誘拐犯 前編

夢空詩

第1話


「私はきっと、きっかけを探していた。それには協力者が必要だった。けれど、それは見ず知らずの人間でなければならなかった。私は私の人生を捨てて、誰も知らない自分になりたい……ずっとそう思っていたの」


 私がそう言うと、誘拐犯は悲しそうに笑いながら、私の頭にそっと手を置いた。


 何故だか、涙が溢れた。




 これは私の独白だ。惨めで情けない自分の全てを、このノートに綴ろう。

 いつか誰かの目に止まるかもしれないし、その時の為に、私は真実だけを話そうと思うのです。

 私の名前は……まぁ、それは後にしようかな。名前がどうであれ、ここではあまり意味を持たないと思うから。

 とにかく本当の私を知ってもらう事が大事なので、偽りのない自分を勇気を出して書いてみます。殴り書きになってしまう事もあるでしょうが、許して欲しい。

 私はいつだって、許される理由、仕方のない事態、逃げられない選択を求めていたのかもしれない。

 他人任せな事はわかっているけれど、私にはこの日常を壊してしまう事は怖くて出来なかった。

 誰よりもそれを望んでいたというのに……おかしな話だ。

 あの頃の私には長く付き合ってる彼氏だっていたし、仕事もちゃんとしていた。

 大事な友達だっていたし、優しい両親だって、勿論今も健在だ。

 けれど、私はいつだって無理をしていた。そして、何一つ信用出来ずにいた。信用を口にしていたって、いつだって疑心暗鬼がまとわりついていたの。だってその言葉、絶対ではないでしょう?

 人の考えは移ろいやすく、きっかけ一つで簡単に壊れてしまうものだ。

 だから私は……私に愛を囁いてくれる彼氏から逃げたかった。

 ストレスばかりが蓄積される意地の悪い職場から逃げたかった。

 楽しさを求めて遊びに誘ってくれる友人達から逃げたかった。

 そして、誰よりも自分の事を心配してくれる両親から逃げたかった。

 けれど何故それをしないか。それは、その逃げるという行為が非道徳的な事だと認識していたから。理解していたからだ。

 私はいつでも正しい人間でありたかった。良い子でいたかったのだ。だから、間違いだとわかっている行為に走る事は決してなかった。

 だけど次第に……彼氏の前で見せる顔、職場で見せる顔、友人の前で見せる顔、親の前で見せる顔。それが誰なのかがわからなくなってきたのだ。

 実際の私はいつだって無気力で、悪人ではないだろうけど善人でもない。けれど、偽善者であるとは思う。

 作り物の私はいつだって、その場にあった仮面をつけ、笑う。

 笑って。笑って。嗤い続けるのだ。


 私は間違いなく疲れていた。

 消えてしまいたいと思っていたのは日常茶飯事だけれど、今は『消えたい』ではなく、『私は死ななければいけないんだ』と思うようになってきていた。

 皆と同じように普通に生きられない。当たり前の事が私には出来ない。今にも心と身体が分離しそうな気持ち。見事な程に滑稽な私の心理など、誰も知る事はない。

 私はこの世界での失敗作。決して良作にはなり得ない。それならせめて、私の人生を、全てを無くしてしまいたい。

 そんな時、私は彼に出逢ったのだ。

 私に全てを捨てさせ、新たな命を吹き込んだ哀れで優しい犯罪者。

 ……いいえ、救世主に。


 彼の名前は知らない。だから私は、彼の事をテントウと呼ぶ事にした。

 彼の携帯につけられていたストラップが、悪趣味な色をしたてんとう虫だったから。

 そして彼の髪が、お天道様のように明るくて綺麗だったから。

 彼はきっと、私の名を知っている。

 けれど、彼は私の名を呼ばずに、新しい名前を与えてくれた。

「ハナ、今日からそう呼ぶ事にする。俺がてんとう虫ならお前は花だ。疲れた時は遠慮なく寄りかからせて貰うよ。だからお前も綺麗に咲き続けろよ?」

 テントウは「なぁんてな」と言って笑うと、ベッドに横になり、すぐに眠ってしまった。

 ……不思議。私はこの男に誘拐された筈なのに、自由に動き回れる。

 窓の外に目を向けると、一面の草原が広がっていた。青い空が綿菓子のように膨らんだ白い雲を運ぶ。風に揺れた草花は、まるで踊っているかのように見えた。

 私の名前はハナ。ここは、元いた場所からかなり遠い。私を知る人は誰一人としていない。

 ここにいるのは、私とテントウだけだ。


 悪い子になった気分だった。ううん、私はずっと偽りの良い子を捨てて、悪い子になりたかったのだ。

 私はテントウに我儘を言った。テントウはぶつぶつと文句を言いながらも、「仕方がないな」と困ったように笑った。

 私はテントウに、まるで幼子のように甘えた。テントウはいつだって優しく私を包み込んでくれた。

 テントウの事は信じられた。だってこれって犯罪でしょう? 彼は犯罪者になってまで、私をここに連れ去ってくれた。

 だから私は、彼がそれ程までに私の事を愛してくれているのだと信じる事が出来たのだ。歪んでいたって構わない。私には彼の愛情が、とても心地良かったから。

 そうやって私は彼の世界の住人となり、彼は私の世界の唯一の住人となっていった。


 彼と身体の関係を持ったのは三日後。私の方から誘ったと言っても過言ではない。

 触れられたかったから。

 温もりを感じたかったから。

 目の前の男の反応を見てみたかったから。

 結果、私は異常なまでに興奮した。キスが、交じり合う感覚が、こんなに気持ちの良いものだとは思いもしなかった。

 私は、まるでいけない事をしてるような気持ちになりながらも、何度も何度も達してしまった。

 彼氏がいるのに、淫乱で下品な女だと思われるかもしれない。彼氏が可哀想だと思われるかもしれない。

 けれど、良い子を捨てた私にはどうでもいい話だった。

 それに私は、元々彼氏を愛してはいなかったのだと思う。だって本当に愛していたなら、私は何としてでも私の日常に戻っただろうから。

 私はテントウの事を好きになり始めていた。けれど、愛しているかどうかはわからなかった。


 ここに連れてこられた時、確かに不安な気持ちはあった。皆が私を捜しているかもしれない。仕事先ではもうクビになっている事だろう。私はこの一瞬で全てを失った。全てを無くしてしまったのだ。

 けれどそれ以上に、ようやく全てから解放されたという安心感に包まれていた事など……テントウは当時、気付いてもいなかっただろう。

 普通なら、理由もわからないまま、突然腹部を殴られ、目が覚めたら知らない場所にいた……だなんて、怖くて発狂してもおかしくはない。

 しかし、私は至って冷静だった。私はいつだって心の中で望んでいたからだ。

 今までの生活の全てを捨てざるを得ない事態が起こる事を。

 そして、そのきっかけを……


 ――季節は夏。手にかけられたひんやりとした手錠は、火照った身体を冷ますのに適していた。


 テントウは優しくて、よく笑う人だった。

 読書をしている時にだけかける、おしゃれな黒縁眼鏡がとても良く似合っていた。

 読んでる本はSFだったり、ミステリーだったり。私はその隣で、感情移入をしきれない、ありきたりな恋愛小説を読んでいた。

 天気の良い日は草原でバドミントンをしたり、二人で作ったサンドウィッチを、風が吹き抜ける緑豊かな丘の上で一緒に食べた。

 テントウが作るナナホシサンドは天下一品で、私の大好物になってしまった。

 雨の日は二人で寄り添い合って眠った。静かに空から落ちてくる小さな粒は、儚げで繊細で……まるで、テントウの代わりに泣いているかのように思えた。


 気付けば一年が経とうとしていた。ここにはテレビは置いていなかったから、私がいなくなった事が事件になっていたかどうかはわからない。テントウが持っていた携帯は、とうの昔に彼が壊してしまったし、もしそれが壊される事なく手元にあったとしても、わざわざ確かめようとは思わなかった。

 周りから見たら、単に同居してる二人組にしか見えないだろうから、こういうのをストックホルム症候群と言ってよいものかはわからないけれど……私にはテントウの存在が、とても大切な宝物のように思えた。


 ――私は彼の事を、本当に愛していた。


 それなのに、私達の間に事件が起きてしまった。

 初めて……ほんの少しだけ、恐怖を感じた。

 けれどすぐに忘れた。受け入れられた。

 しかし、彼がそれを許さなかった。

 彼は私を拒絶し、突然私の目の前からいなくなってしまった。

 テントウはこの一年の間……どれ程悩み、苦しんできたのだろう? 私は彼の気持ちに寄り添ってあげる事が出来なかった。

 何も知らなかった。知ろうともしなかった。


 ――彼は何故、私を誘拐したのだろう?


 優しいてんとう虫は、一体どこに飛んでいってしまったのだろうか? 彼がいなくなってから、食事も喉を通らない。窓から見える美しい景色は、まるで古びた写真のように色褪せていく。彼がはめてくれたリングは油断すると簡単にカツンと地面を弾いた。仕方がないので親指につける事にする。涙はもう出ない。


 有り余る程の時間を私は一人、ぼんやりと過ごしていた。かつては求めていた筈の自由な時間も、あり過ぎてしまえばただただ窮屈なだけだ。

 やりたい事も、やる事も、やれる事もない私は、ただひたすらに空を仰ぐ。

「脳が青をインプットし過ぎて、このまま空と同化出来たらいいのに」

 馬鹿みたいだけれど、そんな事を思っていた。

 だって彼は同じ空の下にいるのだから、私が空になりさえすれば彼がどこにいようと一発で見つけてしまえるでしょう?

 ねぇ、てんとう虫が止まる筈の花は……このままだと枯れてしまうよ。

 枯れちゃうんだよ。


 貴方の罪を、貴方や世間が許さなくても私だけは許しているのに……それどころか、私は貴方にとても感謝している。

 貴方に出逢えていなかったら、私は既に死んでしまっていたかもしれない。

 貴方が私にハナという名前をくれたから、私はこうして再び生きていく事が出来た。

 生き辛い今の時代に。理不尽な世の中に。

 弱過ぎた私の心に。

 救いがあったなら、それは貴方でしかない。


 ありがとう。

 ありがとう。

 私を連れ出してくれて、ありがとう。


 貴方が隣にいてくれるなら、私はもう二度と逃げたりしない。消えたいだなんて思ったりしない。

 だから、お願い。私を孤独にしないで。

 もう一度だけ……私の前に現れて。


 ……あのね、テントウ。実は私、貴方に隠していた事があるんだ。

 隠していたと言うよりは、知っていたけど知らないふりをしていた、と言った方が正しいかな?


 一つ目は、貴方の本当の名前。

 二つ目は、貴方の正体。

 そして三つ目は……今、貴方がいる居場所。


 貴方は私の身体を誘拐したけれど、私はきっと、貴方の心を誘拐してしまった。

 それなのに、それでも幸せだと感じてしまった私は、自分勝手で醜くて、どうしようもなく惨めな大馬鹿者だ。

 私の世界から、たとえ貴方がいなくなってしまったとしても……貴方の世界から、私は何があってもいなくなりはしない。

 ずっと、ずっと、一緒にいるから。必ず一人にしないから。

 だから……またナナホシサンドを食べさせてね。



***


「……約束だよ」

 私はノートを閉じると、キュッと口角を上げて笑った。鏡に映った私の顔は酷いもので、思わず目を背けたくなるくらいだ。

 私は引き出しの一番上にノートをしまうと、外に繋がる扉に手をかけた。

 ――風が、悪戯に私の髪を揺らした。青臭いけれど、懐かしくも心地良い草の匂いが鼻腔をくすぐる。

 眩し過ぎる陽射しに思わず目が眩んだけれど、私は大きめの帽子を深く被り、ゆっくりと前に進んだ。

 行き先は決まっている。行く末も決まっている。

 今まで待たせて、本当にごめんね。


 てんとう虫と花。貴方と私。

 誘拐犯と被害者。貴方と私。

 白い雲と青い空。貴方と私。

 弱虫と泣き虫。貴方と私。

 ――運命と奇跡。貴方と私。


「ねぇ、テントウ。私ね独占欲が強いから、貴方を手放したくはないし、どうやら既に依存してしまってるみたいだから、貴方がいないとうまく息を吸う事も、吐く事も出来ないんだよ。ずっと、息苦しいんだよ」

 私の口から勝手に飛び出した独り言に、思わず笑いが込み上げてくる。これ以上言葉が一人歩きする前に、貴方の唇で私を黙らせて欲しかった。蕩けるような熱情に身を委ねていたかった。

 貴方とするキスが、貴方とする行為が、とても好きだったから。


 私は野花を摘み取る。出来るだけ沢山。てんとう虫には花を、でしょ? 色んな色の花を集めてみたけれど、綺麗どころか不揃いで、滑稽で……まるで今の私のようだ。

 私はふと、本当の名を思い出していた。


 季節と色、貴方と私。


 摘み取った花を一つにまとめ、私は目的地に向かう。……大丈夫、そう遠くはない。

 薬指から親指につけ直したリングは、今ではネックレスの装飾品として首元で光っていた。この痩せ細った醜い親指では、リングの輝きを曇らせてしまうだけだから。

「……ごめんね。ごめんね、テントウ」

 私が傍にいたところで、私は貴方を救う事が出来なかった。それはある意味、安定した日常を過ごせていながらもその全てを捨てて、逃げ出してしまいたかった私と同じだね。

 だから、貴方は何も悪くない。

 現実と真実から目を逸らしてしまい、貴方をずっと一人にしてしまった私を許して。


「今から逢いに行くから、待っててね」


 私達の物語は、他の誰も関与しない。関与出来ない。私達二人だけの物語だ。他は必要ないし、どうだっていい。だだ、私達の邪魔だけはしないで欲しい。

 毒に侵されたてんとう虫は、毒を含んだ花を愛し続けた。

 優しく、尊く、まるで宝物のように扱ってくれた。

 ありがとう。私だって愛してる。

 ずっと、ずっと……愛してる。


 これは、人生に生き辛さや限界を感じている二人の若者の、決して許されない……憐れで哀しく、純粋で美しい夢物語だ。

 たとえそれが倫理に反していたとしても、最大の罪だとしても……

 私は――

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