと思っていたし、実在する筈なんてないと思っていたから、テレビや本で見る、想像により創られたものしか知らないけれど……悪魔は本当にいて、やはり耳が尖っているのだなと思わずにはいられなかった。
「誰かが私達を捜している…….兎達を奪う為に仲間割れをして、鬼面達が襲いあったんじゃないの……?」
――その時、ふと気付いた。
「……双子は? 双子達の声は聞こえなかった……今、あの子達はどうしてるの?」
私は即座に片目を瞑った。すると、そこには先程と変わらず、寄り添い海辺に佇む二人の姿が見え、私は思わずホッと安堵の息を漏らす。……けれど、安心するのはまだ早い。
「さっきの声の主は、今でも兎達の近くに……あの海岸にいるのかな?」
私がボソッと呟くと、その声を拾った魔女がすかさず私に向かってこう言った。
「なら、自分の目で確認してみるがいいさ」
「え……?」
「両目を閉じて、見たい相手の事を考えるんじゃよ。あんたが気になり、知りたい相手の事は……その目が全て教えてくれるじゃろうて」
両目を閉じた時、映り込むのは【ソウくん】だけじゃなかったんだ。
【気になり、知りたい相手の姿が映る】
だから……私の眼にはソウくんの姿が映った。じゃあ私の両目は、願えばこの世界にいる誰の姿でも映す事が出来るという事なの?
私は目を閉じ、姿形も知らない……あの邪悪な声の主の事を懸命に思い浮かべる。数少ない情報から、恐らくかなりの【危険人物】であろうその男を、無理矢理手繰り寄せた。
「……――いた!」
私の視界に二人の後ろ姿が映る。
その二人組は双子達のいる海辺から、ほんの少しだけ離れた森の入り口付近で立ち止まっていた。
一人の姿に見覚えがある。後ろ姿からでも、すぐにわかった?
あの【夢を叶える白いドリンク】を飲んだ、粗暴で巨体な鬼面の男だ。先程、あの鬼面の声を聞き取れなかったのは……元々口数が少なく、無口なせいなのだろうか?
そして、その鬼面の傍にいる……もう一人の男。
……あの不気味な声の主は、この男に違いない。
男は急に巨体の方へと振り返る。その姿を目にした私の脳裏に凄まじい衝撃が走り、戦慄を覚えた。
「は……般若、の面……」
私から、一筋の汗が流れ落ちる。鬼面よりも、よっぽどシンプルな造りのその面だが……不気味さと恐ろしさは、その数倍だ。
右手には、脇差しなんかよりもずっと立派で威力もありそうな、日本刀らしき物が握られていた。
般若は巨体の鬼に向かって、何らかの指示を送っているようなジェスチャーを見せる。……こんな時に機能しない悪魔の耳に、少しばかり不満と苛立ちを感じ始めた。
やがて、会話を終えた二人は二手にわかれる。
般若は森の方へ。そして残された巨体の男は、海辺にいる兎達の方へと歩いて行った。
沢山の鬼達が砂の上に倒れているのが見える。その地獄絵のような光景に、胃液が逆流してくるのがわかった。
これ以上その現場を見たくない私は、咄嗟に目をしっかりと開いた。
「般若の男はソウくん達を追って森に……そして、巨体の鬼は兎達の見張り……私はこれから、どうすればいいの」
「困ったなら、この残りの二本も飲んでみたらどうだい? ……きっと、役に立つはずじゃよ」
魔女は『ほれっ』と言うと、小さな瓶を手に取り、振り子のように軽くユラユラと揺らした。
「その二本には、一体どんな能力が備わっているの?」
私は緑色のドリンクと真っ黒なドリンクを交互に見つめながら、魔女の老婆に問いかけた。
「こっちの緑のドリンクは一定期間姿を消す事が出来る。【カメレオン】と呼ばれているものじゃよ。……しかも効果は絶大じゃ。カメレオンが触れている期間は、その触れられている相手も姿を隠す事が出来る」
「カメレオン……」
これは使えそうだ。上手く使いこなせば、兎を助ける事も、般若や鬼面からも身を隠す事も出来る。それに、私が触れてさえいれば皆を守る事も可能だ。
「その薬は持っておいき。消えたい時に飲むがいい。しかし飲めるのはあんただけじゃ。他の者には決して飲ませてはならんぞ? ……良いな?」
「……わかった」
魔女は私の返答を聞くと、不気味ににんまりと笑い、『いい子だ』と妖しげに囁いた。
「そしてこっちは……」
「――というわけじゃ」
二本のドリンクの説明を聞き終えた私は、それらの瓶を魔女から受け取り、少し大きめの上着のポケットの中にしまう。
「ひっひっひ。では、気ぃつけてなぁ。健闘を祈っておるからのう」
「……ありがとう。お婆さん」
私が一応、お礼の言葉を伝えると、魔女は軽く頷きながら、暗い森の中に溶け込み……あっという間に見えなくなった。
「……よし。先ずは兎達を助けにいかなきゃ」
兎達のいる付近に転がる鬼面達の姿を思い出すだけで鳥肌が立ち、身体がブルッと震える。
けれど……絶対に助けるって約束したから。――行こう。
大丈夫だ。今、私は少しだけ……ファンタジーの世界からホラーの世界に場所が移っただけ。ホラー小説だって、沢山読んできたんだ。まったく免疫がないわけではない。
それなら今日、私はホラー小説の主人公にでもなってみせよう。……フラグさえ立てなかったら大丈夫。
勇気を出して、この最後の一日に決着をつける。
――待ってて。シロくん、クロちゃん。
般若面と鉢合わせにならないように、鷹の目で確認しながら、素早く海岸に移動をする。
今のところ、彼とサヤさんは何とか無事のようだ。
一面に広がる真っ白な海原の端には、双子達と巨体の鬼の姿が見える。
般若面が戻ってくるかもしれない。それまでに、何とか兎達を助けなければ。厄介な相手は、なるべく少ない方が良い。
私は樹の葉に隠れ、そっと様子を伺った。
兎達はとても退屈そうにしている。白兎は砂浜に寝そべり、黒兎はたまに巨体の身体を蹴り飛ばしたりしていた。……けれど、巨体は何の反応も見せない。
やはり、鬼が兎達に手を出す事はないか。
嫌でも視界に映り込む、砂浜に倒れる十数名の鬼面達。白の中に混ざる赤い血痕。
――鬼達は生きているのだろうか?
そんな事を考えただけで血の気が引き、身体が急速に体温を失っていく。……どうしてこんな事になってしまったんだ。
「兎狩り……お願いだから、早く終わって」
この夜が終わりさえすれば、きっと兎達が般若を何とかしてくれる筈だ。取り敢えず、どうにかしてあの巨体の意識をこっちに向けないと。
私は震える手で、おかめの面を顔に被せた。
私は深く深呼吸する。……大丈夫、やれる。
ポケットの奥から緑色の液体が入った瓶を取り出し、予め蓋を開けて、岩の上に置いた。
……大声は出さない。般若まで気付いてしまったら厄介だから。
私は近くにあった【かなり大きめの石】を持ち上げ、海岸に出ると……渾身の力を振り絞り、それを海に目がけて投げ込んだ。
海に投げ込まれた石は大きな水飛沫を上げる。
私はすかさず森の中に姿を隠した。
少し離れた場所にいる鬼面は、それに気付くと立ち上がり、こちらに向かって歩き始めた。
――今だ!
私は緑色のドリンクを半分程度口に含み、飲み込む。数滴だと、いつ効果が無くなるかわからないので【念の為】の半分だ。
飲んですぐ身体に異変が起こる。目や耳の時のような痛みはない。寧ろ身体がまるで風船のように軽くなった感じだ。
身体が見る見るうちに透けていく。巨体は海の中に足を浸け、水飛沫が上がった辺りを隈無く調べていた。
私は走った。全速力で。
巨体の背後を猛ダッシュで走り抜ける。巨体は全く気付かない。
白兎と黒兎は、巨体の方を眺めている。兎達ですら私の存在には気づいていないようだ。
私は急いで二人の腕を掴む。兎達がようやく私を認識する。
「ミズホ……⁉」
それと同時に二人の姿が透け始めた。私は兎達を連れ、取り敢えず海岸の洞窟を抜けて、反対側の出口から出る事にした。巨体の鬼の動向を確認する時間すら今は惜しい。気付いていないようなので素通りする。
私は背後を一切振り返る事なく、洞窟内を突き進んだ。
黒兎は、途中『痛いだろうが、もうちっと優しくしろ!』などと減らず口を叩いていたが、白兎はずっと静かに黙り込んでいた。
「ごめん、二人共。少しだけ待って」
洞窟の奥で私は一度、その場に立ち止まる。そしてそっと目を瞑り、巨体の姿を確認した。
巨体は兎がいなくなった事に気付き、慌てて辺りを見回している。
私は次に般若面の姿を確認した。……般若は宴の場にいた。血に濡れた日本刀を、引き摺るようにして歩くその姿に……他の者達も、面の下では怪訝な表情を浮かべているに違いない。
最後に確認したのは……彼とサヤさんのいる場所。
二人は小さな灯台の上にいるようだ。灯台に登り、腕を負傷したサヤさんの手当てをしている彼の姿が見える。
「ねぇ二人共、灯台にはどうやって行くの?」
「あ? 灯台? ……それならこの先を抜けて、北東に進んだ先にあるけどよ? 何でだ?」
「そこにソウくん達がいるの! シロくん、クロちゃん! 早くそこまで行こう! ……兎狩りが終わるまで、そこで隠れてじっと待つの! そしたらきっと」
「……ちょっと待って」
突然、白兎が私の言葉を制止する。
「シロ、くん……?」
「……ミズホ、その耳は何?」
白兎の突き刺さるような冷たい声色に、思わず萎縮した。
「ミズホ、答えて」
「おい……白兎。お前」
「黒兎は黙っててくれない? ……ミズホ、答えて」
私がまったく言葉を発せずにいると、白兎は大きく溜息を吐いた。
「ねぇ、ミズホ。どういうつもりなの? 僕、言ったよね? 二度と魔女の薬に手を出すなって」
「ごめんなさい……」
白兎の私に対する怒りが、痛い程伝わってくる。……無理もない。あれだけ私の事を心配してくれてた白兎の気持ちを無下にしたのだ。責められるのも当然だ。
「ま、まぁよ? こいつも、あたし達を助ける為にした事なんだから……白兎、お前ちょっと落ちつけよ? なっ?」
「醜い目に、醜い耳……そして姿を消せる能力。……君は究極のマゾヒズムなの? そんなに魔女のペットになりたいの? 人である事を捨てると言うのなら、魔女の手など借りずとも、僕自身の手で君を魔物の姿に変えてやる! 醜く憐れな姿で、一生地を這いずり回ればいい!」
白兎の悲痛の声が、洞窟内に反響した。
「……ご……めんなさい、私……」
少年は小さな身体をほんの少しだけ震わせながら、ゆっくりと地べたに腰を下ろした。
「……ごめん、ミズホ。言い過ぎたよ、ごめん」
「シロくん……」
「けど、どうして……? どうして、僕の言う事を聞いてくれないの? そこまできたら、もう僕の力では君を元の姿には戻せない。黒兎の力を借りたとしても無理だ。僕等はまだ半人前なんだ。この島の恩恵を受け、願いは叶えられても……呪いを解く術などないんだよ」
小さな少年は膝に頭を埋め、消え入るような微かな声で私にそう告げた。
「あー……悪りぃ。そいつの言う通りだ。あたし達にはどうしてやる事も出来ねぇ。魔女の力は、欲する者の欲望により生まれた【お前と魔女だけ】の契約だ。あたし達には手出しが出来ねぇ。解呪するには、魔女よりも高等な魔力を持つ者でないと……」
双子達にも私を元の姿に戻す事は不可能。……仕方がない。自分で蒔いた種だ。それに、こうなる事は何となくわかっていた。わかっていながら……私はあの魔法のドリンクを飲んだのだ。不思議と、以前のような後悔は無い。
「……わかった。ありがとうね、二人共」
「! ……で、でもよ! お前ら二人共、そんな大袈裟に考えなくても簡単な方法があるじゃねぇか! 勝ちゃあいいんだよ! 女! お前がこの狩りの勝者になればいい。そして願うんだ、元の姿に戻して欲しいと。そしたらこの島の力を借りて、未熟なあたし達でもお前を元の姿に戻してやれる筈だ」
「え……?」
私が兎狩りの勝者になれば、元の姿に戻れる? けど、それは……
「――それは無理だよ。黒兎、君は本当に頭が悪いね。ミズホの事を何一つとしてわかってはいない。それが出来るのなら僕がここまで悩む必要はない事に、何故気が付かないの?」
「あ? ……何だよ? どういう意味だよ?」
「断言しよう。ミズホは……たとえ勝利を手に出来る一番近い場所にいたとしても、きっと他の者に勝利を譲る」
白兎はそっと兎面を頭にずらす。そうして露わになったその瞳は、私をじっと見つめていた。
「自分の事よりも、人の事を優先し過ぎる。後先考えずにね。……こういうのって、自己犠牲の精神とでも言えばいいのかな? 悲しい事だね。きっと、幼い頃の家庭環境が君をそんな風にしてしまったんだ」
私は以前、白兎に話した内容を思い出していた。白兎の悲しそうな表情を見ると、何故かとても……心が痛む。
「……ミズホには欠けているものがある。たとえば、自分自身を大切にする事が出来ないところ。辛い事をわざわざ口に出さない性格だから、いつだって一人で背負い込み、我慢してしまう。周りが気付いてあげないと、君はいずれ壊れてしまうかもしれないのに……あの男は今、サヤの事で頭がいっぱいで、ミズホの事なんてこれっぽっちもわかろうとはしない。僕はそれが許せないんだ」
「! 二人共、サヤさんの事を知ってるの⁉」
私の言葉に、白兎が答える。
「サヤは、ミズホと同じように……この夜宴の島に招かれ、ここにやってきた人。そしてこの島の魅力に心を囚われてしまった、とても哀れな人だ。けれど、とても聡明で美しい人だった」
「……あぁ。サヤは本当にいい奴だったよ。あたし達にもすっげぇ優しくてさ。でもあいつは、あたし達を裏切ったんだよ。信じていたのに……だからあたしは人間は嫌いだし、信用ならねぇと思ってる。白兎と違ってな」
「裏切った……? それってどういう」
「……ミズホ」
白兎は私の声を遮るように声をかけると、そっと立ち上がり、私の目の前に立った。
「ミズホ、君はこれからどうしたい?」
「え……?」
「君のポケットの中に、他にもまだ魔女の薬があるね?」
……シロくん、わかっていたんだ。
黒兎の方をチラッと見ると、黒兎はバツが悪そうな顔をして、サッと目を反らした。
そっか、クロちゃんも……
「僕達には、その【中身】がどんなものなのかわからない。……けどね、ミズホ。それが、たとえどんなに役立つものであったとしても、決して【良いもの】ではないんだよ?」
「……うん。わかってる」
私は左のポケットに手を入れ、小さな瓶をギュッと握りしめた。
「それを使うかどうか。そして君が、この狩りの勝者になるかどうか。全てミズホが決めるといい。僕はそれに従う。……勿論、黒兎もね」
「白兎⁉ お前……何、勝手な事を!」
「……黒兎、いい加減に素直になりなよ。君だって本当はミズホの事が好きなくせに。何だかんだ言って、いつも心配してるよね? 本当に可愛くないんだから……」
「は、はぁ⁉ んなわけねぇだろ! 馬っ鹿じゃねぇの⁉ 誰がこんな人間の女の事なんか……!」
「はいはい……煩い。少し黙ってて」
白兎はギャーギャーと喚き散らす黒兎を無視し、私に優しく語りかけた。
「……ねぇ、ミズホ。僕は何があっても君の味方だ。だからミズホの好きなように動くといい。君のその姿が、もしも化け物になってしまったとしたら、魔女じゃなく僕が飼ってあげるよ。いっぱい可愛がって、いっぱい愛してあげる。その寿命が尽きるまで、ずっとずっとミズホの傍にいるから」
白兎は目を閉じ、私の袖をキュッと掴む。
「どうか、君の選択に……最高の奇跡が起こるように」
「シロ……くん……!」
白兎の言葉に、ボロボロと涙がこぼれ落ちた。
「泣かないで、ミズホ。僕はミズホの笑った顔が好きなんだ。そりゃ、泣いてる顔も多少は唆られるけど……でもやっぱり、ミズホは笑ってる時の顔が一番可愛いよ」
涙が面の中に次々と溜まっていく。私はそっとおかめ面を外すと、白兎に向かって精一杯笑いかけた。
「あり……がとう!」
「……まったく、酷い顔だね。それに、人間はとても器用だ。泣きながら笑う事が出来るんだもん。これじゃあ、ミズホが悲しいのか嬉しいのか、僕にはまったくわからないよ。涙を止める魔法が使えたら、今すぐ君に使ってみせるのに」
そう言うと、白兎もニコリと笑ってみせた。
安心出来て、頼りになる優しい声。身体は小さくても、やはり私なんかよりずっとずっと大人なんだ。
――優しく小さな兎の神様。その御加護が、私にありますように。
「……あー、もう! うぜぇな! これだから女は嫌いなんだ! 何かあるとすぐ泣きやがる。……ほら、これ使えよ。ったく」
黒兎は腰につけた巾着から小さな手拭いを出すと、素っ気なく私に差し出した。手拭いは桜の模様が入った、とても可愛らしいものだった。
「クロちゃんも……ありがとう!」
「……洗って返せよ! 馬鹿野郎」
――私、この子達の事が大好きだ。
白兎も黒兎も、少し歪んでいるかもしれないが本当にとても優しい良い子達だ。二人はルール上、私に加担する事は出来ないかもしれないけれど……傍に居てくれるだけで心強い。
「さぁ、ミズホ。灯台に行くんでしょ? ……なら、急がなきゃ。もう知ってると思うけど、鬼面の中に異端者が紛れ込んでいる。行動は迅速且つ、なるべく無駄の無いようにするべきだよ、今はね……」
「般若の面の……男、だよね?」
「あんの般若の野郎……マジで不気味だよな? 他の鬼達とは明らかに毛色が違うしよ」
「で、でも! 兎狩りは最初から参加が決まっていた鬼面と、【参加する】に手を挙げた私達以外は参加出来ない筈だよね⁉ じゃあ、あの般若は……一体、何の為にこんな事を?」
「……いや、ミズホ。奴は【鬼面】だ。間違いなくね。兎狩りの参加者はオーラで判別できる。鬼面を捨てて、般若の面を被っただけに過ぎない。だから、奴が僕達を捕らえたなら……当然、勝利者の権利は奴のものとなる。ただ――」
「ただ……?」
「己の願いを叶える事よりも、鬼達の事よりも、君達に対し深い憎悪のようなものを感じるし、酷く執着しているようにも思える。願いを叶えて欲しいだけならば、僕達の見張りを巨体の鬼に任せず、自分で見張ればいいものの、わざわざ君達を捜しに出向いた。……これは明らかに異色だ。ねぇ、ミズホ。奴に、何か心当たりはない?」
「心当たりって言われても……うーん」
私が考え悩んでいると、突然、黒兎が大声でゲラゲラと笑い出した。白兎は少し苛立ったような表情を浮かべながら、黒兎を睨みつける。
「甘ぇな、白兎! 【願いよりもこいつら】ってのは、ちょっとお前の勘繰りすぎじゃねーの? 般若の野郎は、念の為に全員殺っちまってから安心して願いを叶えてもらうつもりかもしれねぇだろうがよ? ちったぁ、頭使えよな!」
「……まぁ、一理あるね。ただ、馬鹿な黒兎に言われる程、腹立たしくて屈辱的なものはないけどね」
二人の間に激しい火花のようなものを感じ、私はすかさず中に割り込んだ。
「あーもう! 二人とも、喧嘩しないでよ! 行こう、灯台! 今すぐ行こう! 巨体がここに気付いて追いかけて来るかもしれないし! この透明化も、いつまで続くかわからないんだから」
私はおかめ面をきちんと被り直すと、二人の手を引いて洞穴の中を突き進んだ。
白兎の先程の言葉が、頭の中をぐるぐると巡る。
『奴に、何か心当たりはない?』
――何かが、胸に引っかかる。そして地獄耳で聞いた、あの般若の声……確か、どこかで……
目で般若や巨体の様子を伺いながら、私達は何とか灯台へと辿り着いた。薬の効き目は既に切れていて、半分飲み干して持続時間は大体一時間前後だと知った。
私は髪で耳を隠す。こんな耳、彼には見られたくない。
透明になれる薬も魔女ではなく、他から貰い受けた事にしよう。
白兎が『本当にそれでいいの?』と、私に問いかけてくる。
……うん、それでいい。彼にだけは、知られたくない。彼にだけはこんな姿を見られたくない。だから……これでいいんだ。
……もしも私が化け物になってしまったとしたら、彼の前からひっそりと消えよう。
「行こう、シロくん! クロちゃん!」
私は二人を連れ、螺旋状の階段を急いで駆け上った。
「ソウくん!」
私の声に、彼は驚いたように振り返った。
「ミズホ⁉ どうしてここに⁉」
「良かったぁ……ずっと心配してたんだからね? 目を使って、何とかここまで来れたんだよ」
彼は白兎の姿を視界に入れると、心底驚いたような素振りを見せ、私に尋ねた。
「白兎まで。という事は、もしかして……黒兎もそこにいるのか?」
彼の言葉に、黒兎が思い出したかのように手を叩いた。
「あ、そっか。こいつあたしに触れてねぇから姿見えてねぇんだわ。しょうがねーなぁ……」
黒兎はスタスタと彼の前まで歩いていくと、そっと彼に触れる。
「よぉ。ちゃんとあたしもいるぜ?」
「! やっぱり黒兎も……!」
彼は急いで黒兎の横を通り過ぎると、私の肩を両手で掴み、軽く揺らした。
「ミズホ、まさか君が一人で兎達を⁉ 何て無茶な事をするんだ! ……怪我とかない? ごめん、俺がミズホを一人にしたから」
「だ、大丈夫! 大丈夫だよ、ソウくん! ちょっと落ち着いて。ねっ⁉」
突然私の隣にいた白兎が、彼の足を思いっきり蹴り上げる。蹴りは、上手く弁慶の泣き所にヒットしたようで、彼は痛みのあまり声も出ないようだ。
「僕のミズホに触れるな。……この下等民族が」
「ちょ、ちょっと! シロくん! 何してるの⁉ ソウくん、大丈夫⁉」
私は急いで彼に駆け寄るが、白兎は素知らぬ顔でそっぽ向いている。……少年はかなり彼の事が嫌いなようだ。
「いってぇ……ったく、少しは手加減しろよな!」
彼はそう言うと、足を摩りながらその場に座り込んだ。
「ソウくん……サヤさんは?」
「あぁ……サヤならさっき眠ったところだよ。少し疲れたみたいだ」
彼が指差す方向に、座りながら眠りこけるサヤさんの姿を見つける。彼女の腕に巻かれた彼の上着に薄っすらと血が滲んで見えた。きっと、般若に切られたのだろう。
「サヤさんの腕の傷……大丈夫なの……?」
「……大丈夫。出血のわりに、傷口の方は大した事ないよ」
「ねぇ、シロくんにクロちゃん……サヤさんの傷、治してあげられないかな?」
私が双子達に尋ねると、黒兎はこちらに目を向ける事なく、キッパリと言い張った。
「ルール違反」
「黒兎……根に持ちすぎだよ、サヤの事。……ごめん、ミズホ。言い方は悪いけど、黒兎の言う通りなんだ。狩りの最中は、如何なる場合でも私情で動く事は許されない。僕らはあくまで中立の立場だから……」
「そうだよね……うん、わかった。ごめんね、二人共……」
「……あ! けどそこの白兎さんは、お前の事になるとすぐに我を忘れるからなぁ? おい、白兎? お前、せいぜい処罰されないように気を付けんだな。あたしみたいに【クール】でいねーと、いつか足元掬われるぞ?」
「それはどうだろうね、黒兎。【クール】でなくて、足を掬われるのは……案外、君の方かもしれないよ?」
「……はぁ? お前、それどういう意味だよ?」
「別に?」
「……喧嘩するならどこか他所でやってくれ」
溜息を吐き呆れたような声を出した彼は、ゆっくりと私の方に向き直った。
「……ミズホ。俺がいない間に何があった? 教えてくれないか?」
「……うん。わかった」
私は彼に、今までの出来事を掻い摘んで話す。……勿論、この耳の事や魔女の事は一切話さずに。
彼は一頻り話を聞いた後、そっと口を開いた。
「――なるほどね。要するに、その薬を飲んだミズホに触れている間は俺達も同じように姿を隠す事が出来る。それで、この夜を何とかやり過ごすって事か。……ミズホ、その瓶、本当に魔女に貰った物じゃないんだよね?」
「もう! 違うってば! 当たり前でしょ⁉ これ以上私、おかしな身体になんてなりたくないもん!」
私は可笑しそうに笑ってみせる。
「けど、両目を閉じただけで想った相手の姿を確認出来るなんて……本当に凄いよ、それ」
「あはは、そうかなぁ? けど、この目も今日で最後。明日には元に戻ってるよ!」
「うん。少し勿体無い気もするけどね」
私はチラリと白兎を横目に見る。白兎は何も言う事はなく、ずっと灯台から綺麗な月を眺めていた。……良かった。黙っていてくれるみたいだ。
――そう安心したのも束の間、突然私に異変が起こり始めた。
「?…………あ、れ……?」
「ミズホ? どうし――」
いきなり彼の声が……消え……た? ――いや、違う。突然、彼の声が聞こえなく……なった……?
目の前には……口をパクパクと動かす彼の姿。
――彼の声が、聞こえない。
「っ……う!」
耳が熱い……! 酷い耳鳴りが私を襲う。
痛みはない。……けれど、金属音にも似たような酷い音が私の耳を支配していた。
「な、なに……これ……」
その時、私の腕にグッと強い圧力が加わる。
――白兎だ。
白兎は私の腕を引くと、その小さな身体のどこにそんな力があったのだろうか? 私を軽々と担ぎ上げ、灯台の階段を急いで駆け下りた。
「シロく……ん……」
地上に降りると、白兎は私を地面に座らせる。
兎面を外した白兎は、口をパクパクと動かすが……少年の声は私の耳には届かない。
やがて、焼け付くような耳の熱さや不快な金属音が治まると……今度は【地獄耳】が活動を始めた。
頭に響いてくるのは、歌……?
そう……歌だ。遠くから、おかしな歌が聞こえてくる。けれど、声が小さすぎて……歌詞を上手く聞き取る事が出来ない。
うんと低い声で、楽しそうに……何度も繰り返される不気味な歌声は、徐々に大きくなり、はっきりと聞き分けられるようになった。
鬼狩り……人狩り……
楽しいな……
兎を盗んだ悪い子、誰だ……
盗人見つけて、地獄を見せる
泣いて苦しみ、地獄に落ちろ
宴の場には誰も居ぬ。
森か、海か、洞穴か……
それとも
いるのは、灯台か……
身体中の毛という毛が逆立つ。私は咄嗟に両目を瞑った。
般若が巨体の鬼面を連れ、こちらに向かって歩いてきているのがわかった。見覚えのある折れた大木からおおよその距離がわかる。このペースなら、あと十分もしない間に着いてしまうだろう。
(ミズホ!)
突然脳に語りかけてきた白兎の声に、私はパッと目を開く。白兎は私の面を無理矢理外すと、呪われた悪魔の両耳を強く押さえた。
(……治す事は僕の力じゃ無理だ。けど少し進行を遅らせるくらいなら僕でも出来る筈。急がなくちゃ……このままじゃ、君は人としての聴力を失ってしまう)
「けど……私を助けるのって、ルール違反なんじゃ……!」
(これは兎狩りのイベントに直接関与していない。大丈夫……僕に任せて)
「でも! ……やっぱり駄目! 駄目だよ。般若達が今、こっちに向かってきてるの。多分あと十分ぐらいで着いてしまう。こんな事をしてる間にも、どんどん近付いて来てるんだよ……? 早く逃げなきゃ!」
(君の耳を何とかする方が先だ! 今、君からの指図は受けない! 僕がしたい事をする。……大丈夫。時間は取らせないから)
白兎の眼が禍々しい程に紅く染まる。白兎の手から私の耳に、優しく温かいオーラのようなものが流れてゆくのを感じた。
白兎の額に汗が流れ始め、呼吸も乱れ始める。
時折苦しそうに歪んだ表情を見せる白兎に、とても胸が締め付けられた。
――少しずつ、少しずつ……周囲の音がわかるようになってきた。まだ少し音の篭ったような閉塞感は感じるが、それでも何とか聞き取れる。
階段を降りる複数の足音が聞こえてきた。彼とサヤさんと黒兎が、こちらに向かって走って来る……
彼らは私達の姿を見つけると、急いで傍に駆け寄ろうとしたが、白兎が『来るな!』とそれを止めた。
「……白兎、お前」
白兎の手が私の耳を隠してくれていたから、彼やサヤさんは多分気付いていないだろうが、事態を一瞬にして察したであろう黒兎は、呆然と白兎の姿を見下ろしていた。
白兎は浅い呼吸を吐きながら、黒兎に告げる。
「……ちょうどいいところにきたね、黒兎。今ここに般若達が向かってきてる。そこの男とサヤを連れて、急いでここから離れるんだ」
黒兎は白兎の胸ぐらを掴みながら、怒りや戸惑いを露わにした。
「馬鹿言ってんじゃねぇ! お前、どれだけ力を使ってんだよ⁉ フラフラじゃねぇか! ……そいつ、相当やべぇのか?」
「そのようだね。……かなりのものだ」
「……ちっ! 仕方ねぇ、あたしの力も貸してやる! だから早くしろ! おい、サヤに男! お前ら、さっさとここから離れやがれ! 今すぐにだ!」
「黒兎!」
白兎の叫びがその場に響き渡り、辺りはしんと静まり返った。
「――黒兎、頼む。君達がここから逃げてくれないと、ミズホが気にやむ。僕なら大丈夫だ。万が一間に合わなくても、僕がミズホを守るし、透明になれる薬だってある。必ず合流するよ」
「白兎……ちっ! わかったよ! ぜってー捕まるんじゃねぇぞ⁉」
「ありがとう、黒兎。助かるよ……」
「……気色悪りぃ事ほざいてんじゃねぇよ! 行くぞ、お前等! あたしについてこい!」
黒兎は二人に声をかけると、私達に背を向けた。
月明かりが辺りを優しく照らし、光がまるで細かい綺羅星のように、地面をキラキラと輝かせていた。
そんな中、彼がそっと口を開く。
「……ちょっと待てよ。勝手に決めるな」
「ソウくん……」
「ミズホ、俺も一緒にここに残る。君を置いてはいけない」
その言葉を聞いた途端、白兎は真っ赤な目で彼を睨みつけた。
「黙れ……お前の出る幕じゃない。下がってろ。ミズホは必ず僕が守ってみせる。お前はサヤの事だけ守っていれば良い」
「おま……」
「ソウくん!」
反論しようとする彼を、私が制止する。
「ソウくん、お願い……行って。もうすぐ般若達がここまで来てしまう。サヤさんと黒兎を守ってあげて」
「ミズホ……」
「……行きましょう、ソウ。行けと言うのだから行けば良い。どうせ今、理由を問う猶予すら私達には与えられていないのだから。私は兎さえ手に入ればそれで良い。本当は白兎を無理矢理にでも連れて行きたいところだけれど……どうやらそれは無理なようね。なら、二匹とも奪われるわけにはいかない。……ねぇ、そこの娘。私達はどの方角をゆけば良いの?」
「般若達は……あっちの方角から来ます」
「……そう。ありがとう」
彼女は私達に背を向けると『行きましょう』と言い、黒兎と彼の手を引く。彼は振り返り、じっと私を見つめた。
ひょっとこの面に隠され、その表情はわからないけれど……きっと泣きそうな顔をして心配している。
「ソウくん、大丈夫。私達を信じて。必ず合流する」
「……わかった。きっと、無事で」
彼は私にそう告げると、黒兎とサヤさんと一緒に森の中へと消えていった。
「ミズホ。この状態のまま、奴らが今、どの辺にいるか確認出来る?」
「……やってみる」
私は、そっと両目を閉じた。
――いた。
声は聞こえない。白兎の力で地獄耳の効果が一時的にかもしれないが、上手く制御されているようだ。
般若達は立ち止まっている。先程視た場所から、さほど距離が進んでいないように思えた。
……良かった。もう少し時間が稼げそうだ。
――その時、私は恐ろしい事に気付く。
般若はその手に、液体の入った小さな瓶を持っていた。……間違いない。あれは魔女の薬だ。
色の識別が出来ない。中身は恐らく透明。だからといって、ただの水のわけがない。
何故だ? 何故、般若があの瓶を? ……魔女から無理矢理奪ったのか?
それとも、最初から魔女が裏で糸を引いていたという事なのだろうか?
聞かずとも知れている。恐らく後者だろう。
私は最初から、魔女の手の中で踊らされていたというわけだ。そして私がその事に気付くのも、きっと魔女の想定内。
「やってくれるじゃない……」
そして……もう一つわかった事がある。
般若は薬を飲む為に、その面を外した。
……どうして今まで気付かなかったんだろう? どうして、今まで忘れてしまっていたんだろう?
よく考えれば簡単な事だったのに。
「シロくん……」
「……ん。君に触れていたからか、僕の頭にも映像が流れ込んできた。そして……君の思考まで、ね。ミズホ、般若に心当たりがあるんだね」
「うん。般若が誰なのかが……わかった」
「話してくれる?」
「……うん。般若の正体は……兎狩りの二日目が始まった時、突然私に襲いかかってきた鬼面の男。間一髪のところで、ソウくんが助けてくれたの。その時、彼は……もしかして兎狩りの対象者かも外れるかもしれないと言って、あの男から鬼面と脇差しを奪った……」
「成る程ね。道理で君達に対する奴の憎悪が強いわけだ。しかし、あの男も考えが浅いね。鬼面がなければ対象者から外れるなど馬鹿の極みだ。けれど……何かが引っかかる。ミズホ、その鬼面は……今でもあいつが持っているの?」
「……わからない。けど、多分。おかめの面もひょっとこの面も、元の世界に戻ると消えているのに、この世界に戻ってきた時はいつもちゃんと手に持っているから。今でも彼の鞄の中に入ってると思うけど……」
「……あの男は今、【鬼面と脇差し】を持っている。そして、あの魔法の薬が入った瓶の【中身】。般若の【望み】。僕の考えが正しいとしたら……」
白兎は即座に立ち上がると私に告げた。
「……ミズホ! 急いで黒兎のところに向かおう。耳は取り敢えずこれで大丈夫な筈だ。――嫌な予感がしてならない」
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