第四節 神のさなぎ

「ぐっ」


 伸ばした手は届かず、天空より降り注いだ濁流に弾き飛ばされる。

 胸の傷を押さえながら立ち上がれば、濁流からは見覚えのある顔が、泡のようにいくつも浮き上がっていた。


 スワンプマン。

 沼の街で見た、工場長。

 まさか、こいつも?


「当たり前じゃろうて。この弩級構造体の中に、わしの知らぬことは無し。わしの息のかからぬものは無し。スワンプマンは、功子を貯め込むための実験体、そのための沼の街とN-verコードじゃ。叛逆しようとあがいたことさえ、こうするために誘導したことよ。そう、すべてはおぬしを至らせるため!」


 廻坐が語る間にも、汚らしい濁流は、巫女殿を取り込んで形を変えていく。

 四方八方へと伸びる食腕は、やがて先端に頭部を形成し。

 全身にはさざ波のごとく宝石の鱗が生じ。

 暴力の具現のごとき四脚が、空間をなぎ払う。


「VAGOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!」


 産まれ落ちたのは、八つ首の竜であった。

 神話に連なる八岐大蛇やまたのおろち

 その胸元からは巫女殿の半身がぬるりと生え、うつろな闇黒の眼窩から、緑の涙をこぼさせる。


「むん!」


 廻坐が、八岐大蛇へと手をかざした。

 すると星の内海に満ちていた流体演算子が大蛇へとつながり、八本の尻尾を形成する。

 宝石が、白銀を纏う!


「巫女殿! 聞こえるか!」

「聞こえるものか、すでに〝あれ〟は取り込まれておる」

「黙れ邪悪!」


 反射的に、手中に顕現させたレイヴンで廻坐乱主を狙撃する。

 だが、八岐大蛇がその巨体に似合わない速度で立ちはだかった。


 ギィィィン……


 功子弾頭が、分解された?


「〝あれ〟の渇望は理解。理解とは解剖と分析、そして再構築による。知っておるか? 蛇の舌は犬よりも鋭い嗅覚ぞ? それが八つ首で……まあ、八倍ということじゃ」

「相変わらずの理不尽で安心したぞ。いま殺してやるから待っていろ」


 だが、できることなら巫女殿を助けたい。

 彼女とはいつか戦う宿命だったのだろうが、宿命など関係ない。

 いまとなっては巫女殿は、ヴィーチェの忘れ形見だ。

 その命が奪われるなど、よしとはできない。


「VARAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!」


 咆哮とともに飛来する八つの首を、紙一重で躱し続ける。

 竜の頭が突っ込んだ部分の流体演算子は大きく削れ、分解されて、再構築され、あの巨体をさらに成長させる。

 触れたものすべてが、功子に分解されているというのか?


「ふむ、おぬしでも素手で触れば一発じゃな。こうなった場合の安全装置として、最速で功子を削り取れるメドラウドを侍従にしておったのじゃが、おぬしが斃してしまったしのう。憐れよのう、わしの分御霊わけみたま

「おまえが、彼女を、哀れむなっ!」


 試みに功子弾頭を再び打ち込むが、やはり八岐大蛇に遮られ分解されてしまう。

 ダメだ、埒があかない。

 最強の騎士キャスを消滅させた力でさえ、この場ではあまりに脆弱だ。


「これはどうしたか、憲兵中尉? 逃げ回るだけでは、ほれ、わしの首は取れぬぞ?」

「抜かせ。かならず誅戮してくれる」

「威勢だけが一人前でものう……致し方ない。すこしばかり、おぬしを本気にさせてやるとするか。のう、憲兵中尉……何処までが、わしの〝はかりごと〟だったと思う?」


 なに?


「じゃから、どこから何処までが、わしの掌の上であったかという話じゃよ。たとえば、あの日おぬしが暗殺を依頼されたこと」


 降り注ぐ八岐大蛇の頭部。

 尻尾。

 吐き出される白銀の息吹。


 そのすべてを掻い潜り、飛び越え、かすめ、身体の端々を分解されながら。

 私は、考える。

 考えずには、おれないでいた。


「もし」


 あの暗殺依頼が。

 いや、廻坐乱主の素性が、上官殿や陛下まで流れたことこそが、この邪悪の筋書きの通りであったとしたら?

 自ら情報をリークしたのだとすれば?


「たとえば、これまで立ち塞がってきた珪素騎士が、ぎりぎりおぬしでも勝てる相手であったこと」

「だが、キャスは最強の珪素騎士だった!」

「うむ、じゃから最初はわしが横やりを入れた。おぬしが斃されても困るし、拡張躯体を取り逃されても困るからの。そして勝てるころに、もう一度ぶつけた」


 たとえば、スワンプマンが神へと敵対していたこと。

 たとえば、巫女殿がそこに居合わせたこと。


「たとえば、N-verコード。あれはのう、精神が崩壊した住民たちに新たな記憶を植え込めば、功子として再利用できるかという実験であったし、スワンプマンがそうするように促したのもわしじゃった。すべてはこの弩級構造体で行われる、功子を人造的に生み出す実験の一環じゃよ」


 たとえば、生粋の破壊者であるリトー・ゴーヴァンが女王に恋したこと。

 女王もまた、リトーを愛したこと。


「無論、そうなるように見逃した。珪素騎士はわしに逆らえぬ。リトー・ゴーヴァンも、よくよく理解した上で楽しんでおったのじゃろう。おぬしが功子のゼロ地点を突破するきっかけとして、よく働いてくれたわい。じゃから、自ら死を選んだのじゃよ、あれは?」


 たとえば、ロボットたちが地雷原に畑を作っていたこと。


「ここに来る前に、補給をして貰わなければならなかったからのう。腹ペコで来られても、試練を越えることはできぬ。ついでに美味いもので理性のたがを外した訳じゃ、もっとほしくなるようにな」


 たとえば、アーヴ・ロウンで目を覚ますまで、私の肉体が無事であったこと。


「ヴィーチェ・ル・フェイはわしの共謀者じゃ。無論のこと目覚めるまでは放置すると協定を結んでおったわ」


 たとえば。

 たとえば。

 たとえば。


「たとえば、弩級構造体。なんのために、これをわしが作ったと思う? 魔女に作らせたと思う? もう一度言ってやろう、わしの伴侶となるものよ」


 邪神が、嗤った。


「おぬしを神にするために。そのために、全人類、全宇宙のすべてを功子に変換し、このコクーンに──煮立った魔女の釜、聖杯、ゆりかごへと閉じ込めた! そう、ドレッドノート・ストラクチャーとは!」


 わしに比肩しうる神を、促成栽培するための繭──


「神のさなぎじゃったのよ」


 現人神は。

 廻坐乱主は、歯を剥き出してにして、目を爛々と輝かせ、嗤う。


「おぬしを幼女にしたのも、わしの伴侶に選ぶため! そのために性別を変えた! ここに来る直前に、熟れごろの身体となるよう調節した! 歴史上、おぬしだけが功子知覚者として資格を持っていたが故に! わしが、気に入ったが故に!」


 そのために殺戮したのだと、彼奴が言う。

 耳障りな声で、宣い続ける。


「他の人間はすべて収穫した! 文字通りの食い物として! 未来永劫、過去永劫、もはや功子知覚者は産まれ得ない! 産まれても、この構造体の糧となる。そうじゃ、邪魔者を取っ払ってやったのじゃ。ここにはもはや、人間はおらぬ! 臣民は不在! おぬしが愛し、守ると誓った人類はおらんのじゃ!」


 すべては私の養分と、神は吐き捨てる。


「愛すべきものはすべてが糧! 味方はなく孤独! さあ、さあどうする憲兵中尉! 有木希戮! すべてを剥奪されてなお、防人憲兵の意地を通せるかのう!?」


 無言で奥歯を食いしばり、八岐大蛇の猛攻をしのぎ続ける私に。

 それは、決定的な選択を突きつけた。


「わしの伴侶となれ、希戮。このような不毛の苦しみとは袂を分かち、わしと楽園に向かおうぞ。おぬしとて、そろそろ救われたいと思っているはずじゃ。困難になんの意味があるのかと。試練も悲劇もまっぴらごめんと。だから跪き、わしの家族となると誓え!」


 叩きつけられる大蛇の首。

 躱しきれず直撃を喰らえば、一瞬で功子皮膜は分解され、隊服さえもはじけ飛ぶ。

 吹き飛ばされ、朦朧とする意識の中で。

 私の口をついて出たのは。


「──否──」


 神を否定する言葉だった。


 膝をつき、割れた額から流れ出す血液を拭いもせず。

 震える手足をついて、立ち上がり。

 告げる。


「それでなお、命はここに生きている。今日が明日を作るなら、この苦しみさえも、誰かの明日の糧となる」


 私は決して、ひとりの力でここまできたのではない。

 多くの人々に、命に支えられてここに立っている。


 たとえ、禁裏に辿り着くまでの道が廻坐乱主に舗装されたものだったとしても。

 おまえに踏みにじられた、ヴィーチェたちの遺志を背負って立っている!


 だから、跪くことなど、許されない!

 命を賭してでも、私はおまえを殺す!


「なにより、だ。私がここで、おまえを斃せば!」


 それは、どんなものより確実な、ひとの未来の糧となる!


「故に否! 断じて否! 私は、おまえに屈服しない!」

「……よい。それでこそおぬしじゃ。ならば、四肢を、首を、骨を、使命を、言葉のままにへし折って、痛みと絶望のさなかに今一度問いかけよう。キャスパ・ラミデスを見ればわかろう。かつては叛骨精神旺盛な男であったが……手間をかけて弄れば従順な信者と成り果ておった!」


 邪神が笑う、人の尊厳を嘲侮する。


「おぬしもああなる! 儂にかしずく家族となる! そのために、ゆけ、白き竜よ! 八岐大蛇よ! この女に、最後の試練を!」


 白銀の竜が、咆哮を上げる。

 竜が大気を吸い上げ、腹腔を大きく膨らまし、次の瞬間ブレスを放つ。


 私は。

 高らかに叫んだ。


「功子転換──戦鬼転生!」


 決着をつけるぞ、廻坐乱主!

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