第2話


「……また、泣いてんの?」

 そう呆れたように話しかけてくるのは、付き合って五年になる彼氏。名は榊英慈という。

 英慈は会社の同僚でもあった。入社当時、私達は同じ年齢という事もあってとても気が合ったし、仲も良かった。

 ある日の飲み会で、突然好きだと言われ、それからずっと付き合っているのだが……時間というものは、良くも悪くも人を変えてしまう。

 外は雨が降っていた。古びた二階建てのアパートの二〇三号室に住んでいた私は、雨の粒が屋根に落ちて弾かれる音がとても好きだった。

 規則正しく奏でる優しい音が、私の心を穏やかにしてくれる。

 今の私には目の前にいる男の言葉よりも、止まない雨音の方が聞いていて余程、気が楽になれるというもの。

 英慈は大きく溜息を吐いた。

「お前さぁ、多分病気だよ。病気。普通じゃないもん。毎日毎日ぼんやりしては、急に泣き出したりしてさぁ。やっぱ変だって。一度病院に行ってみれば?」

 行為を終えた後の男というものは、途端に熱が冷め、素っ気なくなる……というのはよく聞く話だが、私達には五年の付き合いから生まれる慣れというものが上乗せされていた分、更に酷いものだった。

「……そんな時間ない。あっても、病院に行く時間が勿体無い」

 英慈は小さく舌打ちしてから、前髪を雑に掻き上げると、吐き捨てるように私に言った。

「なら泣かない努力しろよ……辛気臭くて、見てるこっちが嫌んなるって! 大体さ、もういい年なのに……そういうのメンヘラっていうの? 所謂構ってちゃんってやつじゃないの?」

 無神経な言葉が刃物のように突き刺さる。私は苛立ちを覚えていた。それでも英慈の小言は続く。聞いているだけで気が滅入っていくのがよくわかった。

「……ねぇ、私がいつ死にたいだなんて言った? 自傷行為をしたり、それをあんたに見せつけた事が今までに一度だってあった? ネット知識で何でも一括りにしないで。わかんないんだよ、英慈には。わかるわけないよ。私にだってわからないんだもん。どうしてこんなに涙が出るのか、何がそんなに悲しいのか……それなのに、英慈はいつだって」

「あ~、もうわかったから。そんな怒んなって。あっ、何ならもっかいする? そしたら気分も晴れるかも」

「帰って。一人になりたいの」

「……何だよ、心配してやってるのに」

 そう言うと、英慈は服を着て、さっさと出て行ってしまった。

 私の目からは相変わらず涙が流れたまま。外の雨と同じで、まだまだ止んでくれそうもない。


「……心配してやってる、か」

 よく言ったものだ。本心はそうじゃないという事くらい、英慈の態度を見ていれば簡単にわかってしまうのに。

 英慈の視線が面倒臭いと言っている。

 英慈の溜息が疲れると言っている。

 英慈の全てが私自身を否定している。

 勿論、私だってわかっているのだ。このままの状態でいる事は、決してプラスにはならない。

 私がちゃんとしないと、二人の関係もいつか終わりを迎えるだろう。

 英慈は至って正常だ。おかしいのは間違いなく私自身……

 私は、異常なのは自分の方なのだと、充分に理解していた。

 私がこうなってしまった事に、特に何があったというわけではない。そう、理由など全然見当たらないのだ。それなのに私は、毎日が苦しくて、辛くて、どうしようもない不安に襲われる。

 思い返してみたら、私は昔からこんな性格だったような気がする。何をするにも、誰かの顔色を伺いながら、他人重視で生きてきた私は……毎日、心の奥にある不安に押し潰されそうになっていた。

 この世は弱肉強食とはよく言ったものだ。その中での私は、間違いなく弱者。強者に睨まれる事が嫌で、したくもない事を笑顔で引き受け、懸命にこなしてきた。嫌な事も我慢した。理不尽な事も受け入れた。そうした後、決まって悲しくなり、家で一人で泣いた。

 そんな私を見て、両親は過剰に心配した。下らない事で心配をかけてしまう自分が、惨めで、情けなくて、恥ずかしく思えた反面……心配を口にする両親を、とても重く感じた。

 私の中で、誰かに相談するという選択肢は存在しなかった。数回、友人に悩みを話してしまった事もあったが、その後が悲惨だった。その友人が誰かに口外してはいないかと、不安で眠れなくなってしまったのだ。

 私は悩みを話した事を後悔した。そして、自分を心配して話を聞いてくれた友人を信用しきれない自分自身に、心底嫌気がさした。

 それから私は、自分の想いや気持ちに蓋をする事にした。

 実際、私は英慈に何も伝えてはいない。心の中に渦巻く不安や悲しみ。違和感。葛藤。何一つ、口にしてはいないのだ。

 英慈が知っているのは、私が気付くと、いつも泣いているという事。たったそれだけ。

 それだけであの言われようなのだから、わざわざ英慈に私の胸の内を明かしたりはしない。上手く説明出来る自信もなかったし、余計に傷付きたくなかったから。

 ただ、流れ出す涙だけはどうにも自分でコントロールが出来なかった。これをコントロールする事が出来たならば、私は絶対、英慈の前で涙を流しはしなかっただろう。

 私は本当に、英慈を信頼しているのだろうか? ただ、少しでも寂しさを紛らわせる為だけに一緒にいるだけのような気がした。


 気付けば一人、眠れない夜を過ごす事が多くなっていった。何かに時間を費やしているわけではない。単に眠りたくても眠れないだけだ。

 家族や友人に連絡しようとは思わなかった。勿論、英慈にも。

 晴れの日は、ベランダで夜空の星を見上げながら泣いていた。雨の日は、ベッドの隅で三角座りをして泣いていた。静か過ぎる孤独な時間は徐々に私の心を蝕んでいった。

 やはり、涙のわけはわからない。


 やがて日が昇り、いつものように朝が来る。私は洗面所で、隈の出来ている腫れ上がった目を何とかメイクで隠そうとするのだが、あまり効果はなかったようだ。

 英慈は、こんな顔をした私と話すのが恥ずかしいのか、職場では一切声をかけてこなくなった。

 いつの間にか、私の腫れ上がった目と隈の理由は、英慈に振られたからだという噂が流れていた。

「……どこか遠くに行けたらなぁ。もう疲れたよ。人に気を使い過ぎるのも、自分を隠して、わざと明るく振る舞うのも……けど、全てを捨てる覚悟も勇気も持てない。人の道から外れるのが怖い。皆と一緒じゃなきゃ安心出来ない」

 汚点、欠陥、出来損ない、不良品……私は自分自身に価値を見出せない。本当に情けない話だ。勿論、甘えでしかないのはわかっている。全て、私の心が弱過ぎるのが悪いのだ。その事で、私は更に私を責めてしまっていた。

 なら、どうすればいい? どうすれば、私は普通になれるの? 強くなれるの? 将来に対して前向きになれて、この世界に希望を見出せるというの?

 どこにいたって人はいる。私達は、法律や制度、規則、社会によって生かされている。生まれてから死ぬまで、一度たりとも自由を手にする事なんて出来やしないのだ。

 それなのに、どうして人は生かされているのだろう? 生きていかなければならないのだろう?

 ……死にたくない。死ぬのは怖い。

 けれど、この歪んだ現代社会を生きていくには、私はきっと弱過ぎたのだ。

 要するに私は物事を深く、大きく捉えすぎなのだと思う。もっと楽観的に生きられたらと思うけれど、性格的にそれが出来ない。真面目な性格が災いして、モラルに欠ける行いは悪、皆と同じように生きるのが善と、無意識に自分を縛り付けているのだ。

 そして抑えつけた結果、脳と心が別の方向を向き始めた。

 苦しい、悲しいと、子供のように叫ぶ心。

 逃げる事は許されないと、大人のように諭す脳。

 自分では、もう収集がつかないようになってしまっていた。

 行き場のない感情が生み出した唯一の抵抗が、止まらない涙だったのかもしれない。

 しかし、その涙ですら……私の身体から逃げたがっている。

 いたたまれなくなった私は、傘も持たずに、無我夢中で雨の中に飛び出した。


 言葉に出来ない想いが、いつか私を殺してしまうだろう。


 今は梅雨の真っ只中。私は雨の中、ずぶ濡れになりながら夜道を歩いた。水分を含んだ髪や衣類は、重い身体を更に重くする。けれどそれ以上に、心はもっと重かった。

 行き先なんてなかったけれど、とにかく雨に濡れていたかった。徐々に激しくなる雨と同様に、目から流れ落ちる涙も勢いを増す。

 気が狂ったかのように叫びたくなった。異常者のように喚きたかった。けれど、良い子の理論を振りかざす愚かな私は、隣人の迷惑になると考え、静かに泣いた。

 先程英慈に言った言葉だが、私は決して死にたいとは思っていないし、今まで自傷行為等をした事がない。

 けれど、心のどこかで……『いっそ死んでしまった方が楽になれるのではないか』と、いつも考えていた。

 そうしなければならないと思えるくらいに、私の心は悲鳴を上げていたから。

 だから、そうする事で苦しみから解放されるなら、それでもいいと思っていたんだ。

 ……大丈夫。思っているだけだ。私はきっと死ねない。だって私が死んでしまうと両親が悲しむから。仕事先も、引き継ぎやら後処理等でとても困るだろう。仲の良い友人達も、きっと泣いてくれると思う。

 そして、彼女が自殺なんてしたら、英慈にも迷惑をかける事になってしまう。

 その事に罪悪感を覚え、行動に移せない。私はどこまで良い子ぶるつもりなんだろう。

 いっそ、誰かが私を殺してくれたら……

 そしたら私は、全ての責任から逃れる事が出来るし、楽になれる。間違いを犯して悪人になる前に、善人のまま全てを放棄出来るのだ。

 そんな最高な事はない。


 ……どれくらいの時間が経過しただろう?

 暫くフラフラと歩き続けてしまったが、今頃になって、鍵もかけずに外に飛び出してしまった事を思い出す。

 仕方がないから家に戻る事にした。それに明日も仕事だ。こんなに濡れてしまって、風邪でも引いてしまったらどうしよう。

 自業自得ではあるのだが、急に不安になってきた。涙は今も、止まる事なく滴り落ちている。

 アパートの近くにある、公園の入り口付近。紫陽花が咲いている花壇の前に、誰かが座り込んでいるのが目に入った。

 大きめのグレーのレインコートを着ている、おそらく男性だと思う。暗い上にフードを深く被っているので、顔はよくわからない。

 そういえば、最近この辺りによく不審者が出ると噂で聞いた。時間も時間だし……もしかして、この男がそうなのかもしれない。

 精神的に不安定だった私は、『この男が本当に不審者なら、私を今すぐここで殺してくれないかな』などと、集中し切れない頭の中で、ぼんやりと考え込んでいた。

 私はゆっくりと、その男の前を通り過ぎる。男は俯き、座ったまま、動こうとはしない。

 ……そりゃ、そうだよね。

 見ず知らずの男を犯罪者扱いし、更に『殺してくれたら』などと願った事を、少しばかり反省した。

 しかし、この人……こんな所で一体、何をしているのだろう? そんな事を一瞬だけ思ってみたものの、すぐに頭から消え去った。人の事を心配する余裕など、私にはなかったから。

 私は再び帰路を目指し、歩き始めた。


「お前さ、何でそんなに生き急いでんの?」


 背後から聞こえてきた不躾で無礼な言葉に、私は思わず足を止めた。

「なに、貴方……いきなり失礼じゃない? 生き急いでるって何が?」

 私がそう言うと、男は「よっ!」と立ち上がり、 更に言葉を続けた。

「あ、悪りぃ悪りぃ。『生き急いでる』じゃないな。お前、死に急いでんだわ」

「……はぁ?」

 男の口元がにんまりと笑ってる。酷く感じが悪い。いきなり話しかけてきたと思えば、この失礼な物言い……やはり、この男が噂で聞いた不審者ではないのだろうか?

 私は咄嗟に警戒するが、男は私との距離を保ったまま近付こうとはしない。

 不審者らしき男は、再び口の形を変えた。

「あーあ。そんな死人みたいな顔しやがって。しかも全身ずぶ濡れ。……お前、誰かに心配して欲しかったの? それとも、誰かに同情してもらいたいのか? けど、あいにく今は夜。しかもこの大雨だ。人なんていやしないし、濡れる事をわかっていて、わざわざ外に出る物好きもいない。だから、お前を心配する人間も同情する人間もここにはいない。残念だがな、お前は独りだ」

 何故、見ず知らずの男にここまで言われなければならないのか? 無性に苛つき、言い返してやりたい衝動に駆られたが、雨に打たれすぎたせいか少し気分が悪くなってきた。ここは相手にしているだけ時間の無駄だ。受け流そう。どうせ、もう二度と会う事もないのだし。

「……そうね。ここには誰もいない。でも、貴方がいるじゃない? 貴方は雨に濡れてまで外に出ている物好きではないの? じゃあ、貴方が私を心配してよ? 同情してよ? そしたら私は、独りではなくなるんでしょう?」

 そう言うと男は急に黙り込んだ。私はふぅと、軽く息を吐く。

「どこの誰だか知らないけど、私、貴方に構ってる暇はないの。貴方も早く帰ったら? 風邪引くわよ」

 私はくるりと方向転換すると、アパートまでの第一歩を踏み出そうとした。その時――

「いいよ」

「……え?」

「確かに俺は、『こんな雨の中、わざわざ外に濡れに出てきている物好き』だもんな。よし、わかった! 俺がお前の心配をしてやるよ。俺がお前に同情してやる。そしてその涙のワケを、俺がお前に教えてやるよ」

「な、に、間に受けてるのよ……冗談に決まってるでしょ? 馬鹿じゃないの」

 私は戸惑いを隠せなかった。心臓がドクンと大きな音を鳴らす。

 私の涙の理由……それを、この男ならわかるというの?

 きっといつもなら、馬鹿馬鹿しいと一掃し、聞く耳すら持たない筈。

 けれどこの出会いが、今までの何かを変えてくれるような気がした。しかし、不信感はまだまだ拭えない。

「貴方……一体何なのよ。私の事なんて知りもしないくせに、貴方に私の何がわかるって言うの? それに私、別に泣いてなんかいないし」

「泣いてるし」

「泣いてない」

「泣いてる」

「泣いてない!」

 馬鹿みたいな口論を続けている私達は、まるで自己主張の激しい、融通のきかない子供達のようだ。

 何故私は、こんなところで大声を出しているのだろう? どうして私は、こうも自分の感情を吐き出せているのだろう? 心の中がモヤモヤする。

 この男は一体、何がしたいというのだ? 私は口を噤み、男の姿をじっと見つめた。

 男は私の視線など御構い無しに、真っ直ぐと右手を伸ばす。雨は男の手に反発しながらも、やがてその小さな器に、小さな泉を作り始めていく。

 男は、空を見上げて言った。

「泣きたい時に泣いて何が悪い? ほら、こんなに雨が降ってんのに、利用しない手はないだろ? 泣いてる事を気付かれたくないのなら、これは涙じゃなく雨だと口にすればいいだけの話じゃないか」

 いちいち男の言葉に心が揺さぶられていくのがわかる。けれど、それを素直に受け入れられない。

 だって私は、目の前の男の事など何も知らない。男が私に話しかけてきた意図すらわからない。この男には、怪しさしか感じられない。

 表情を隠すそのレインコートが、ますます私の警戒心や猜疑心を高めた。

「……馬鹿みたい。関係ないでしょう、貴方には。私に関わらないで。もうほっといてよ」

「おー、関係ないな。全く関係ない。けどお前が俺に、心配してくれ、同情してくれって言ったんじゃねぇの。それに俺が応えた。その瞬間に、お前の世界と俺の世界は繋がった。もう知らない間柄でもないってわけだ」

「……は? 意味わかんない。貴方、頭がおかしいんじゃないの? 普通の人は初対面の人間にそんな事は言わない。下手なナンパでも、もう少しまともな会話をするわよ」

「ははっ! 頭がおかしい? そりゃ、あながち間違いでもないかもしれねぇな。けど、そんな事を言いながらお前、本当は俺に興味が湧いたんじゃねぇの?」

「呆れた。随分自信があるみたいね?」

「ああ。お前の近くに俺みたいな男がいれば、お前はそんな風になってはいなかったと思うからな? だから俺は、お前の周りにはいないタイプの人間だという事だ。そして人は、誰しも好奇心や探究心を心の中に秘めている。知らないものに興味が湧いても、おかしくはないだろ?」

 確かに男の言う通りだ。私は初対面の相手に対し、いきなり「お前」呼ばわりするような非常識な男に、今まで会った事がない。傲慢で自信過剰な態度が鼻につく。本当に嫌な男だ。

 けれど、私は気付いてしまった。気付きたくはなかったが、気付かざるを得なかった。


 突然、私の中の雨が――止んだ。


 どうして? 苛立つ気持ちが、不安や悲しみを凌駕したとでもいうの? ……残念ながら、それが不正解だという事は私が一番よくわかっている。

 認めたくはない。認めたくはないけれど……先程から私の心が、精神が、安定しているのは明確だ。

 長く付き合ってきた彼氏といるよりも、気心の知れた友人達といるよりも、心配性で優しい両親といる時よりも、この男と話している方が余程、気が休まるのだ。

 息をするのが苦痛だった。誰もが当たり前のように出来てしまう事が、私には難しかった。

 酸素が足りないと息苦しいし、頻繁に多く取り過ぎると過換気症候群を引き起こし、余計に辛い思いをする事になる。

 私は呼吸をする事に意識し過ぎて、どう息をすればいいのかわからなくなっていたんだ。

 それなのに今は、上手く呼吸が出来ている。可哀想な想いをさせていた私の肺の中に、至って自然に酸素を運ぶ事が出来るのだ。

 見ず知らずの人間で全くの赤の他人だから、二度と会わない人だから、私はありのままの自分でいられるのだろうか?

 気付けば私は男に興味を抱き始めていた。確かに男の言う通り、私の中にも好奇心と探究心は眠っていたみたいだ。もう少しこの男と話がしてみたい。

 そんな事を思った……その時だった。

「あ、れ……?」

 突然、目の前の世界がグラリと揺れた。しっかりと立っていられなくなった私は、地面に膝をつける。雨に打たれすぎた身体は、流石に冷え切ってしまっていて、眩暈や頭痛を引き起こした。

 寒い……あぁ、やはり風邪を引いてしまったみたいだ。

 そもそも今は何時だろう? 早く帰らないと明日の仕事にも差し支える。明日は大事な会議があるのだ。休むわけにはいかない。


 でも……

 でも、まだここに……


「おいおい。ずっと黙ってると思ったら、お前大丈夫かよ? 馬鹿みたいに雨ん中ずっと外をウロついてるからだ」

 男はそうは言いながらも、こちらに来ようとはしない。

 私は、私の心を掻き乱す言葉を口にしながらも、心配や同情をしてやると私に言っておきながらも、距離を取ったまま、決して手を貸そうともせず、素性を隠したままでいる男に不満を感じていた。

 勝手かもしれない。我儘かもしれない。そもそも私は、この癪に触る男に何を求めているのだろう?

 私に対し、全く好意を持っていないとわかる相手に、何かを期待しているとでもいうのか? ……浅ましく卑しい女だ。恥ずかしくて顔から火が出そうになる。

 男との距離はおよそ十数メートル。近いのに遠いと感じるこの距離は……多分、私達と同じようなもの。

 相容れない空間。踏み込ませない壁。結局、この距離が私達の、限界ギリギリのラインなのだと思う。

 知りたい、話したいだなんて……少しでも思ってしまった私が馬鹿みたい。

 からかわれているだけだというのに、真に受けてしまうほど私は子供ではない筈でしょう?

 私はゆっくりと立ち上がり、男に言った。

「別に何もないわよ。ちょっとフラついただけ。……私、もう行くわ。明日も仕事があるし、貴方と話すのもこれが最後。もう二度と会う事もないわ」

「……ふーん」

 つまらなそうに話す男は、突然レインコートの中に手を入れると、「ジャジャーン!」と叫びながら、折り畳み傘を取り出した。

 一体どこに隠し持っていたんだ、そのレインコートは四次元ポケットか? などと、規則正しい痛みが続く頭の中で思わずつっこんでしまったが、馬鹿馬鹿しいのでわざわざ口にはしなかった。

 しかし、男はレインコートを着ているのに、何故傘まで持っていたのだろう? ……用意していた?

 何の為に? 誰の為に?

 ……ま、レインコートを着ながら、傘を差す人間も中にはいるだろう。気にする事もない。

 男は、パンッと気持ちの良い音を鳴らしながら、手にしていた傘を開く。黒と白のチェックの模様は、男に相応しいように思えた。

「帰りたいならさっさと帰れ。けど」

「けど……何よ?」

「お前がまだ帰りたくねぇって思ってるなら」

「え……?」

「俺とまだ、話していたいって思ってるなら」

 男は開いた傘を左手に持ち変えると、そのまま頭上まで運ぶ。右手の人差し指はピンと上を指していた。

「入れてやるよ。今更あろうがなかろうが対して変わんねぇとは思うけどよ。入りたいならお前から来い。自分の足で歩いて来い。俺は一歩もここから動くつもりはないから」

「な、何よ、それ……」

「ん? どうした? お前が決めていいんだぜ? 本能の赴くまま、お前のしたいようにしてみろよ。帰りたいなら帰る、帰りたくないなら帰らない。至ってシンプルで簡単な事だろ?」

 男の言葉に私は下唇をきゅっと噛む。けれど、私の足は迷う事なく行き先を決めたようだ。

 爪先が示す方向には、やはり男の姿があった。

 戸惑いながらも一歩ずつ前に進む度、私の脳内では自問自答を繰り返していた。

 何故男のいう通りにしてしまうのだろう? 酷く腹立たしいのにも関わらず、何故近付こうとするのだろう?

 ――答えは全て、『わからない』。

 それなのに、まるで糸を引かれた操り人形のようにスルスルと引き寄せられる。糸を切る事は勿論出来る。けれど私は、その糸を引っ張ってもらいたかった。

 千切れないように優しく、けれども強引に。

「お……邪魔します……」

 私はゆっくりと男の傘の中に入った。視線を少し上に向けると、男の唇がすぐ目の前にあった。何故だか胸が執拗に音を鳴らしていた。

 不安ではあるけど、心地の良い音を鳴らす心臓。謎の高揚感に、少しの恐怖。私はいつだって矛盾だらけだ。

 ――男の顔が見たい。そう思った私は、ほんの少しだけ背を伸ばし、男が被っていたレインコートのフードに手をかけた。

 その時、鈍い音と共に腹部に痛みが走る。まるで、全てがスローモーションのように見えた。

 男の拳を受け、前のめりになった状態の私は、膝からガクッと崩れ落ちる。

 ……やはり、この男は危険な男だった。信じてはいけなかったのだ。

 今頃そんな事を考えても遅い。男との言葉の駆け引きに、私は負けてしまったのだ。自ら距離を詰めた結果がこれだ。自業自得というもの。自己責任を負えない年齢でもない。

 ……潔く敗者は眠ろうか。どうせ私は頭がおかしいし、このまま生きていくのも辛いだけだ。この男が不審者どころか恐ろしい犯罪者だったとしても、もはやどうでもいい。

 薄れゆく意識の一歩手前。私は初めて、男と目があったような気がした。

 信憑性のないあやふやな記憶の中の男は……私と同じように、泣いていたような気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る