星に願いを、鏡に愛を

凪野基

第一章 Stargazer

第一章 Stargazer (1)

 流れ星を見たら、次こそ願いを唱える。小さな望みを抱くたびそう思うけれど、決まって星は流れない。そもそも都会の夜は明るすぎて、流れる星など見えやしない。ジョーはまだ一度も星に願いを懸けたことがない。

 そして今また、流れ星を渇望している。今度こそは唱える、唱えてみせる、と。




「アンセム・ハワード症候群、なんだってさ」


 ウイルス発見者の名を取って、アンセム・ハワード症候群。三十分にもわたる医師の話のうち、理解できたのは病名だけで、その他はすべて自宅の端末ステーションで検索して知った。


「……えと、つまり、どういうこと」


 マリは胡乱げに虹色の目を細め、ホイップクリームを増量して注文したアイスココアをかき混ぜた。幼い顔は不安で曇っている。混じり合わないホイップと氷の層に苛立っているふうでもあった。

 ジョーは黙って携帯端末ロギアを掲げ、クラウドに保存したウェブサイトや論文データのURLを送信した。

 病名を告げられたのは一週間前のことだ。ふらつきながら帰宅して、水も飲まずに端末にかじりついた。無数に重なるブラウザのタブ、保存した画像や論文のファイルでとっ散らかったモニタを前に一夜を明かしたとき、眼精疲労のためだけではなく、目は真っ赤に腫れていた。涙を吸った袖はじっとりと重く、気分はそれ以上に陰鬱で、そのくせ腹は食事を求めてぐうぐう鳴り、こんな時でも腹は減るのかと呆れ、果てには憎しみさえ覚えたものだ。

 AR機能を備えたコンタクトレンズを愛用しているマリは、右手のジェスチャだけでデータを展開した。左眼が素早く瞬いてページを切り替えるたびに、その顔色が、表情が乾いてゆくのを、どす黒い愉悦にも似た気分で見守る。

 涙はもう涸れた。混乱も動揺も遠くに過ぎ去った今は、冷静で平らかな、凪いだ気分だ。あるいは虚無か。幾分か薄まったアイスコーヒーを啜る。味を感じないのは、氷のせいだ、きっと。

 マリが顔を上げる。十五歳で成長を止めた頬の線は強張り、七色の目が潤んでいた。


「これ、この前から脚が痛いって言ってたやつだよね。治らないの」

「死ぬまでな。書いてあっただろ、早死にウイルスって。症例は少ないけど、致死率百パーセント。放射線療法が症状の進行を遅らせるのに効果が認められる場合もある。病状の進行も人によって様々、よって平均余命も不明。現段階で、発症してから八年生きたのが最長。……まあ、このケースは最後の一年は生きてたっていうか、生かされてたって印象だけどな。治るか治らないかはマリのが詳しいだろ、魔女なんだから」


 彼女は目を逸らし、プラスチックのカップから滴る雫を見遣る。


「……そうだね」


 アイスココアまでもが泣いている。公園の木々が波のように梢を揺らす。初夏の、風が爽やかな日のことだった。



 最初に、違和感があった。ジムで傷めたか、あるいは試合前のストレスだろうと思っていたが、ほどなく痺れと痛みに変わった。放っておくわけにもいかず、リラクゼーションマッサージ、整骨院、整形外科を経て、二か月待ちの血液内科を予約した頃には、鎮痛剤も効かぬほどになっていた。脂汗を拭いつつ足を引きずって出勤する有様で、産業医AIがストップをかけたのである。

 受診候補のリストにあった血液内科の文字に、癌か、と焦燥が過ぎったが、振り返ってみればその時の絶望など、診断が下ってからの数日に比べれば可愛いものだった。

 かかりつけの内科や整形外科とは違って、大学病院の検査室は自動化されていた。その突き抜けた清潔さとのっぺりした質感は、大病の予感と有形無形の不安をいや増す。看護師かオペレータか、案内のコメディカルがいなければ、挫けていたかもしれない。

 症例の少ない難病がすぐ診断されたのは、果たして幸運だったのか。

 呆然としながらも、手放せない仕事があるからと即日の入院を撥ねつけ、涙が尽きた後は診断書を片手に実家へ戻って説明し、退職の手続きと難病認定申請、一昨年加入したばかりの医療保険のお見舞金申請、ネットで見た闘病記に倣ってホスピスへの入所準備に身辺整理、と息をつく間もなく駆け回って、最後の最後に向かったのが魔女、安藤真理マリのところだった。

 病を癒やし、傷を治す奇跡の行使者である幼馴染みへの報告を後回しにしたのは、未練がましいのが嫌だったからでもあるし、流れ星に願いを懸けるのにも似た、一縷の希望を捨てきれずにいたからでもある。

 だが、マリは治るとは言わなかった。いつもより硬く震える声音で未来を断った。それはつまり、病を治せず、癒やせず、遠からぬ死を約束されたということだ。

 そうか、と応じた声はやはりからからに干からびていた。人はみんないつか死ぬ。診断から百回は唱えただろう平静の呪文を、声に出さず呟く。

 そういえば、ジョーと呼んだのは彼女が最初だった。新城健しんじょうたけし、だからジョー。すこやかにと願ってつけられたのだろう名を虚しく思わずに済む。子どもの頃からこう呼ばれていたから狙ったわけではなかろうが、こんな些細なことでも有り難かった。


「これからどうするの? 入院? 検査? 手術?」


 こちらを見上げるマリはもう、手にしたココアの存在をすっかり忘れているようだった。氷が融けて薄まったそれはいかにもまずそうで、あとで何か代わりのものを買おうと思う。彼女まで干からびてしまわないように。


「たぶん、全部かな。難病の認定が下りるから経済的な負担はあんまりないし、病気の研究のために生検に協力するとか、義肢義体フィギュアの試験とかに申し込んだから忙しいかも」


 へえ、と見開かれたマリの眼は虹にも蛋白石オパールにも例えられる混色で、魔女の証しである。少女の外見に七色の眼を持つ、未来視の魔女の。

 ピンクブラウンに染めた髪や一分の隙もない化粧、フリルとレース満載の黒いワンピース、編み上げ厚底ブーツといういでたちは、自衛のための戦闘服なのだと彼女は言う。それでも不躾に魔女に近寄り、恩恵にあやかろうとする輩は絶えず、昔からジョーは彼らの無神経さに苛立ち、恋人を案じてきた。


「あの、すみません。魔女の方ですか」


 ああ、ほら、今日も。

 裾のよれた地味なカーディガンと皺だらけのスカートを揺らし、その女性は人形の無表情を保つマリの手を取って、化粧気のない乾燥した額にこすりつけた。


「息子が交通事故に遭って、ひと月も意識が戻らないんです。息子のために祈ってください。お願いします、どうか……!」

「魔女への依頼は連盟を通してください。これ、連絡先です」


 マリが斜めがけにしたポシェットから魔法のような速度で取り出した魔女連盟ウィッチクラフト・オフィスの名刺は、金切り声とともに宙に舞った。ココアがこぼれて、地面に染みが広がる。


「依頼金が払えないから、こうしてお願いしてるんじゃないですか!」

「連盟の価格設定がご不満なら、フリーの魔女を探して交渉するしかありませんね。わたしではお役に立てません」


 母娘ほどに歳の離れたふたりを、冷めた気持ちで見守る。離れて暮らす両親に病気を伝えたとき、彼らは泣き伏したが、なんとか宥め、説得し、落ち着かせることができた。

 だが、父も母も、誰かに、何かに取り縋って、一人息子の病を治してくれと訴えたい気持ちはあるだろう。それでも、マリを知る両親に限っては、こんなふうに公の場で魔女を傷つけはしないと信じたい。信じるしかない。


「フリーの魔女なんて、簡単に見つかるはずがないでしょう! 値下げ交渉に応じてくれるかもわからないし……」

「失礼ですが、そちらさまの都合をわたしに転嫁しないでください。お気の毒だと思います。ですが、わたしは連盟の規約に反する気はありません」


 マリの言葉も、安い機械音声みたく淡々としていた。幾度となく繰り返されてきたやりとりなのだ、仕方あるまい。つまらない情は、自身の価値を下げる。


「だからこうして頼んでるんでしょうが! 何よ、幸いをもたらすなんて言って、結局は金儲けしか頭にないんじゃない!」


 歯をむき出し、髪を振り乱してマリを突き飛ばした女の手首を掴んで止める。踏み込んだ左脚が悲鳴をあげたが、なんとか声に出さずに済んだ。


「これ以上エスカレートするなら、警察を呼びます」


 彼女の髪はほつれて顔にはりつき、目は血走っている。小鼻を膨らませてジョーを睨むうち、体格の良さ、腕の逞しさに気づいたらしい。冷静になったのか、腕力では勝てぬと割り切ったのか、非礼を詫びるでもなく身を翻し、肩で風を切って去っていった。

 その薄い猫背に母の姿を重ねようにもうまくいかなかったが、きっと他人事ではない。今夜にでも電話しよう、と心に留め置く。

 マリだけでなく、ジョーもこの手の迷惑な突撃には慣れっこだった。そもそも、彼女の盾になるために格闘技のジムに通い始めたのだ。実際に掴み合いになったことは数えるほどしかないが、修練で得た体格は虫除け以上に役立った。

 地面とスカートに広がるアイスココアの染みを睨み、マリはだらしなく転がるカップをダストボックスに投げ込んだ。清掃ロボットがインジケータを点滅させながらやってきて、ココアに砂をかける。


「ありがと、ジョー。痛むの、大丈夫?」

「……や、まあ、少しだけ」


 手の甲で脂汗を拭う。神経ブロックの点滴に通っているお陰か、踏み込みの衝撃が去ると、痛みもましになった。


「ね、うち来ない? ピザ食べてさ、映画でも見よ」


 右腕に絡む小さな手を引いて、駅に向かう。派手な色のボブを見下ろし、なるだけ平静を装って尋ねた。


「なあ、もしおれが祈ってくれって頼んだらどうする? 少しでも長生きできる未来を望んだら」

「どうするもこうするも」


 虹色の眼が瞬く。


「ジョーはそんなことしないでしょ。前提がおかしいから、その質問は無効」

「いや、もしもの話だって。痛みで錯乱して、助けてくれーって縋ったら」

「チューしたげる。その方が好きでしょ」


 反論できない。好き嫌いではなくて、それなら黙ってしまうな、と得心したからだった。細く頼りない指にぎゅっと力がこもる。冷たい手を握り返すと、体温が均されてゆくのがわかった。いつまで、この手を握り返せるだろう。おれの手はいつまで手として機能してくれるだろう。

 ほんの少し汗ばんだ手のひらも、この信頼も、もう間もなく失われてしまうのだな、とジョーはひっそり息をついた。

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