第5話


 本当に、時が経つのはとても早いものです。あの頃の事が、まるでつい最近の出来事のよう。

 そびえ立つ樹木の中で、一際目を引く大きくて美しい神樹。

 あの時の彼のように、そっと触れてみたけれど、何も起こりはしない。

 ――行くのは無理。そう、私だけの力では。

 そんな事はとうにわかっている。だから私は目を瞑り、【待ち人】がここに現れるのをじっと待ち続けた。

 そっと目を閉じてみると、視覚が遮断された事によって聴覚が敏感になっているのがよくわかる。

 ぽつぽつと降る雨は傘に弾かれ、リズミカルな演奏を優雅に奏でていた。

 そして、微かに聞こえる儚い鈴の音。

「やはりきたのですね」

「ええ、きたわ」

 あの頃と変わらぬ姿で、神童は大木の後ろからひょっこりと顔を覗かせた。

「本当に人間の心理というものはとても難しい。我々には理解しがたいものです。知らずに暮らしていけば幸せな暮らしが出来るやもしれぬというのに、何故自ら闇に身を投じるのか? 非常に奇怪です」

「貴方の言いたい事はわかってるよ、ちゃんと」

「……ほう。それでもやはり行くのですか?」

「ええ、行くわ。お願い。もう一度私をあの世界に、【黄昏の街】に連れていって」

 先程まで降り続けていた雨は、いつの間にか止んでおり、ざわめき始めた風が木々たちを激しく揺らしていた。

「黄昏の……街、ですか。何ともまぁ、趣のある良い名を付けて下さる」

「彼がそう呼んでいたの」

「ほう。【彼】が……ね」

 そう言うと、少年はクスクス笑った。

「いいでしょう。約束、でしたからね。彼から受け取った【石】はお持ちで?」

 私は、鞄の中から琥珀色をした美しい石を取り出すと、そっとそれを神童に差し出した。

 神童は私から石を受け取ると、その石に向かって鈴を一度だけ鳴らした。


 チリン……


 琥珀の石から眩い光が放たれる。あの頃と同じ、黄金の輝きが辺りを包み込んだ。

 私は片目を瞑りながら、神童の方をチラリと見る。石は神童の手から離れ、宙に浮くと、木っ端微塵に砕け散った。

 その砕け散った先に、この世界と黄昏の街を繋げる架け橋が生まれていく。

「扉は開かれましたよ。ただし、一度だけ。行きと帰りを合わせて、たったの一度だけです。この入り口は閉じずに置いておきましょう。元の世界に戻るか、この【黄昏の街】に留まるのか……それは貴女の自由です」

「ありがとう」

 私は神童に感謝の言葉を述べると、光り輝く円の中心に飛び込んだ。


 ――ひぐらしの鳴く声が聞こえる。

 私は夢見心地に、あの頃と変わらない黄金の空を眺めていた。

 ……あぁ、やっぱり綺麗だなぁ。

 カラス達は山に帰る。童謡のように、我が子を山に残してきているのだろうか?

 私は無意識に口ずさんでいた。


 ……カ~ラス~

 なぜ鳴くの~

 カラスは山に~

 か~わいい~

 な~な~つ~の

 子があるからよ〜……


 そっと目を閉じると、聞こえてくる貴方の声。

『……アイコ、起きて、アイコ』

 あの時のように、私を起こしてくれる優しい声はもうない。

 けど……

「ちゃんと戻ってこれたんだ。……良かった」

 目の前には、昔と変わらないのどかな橙色の街。影達が、穏やかに慎ましく暮らしている。

 この世界では全ての罪が許される代わりに、その肉体は朽ち果て、神樹の命の一部となるのだ。

 その事実を知ってしまった時、私はとても悲しい気持ちになったのを覚えている。

「……あれ? あの人、もしかして」

 腰を低く屈めて話している男性の影。時折、ネクタイらしき物がヒラヒラと揺れていた。

 会話がここまで聞こえてくる。男性は、とても楽しそうに笑っていた。

 苦しんで叫んでいたり、泣いていた影達も……今じゃ皆、この場所で幸せに暮らしているようだ。

「……良かった。もう悲しくないね」

 私は影達にそっと一礼すると、この街のどこかにいる彼を捜す事にした。

「彼は一体、どこにいるんだろう?」

 私はとりあえず、あの日彼と歩いた道を同じように進んでみる事にした。

 あの日の事を、そっと思い出しながら――


***


 穏やかで風が気持ちいい野原。彼と私は、フワフワとした草のベッドの上に寝転がって、空を見上げていました。

 なぞなぞやしりとりをしたり、追いかけっこをしたりと、私達はまるで幼い子供のようでしたね。

 そうこうしていると、彼の柔らかそうな前髪に、黒いシルエットのてんとう虫が止まりました。

「こんにちは。どこから来たんだい?」

 てんとう虫に小さく語りかける彼。そっと触れようと手を伸ばすと、てんとう虫は小さな羽を懸命に広げ、どこかに飛んでいってしまいました。

 彼はゆっくりと身体を起こすと、空に飛んでいったてんとう虫を優しく見つめながら……

「さようなら」

 そう言って、軽く手をあげました。

 あのてんとう虫は、今でも夕焼けの空を元気に羽ばたいているのでしょうか?


 田んぼや畑が並ぶ畦道を歩いていると、バス停が見えてきました。私達は赤色のベンチに座って時刻表を確認してみたけれど、ここでは時間という概念がないから、バスがやって来る時間がわかりません。結局、私達はバスには乗れませんでした。

 けれど私は、もう少し彼と色んな場所を二人で歩いてみたかったので、バスに乗れずとも特に不満などはありませんでした。


 川と道との細くて狭い境界線。

 彼が危ないと言っているのに、私はつい調子に乗って、堤防の上をヤジロベエのようにバランスを取りながら歩いていました。

 案の定『落ちる!』という時に、ぐいっと強く引かれた私の腕。

 彼は額に手を置き、大層呆れながらも、落ちそうになる私の事を何度も何度も助けてくれました。

 あまりに強く腕を引くものだから、少しだけ痛くて……私の事を本当に心配してくれている事。そして、彼の優しさが伝わってきました。

 

 空き地みたいな狭い場所に、滑り台とブランコとシーソーと揺りかご、一通りの遊具が揃ってある公園。

 突然、シーソーに乗ろうと言う彼。女性相手に無神経だと私が言うと、彼は『何で?』と不思議そうに首を傾げました。本当に彼は鈍感過ぎます。デリカシーに欠けるというか、何というか……

 あと、どちらの方がブランコを高くこげるかを競ったりもしました。

 必死にブランコをこぐ彼の横顔が、何だかとても可愛くて、こっそり横目で見ていたのは内緒です。


 ――そして、彼と乗った汽車の中。

 最初、汽車の中はもの凄い影達の数で、まったく身動きがとれませんでした。けれど彼は、私一人分のスペースを確保し、影達から押されないように守ってくれました。

 頭を上げれば彼の顔。耳の横には彼の腕。そして、彼の服に染み付いた甘い煙草の香り。その全てが、私の胸を大きく揺らしました。

 それなのに、次の駅で影達が一斉に下車して、汽車の中はすっからかん。

 彼はひょうひょうと私の前から離れると、何事もなかったかのように席に座り、私を呼びました。

 一人舞い上がっていた自分が恥ずかしいです。本当に。


***


 道を歩いていく度に鮮明に思い浮かぶ、彼との沢山の思い出たち。私は思わず笑顔になる。

『懐かしいなぁ』と口にしながら、私はそっと汽車を降りた。


 ――海だ。


 凄く綺麗で、少し恐ろしくて、何だか切なかったのを覚えている。

 彼はあの時、この海を見ながら……一体何を思っていたのだろう?

 砂浜にいた恋人達は、今でも二人、仲良く幸せに暮らしているのかな?

 もしかして、あのまま二人は結婚して……今頃、笑顔いっぱいの幸せな家庭を築いているのかもしれない。

 そうだといいな。……うん、その方が絶対にいい。

 この世界の人達には、ずっと笑顔でいて欲しいから。

 波が静かに、波打ち際を行ったり来たりしている。私は靴を脱ぎ、ゆっくりと脚だけ浸かってみた。

 温かいような、冷たいような、ちょうどいいような……よくわからない温度。

 少し水を蹴り上げてみると、キラキラと光る水飛沫が宙を舞い、また海へと戻っていく。

 まるで人魚の涙のようだ。

 私は鞄からミニタオルを出し、濡れた脚から丁寧に水分を拭き取ると、砂浜に腰を下ろして空を見上げた。

 思い出すのは……すれ違う影達の背中を、寂しそうに眺めていた彼の姿。

 今なら、その理由がとてもよくわかる。彼が、何故そんな表情で影達を見つめていたのかも。

 辛かったよね? 悲しかったよね?

「ごめんね……」

 あの頃の私は、無力な上に無知過ぎた。彼の気持ちを正しく理解する事が出来なかった。私は彼の事を、ちゃんと見ていなかったのかもしれない。

 けど、今は違う。きっと私が、彼を救ってみせる。

 たとえそれが、どんな形であっても――


 やっぱり……海にもいないか。彼は一体、どこにいるのだろう?

 黄昏の街はとにかく広い。行った事のない場所なんて、まだまだ沢山あるだろう。こういう時、疲れない身体とは便利なものだ。

 けれど、精神面でかなりのダメージを負う事は否めないだろう。

 ――早く先に進まなきゃ。


 私が次に向かったのは……悲しい影達がいた、あの場所だった。

 その先にある、ガンさんの家。

 あそこにいるとは思えないけれど、一応行ってみようか?

 私は、少しだけ歩くのを早めた。


「いない、か……」

 あの頃のように嘆き苦しむ影達の姿はなく、辺りはしんと静まり返っている。

 私はその場から離れ、ガンさんの家を訪ねてみたが……やはり、そこには誰もいなかった。

 ガンさんは、どこかに出かけているのだろうか?

 この世界にいるのか、元の世界にいるのかはわからないけれど……変貌したガンさんの姿を思い出すと、出口を教えてくれた事には感謝しているのだが、正直あまり会いたくないなぁ、などと思っていたので、思わずホッと胸をなで下ろした。

 ガンさんの家を出た私は、長い長い坂の上を一人で歩いた。

 ガンさんの家の窓から、この先にある坂の上に展望台が見えたからだ。

(あんなところに展望台なんてあったんだ。行ってみようかな……?)

 もしかしたら、そこに彼がいるかもしれない。

 それに、たとえいなくとも、高い場所から地上を見降ろしてみれば、何か新しい発見があるかもしれない。

 そう思った私は、ゆっくりと急な坂道を登り続け、ただひたすらに展望台を目指した。


 やっとの思いで辿り着いた私は、入り口の前で展望台を見上げる。白くて丸みがかった小さな建物、螺旋階段が上まで続いていた。

 私は手すりに手をかけ、カンカンと甲高い音を鳴らしながら、階段を一段ずつ登っていく。視界に入り込んでくる美しい黄昏の空を眺めながら、私は頂上を目指した。

 性悪な夕陽が月を拒み、ここでは夜が訪れない。夜がこないわけだから、勿論朝だってやってこない。

 夜の空を支配する月や星だってとても素敵だし、輝く太陽に、白い雲……スカイブルーの空だって、とても美しい。

 それなのに、どうしてこの世界は夕暮れ時を……【黄昏】だけを愛するのか?

 セピアに色付いたこの世界は、まるで古い写真のよう。

 そんな事を考えていたら、ついに足が最後の一段を登りきった。


「うわぁ……! すごい」

 風が少しきつい。意地悪な風が、私の髪を悪戯に弄んだ。

 ――海が見える。岬が見える。

 黄昏の街の全てを見渡せる。

「見つかればいいのだけれど……」

 私は展望台に設置されていた望遠鏡を使い、この【黄昏の街】を隈なく調べた。


「……あれ? 確か、あの場所って」

 私は一箇所だけ、とても気になる場所を見つける。

 それは、彼がかつて教えてくれた、墓地への入り口の近くにある森の先だ。

 墓地には軽はずみに足を踏み入れたくないと、以前彼がそう言っていたので、うっかり見逃してしまっていた。

「……あそこだ。絶対にあそこだ」

 私は急いで螺旋階段を駆け下りると、再び駅の場所まで走った。無我夢中で走った。

 疲れない事が幸いだった。……走れる。どこまででも。

 私の脚よ、風になれ。

 そして、一分でも一秒でも早く……私をあの場所まで運んで。

 そう心の中で願った瞬間、身体がとても軽くなったような気がした。


 沢山の影達と共に汽車を降りると、影達は立派な門をくぐって真っ直ぐに進んでいく。私はその門をくぐらず、望遠鏡で見た左手側の位置に立ち、木々をそっと掻き分けた。

 人一人入るのが精一杯の細道を見つけ、ゆっくりと進入する。枝や葉が当たり、腕などに細かい傷が出来たが、それでも前だけを見て進み続けた。

 暗くて狭い道だ。不気味で恐ろしくて、もう二度とここから出る事が出来ないのではないかと恐怖に包まれる。

 頭上も左右も樹で覆い尽くされていて、まるで樹に飲み込まれた私が、胃まで続く食道の一本道を歩いているかのようだった。

 いや……逆かな。

 樹の胃の中にいる私が、光を目指して出口まで歩く。愛しい彼に、ただ会う為だけに。

 怖くない。負けない。

 だって、この先にはきっと……彼がいる。

 だから、立ち止まらない。引き返さない。決して振り返らない。

 光が漏れ始める。――そろそろゴールか?

 私は今、ようやく樹の口内から這い出ようとしていた。


 ――空だ。

 溜め息が出るくらいに美しい空が目に入る。

 私は安心したのか、その場でへたり込んでしまった。

 ……怖かった。怖かったよ。闇に飲み込まれてしまいそうだった。

 私は震える手をギュッと握りしめながら、目の前の風景を見つめた。

 昔、私達がよく会って話していた河原にとても似ているこの場所。きっとここに、彼が……

 そう思った私はゆっくり立ち上がると、必死に彼の姿を捜した。


 時が……時が、止まったような気がした。


 ――いた。やはり、彼はそこに居た。

 夕陽をじっと見つめている彼は、私の存在にはまだ気付いていないようだ。私は彼に向かって、一歩ずつ近付いていく。

 彼はその足音に気付いたのか、そっと後ろに振り返った。

「久しぶり」

「……あ」

「会いに来たよ」

「アイコ……」

「元気にしてた?」

 私は溢れ出しそうな涙を懸命に堪えて、彼に話しかけた。けれど、彼はただ静観したまま……その場にずっと立ち尽くしているだけ。

「感動の再会なんだから、もうちょっと喜んでくれてもいいじゃない!」

 私はとびっきりの笑顔でそう伝えた。

「何デ……」

「ん?」

「何デ、俺だっテわかッタの……?」

「……わかるよ、バッカだな~!」

 私はそう言って、貴方の肩に軽くパンチをした。

「コこニハ、沢山の影達ガいルのに……ドうしテ」

「……あのね? 私の目には、昔と何も変わらない貴方の姿が映ってるの。あの頃のまま。何一つ変わらないよ」

「……アイコ」

 ――彼が影になっている。それは、なんとなくだが予感していた。あの時、彼が言った【償う】という言葉から……

 けれど私は、たとえ彼がどんな姿になっていようと見つけられる自信があったんだ。

 姿や表情がわからなくても、彼は彼。

 私が彼を、間違える筈がない。

「ずっと、ずっと会いたかったよ」

「アイコ……」

 今の彼の表情は私にはわからないけど……きっと難しい顔をしているんだろうな、と思った。

「あのね、どうしても貴方に伝えたい事と聞きたい事があったの。だから来たんだよ、貴方に会いに」

「俺二、伝エタい事ト……聞キたイ事?」

「うん。そうだよ、カズトくん。……いいえ。――森野一樹くん」

 私がその名を呼ぶと、彼が動揺したのがすぐにわかった。

 そう、彼の本当の名前は森野一樹。

 森野一人ではない。

 オレンジと黄色が混じり合ったこの空が、大きく揺れたような気がした。


「……カズキくん。もう自分を偽らなくていいんだよ。私はもう、全てを知っているから。貴方の罪も、本当のカズトくんの事も。……弟さん、だったんだよね? 私と同い年の」

「何デ、知っテ……?」

「これだよ」

 私は鞄から一冊の手帳を取り出した。

「あの日、貴方はこの世界に来る前……この手帳をあの大樹の近くに落とした。そして、一人で元の世界に戻ってきた私が、偶然それを見つけて拾ったの。……ごめんなさい。中身を見てしまった」

 私は深く頭を下げながら、彼に手帳を差し出した。

「……そッカ。見つカらナイと思ッテいたラ、ソんナトコろに落としテいたんダネ」

 彼は私に近付き、昔のように優しく頭を撫でた。

「拾ッテくれテありガトう。トテも……とてモ大切なモノだっタンだ」

 頭から伝わる温かい温度。大きな手のひら。

 胸が苦しいくらいに締めつけられた。

 ――痛い。……イタイ。

 けれど、彼の方がもっと痛い。

 ねぇ、貴方はどれ程苦しんだの? そして、どれ程悲しんだの?

 自分を追いつめて、一人で背負いこんで……誰にも言えず、ずっとずっと一人で。

 ――あぁ、これが【孤独】か。

 我慢していた筈の涙は止めどなく溢れ出し、地面を濡らした。

「アイコ、泣かナイデ」

 優しいその声を聞いた瞬間、マリオネットの糸がぷつんと切れたかのように私はその場に崩れ落ち、声を上げて泣いた。

「どうして……? ねぇ、どうしてよ? 何故、こんな事になってしまったの? 何で!」

 溜まった想いが悲鳴をあげる。彼は、そんな私の肩に両手を置くと、ゆっくり口を開いた。

「全部知ッていルトいう事ハ、うち二行ッたんダね? アイコ……カズトは、カズトハ……」

「うん……亡くなっていたよ。今から十年前、貴方が河原に現れなくなった日に……」

「……そッカ。やッパりソウだヨね。ハハ、奇跡ナンて起キる筈がナイんだ」

 彼の悲痛な笑いが、私の心を更に締めつけた。

 彼が、どうしても元の世界に戻って確認しなければならなかった事とは、きっとカズトくんの生存だったのだろう。けれど、確かめに行く勇気もなく……あの日河原で一人、ずっと悩み続けていたのだと思う。

「貴方の……カズキくんのせいじゃないよ」

「……やメテくれヨ」

「どうしようもなかったんだよ! だから、カズキくんのせいじゃ――」

「ヤメろッテ言ッテんダろ」

 低く冷たい声色は、容赦なく私を攻撃する。私は彼に強く突き飛ばされて、大きくバランスを崩した。

「俺ノせいナんだヨ! 俺がカズトを、カズトヲ殺したンだ!」

 私に対し、彼は声を荒げ怒鳴った。 こんな彼の一面は初めて見る。

 森野一人じゃない。【森野一樹】の心の声を、私は今日……初めて聞いたんだ。

「あイツじゃナクて俺ガ死ねバ良カッたんダ! コノ世二必要無イノは俺の方ダッたノに……! うわァあああアアあアアあぁ! カズト、カズト……ごめン、ゴめん! ごめンよ……」

 彼は頭を押さえ、唸り声を上げながらしゃがみ込む。それは、とてもじゃないけど見ていられるものじゃなかった。

 彼がずっと演じていた森野一人は、強くて優しくて、前向きで、真っ直ぐで……少し自信過剰ではあるものの、憎めない。きっと、誰からも愛されるであろう、そんな人間だ。

 けれど、演じる事をやめた森野一樹は、弱くて後ろ向きで、傷付きやすくて、不器用で……多分自分に自信がなさ過ぎるせいか、必要以上に自分自身を卑下してしまう。きっと誰よりも、理解と深い愛情を求めているであろう……そんな人間。

 どうして、本当の彼に気付いてあげられなかったんだろう。こんなに傷付いて、子供のように震えているのに……


 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい……


 けれど――

 けれど、聞かなくてはいけない。知らなければならない。

 私はその為に、ここまで来たんだから。

 泣いている場合じゃない。

 泣いても、何も変わらない。

 私は袖で涙を拭った。

「……あの日、何が起きたのかは知ってる。けど、貴方とカズトくんの間で何があったのかは、私にはどうしても知る事が出来ない。だから話して欲しい。聞かせて欲しいの、真実を。貴方にとって、とても残酷な事を言っているのはわかってる。でも……逃げちゃ駄目なんだよ。お願い、全部話して。そうしないと、貴方は永遠に救われない」

 彼を少しでも呪縛から解放してあげたい。

 ここに存在する、優しくて穏やかな影達のように……彼が笑ってこの地で暮らせるように。

「……君に話シタとこロデ何モ変ワリはしなイ。カズトは生き返ラないシ、俺ガ人に戻れルワケでモない。君ノ言ってイル事は単ナル自己満足ダ。……ソレとも何カ? 女神ニデモなっタつもりカ? 可哀想ナ俺二情けデモかけテ、イい気分になりタイだケダろう?」

 ……本当の森野一樹は、随分と卑屈で口が立つようだ。今までのイメージがことごとく崩され、粉砕される。

 そう、例えるなら……

 優しい子羊が突然凶暴な狼になった。

 身を守る盾がいきなり諸刃の剣になった。

 甘い飴が急に薄荷味に変わった。

 キャラメルラテが有無を言わさず、ブラックコーヒーに変わった。

 ……そんな感じだ。

 けれど、それが嬉しい。やっと本当の彼に、少しだけでも近付けたのだから。

 それに今となっては、ただ虚勢を張っているだけにしか見えない。

 今の彼はさながら、捨てられて震えている仔犬のようだ。

「……そうだよ、何も変わりはしないね。カズトくんは生き返らないし、貴方も一生影のまま。私の言ってる事は確かに自己満だよ。……女神? なれたらいいね、本当に。そしたらカズトくんを生き返らせるし、貴方を元の姿に戻して元の世界に帰る。それでハッピーエンド! 全てが丸く収まる。……本当にそうなればいいのにね。残念ながら私はただの人間だし、神様でも女神でも魔法使いでもない。貴方を本当の意味で救う事は出来ない」

「……だロウな」

「けどね? 私には知る権利がある。それだけは譲らない」

 無言で私を見つめる彼。私はそんな彼を睨みつけながら再びこう口にした。

「絶対に譲らないから」

 彼は突然、大声で笑い出した。目の前の黒いシルエットはお腹を抱えて笑い、時に咽せ返す。それでも笑う事をやめたりしない。

 暫く経って、落ち着きを取り戻すと……彼は私に、先程とは違う優しい声色で話しかけてきた。

「強くナッタね、アイコ。昔の君ナラ、きッとスグに泣イてしまッテいたダロうに」

「それは残念! 私、もう二十九ですからね。ちょっときつく言われたくらいで傷付き泣いてしまう程、乙女じゃありません」

「ナルほド、ソレは一理アる」

「ちょっと……それどういう意味?」

「自分デ言ッたんジャなイか、本当に難シイよ、君ハ」

 彼と私は顔を合わすと、声を上げて笑った。

 笑っている今の彼の表情は、私にはわからないけれど……きっとあの頃のように、太陽みたいな笑顔で優しく笑っているんだろうなぁ、なんて思った。

 ……見たいなぁ。もう一度、貴方の笑顔を。

 大好きだった、貴方の優しい笑顔を。

「さッキは突き飛ばシテしまッて本当にごメン。大丈夫ダッた?」

「大丈夫! 全然思いっきりとかじゃなかったし、あんなくらいへっちゃらだよ! それにね、私嬉しかったの。カズキくんが、あんな風に感情をぶつけてくれたのって、初めてだったから」

「ソういウモの?」

「そういうものです」

 彼は『そッか』と呟くと、持っていた鞄に手をかける。あの頃と変わらない彼の鞄を見ると、何だか時間が戻ったみたいな感じがして嬉しくなった。鞄は以前より傷んではいたけれど、まだまだ使用出来そうだ。

 彼が鞄から取り出した物。

 それは――

「あ、それ……!」

 彼の手にひらの上に乗せられていた物。それは以前、彼が私にくれたけれど、この世界に来る為の依り代となり消えてしまった、あの琥珀色の石と同じ物だった。

 彼は、カズトくんがもしも生きていたら……この石を渡してちゃんと謝りたい、そう思っていたらしい。


 一つはカズトくんに、もう一つは私に。


 貰い手のないその石は彼の手の中で、キラキラと輝き続けていた。

「カズトはさ……本当二変わっタ奴ダッたンだ」

「……うん。それはカズトくんになりきろうとしていた貴方を見ていれば、よくわかるよ」

「ハハ! だろウ? ソんなあイツにハサ、夢ガあっタンだ。世界中ヲ旅シて、自分ノ知らナイ世界ヲ見てミたいッテ、よク俺ニ言っテいタよ。俺はソンなあイツを、イつもバカにシテたんだ」

「ひっどいね。お兄ちゃんなのに」

「そウだね。ケど、本当ハ……そンなアイつガ羨まシクて仕方がナカっタ。俺ハ人とノ付き合イなンテ苦手ダし、周りノ連中ノ事なんテ常に見下シテいた。勿論ソんナだかラ、周リからハ嫌ワレていたヨ。ナノにあイツは皆カラ支持さレテ、愛さレテ……疎マしカッたンダ。アイつなんテ死ンでしマエばイイ。ソシたラ俺も、楽ニナれるのニ……っテ思ウ事モ、何度もアッた」

「……カズキくん」

「アイコ、聞イテくれルカい? 決シテ気持ちガ良イ話デはナイのダけレど……」

「……うん。その為に私はここに来たんだよ」

「……アりガトう」

 私と彼はその場に腰を下ろす。小刻みに震えている彼の手をそっと握ると、彼も強く握り返してきた。

 そして彼は、深く深呼吸をしてから……ゆっくり、ゆっくりと話し始めた。

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