絆喰らいの英雄幻視

孝部樹士

プロローグ

 ――家に帰ると、妹が死体を漁っていた。


 ほんの穏やかな昼下がりのことである。

 小学生の頃から帰宅部の俺は他の学生達よりも帰宅時間はずっと早い。

 友達がいないわけではなかったが、放課後に帰宅部の俺とだらだら過ごすような暇な友人達は高校三年生の夏にはいなくなっていた。

 社会に出るまでに学業が役立つのは無論なのだろうが、社会に出てからはどれだけ学業が影響を与えるのか謎だ。

 どちらかといえば勉強ができる部類に入る俺だったからこそ、自宅での復習で済んでいる。高望みはしていない、どうせ夢も目標もなく、今日の放課後のようにだらりだらりと生きてきたのだから、それなりの大学にいければ十分だ。

 先の目標なんて、進学してから決めればいい。良い大学に入ることができれば、就職先の入り口も大きくなるのだし。


 そんな、取り留めのないことをぼんやり考えながら帰宅した。


 「ただいま」


 臭い。家の扉を開けて、次に鼻孔を刺激したのは、今まで生きてきた中で一度も嗅いだことのないほど強烈な異臭。

 臭いを我慢して、ただいま、ともう一度言ったが返事もなければ足音一つしない。父はもちろん仕事で、母は専業主婦だし、中学三年生の妹も万年帰宅部で既に帰ってきているはずだった。

 嫌な予感はあったが、認めたくないからこそすり足で進む。


 音のない空間というのは精神を狂わせるようで、激しさを増す動悸と肉体のあらゆる穴を侵食するような強烈な悪臭の前に立ち眩みを覚える。

 ここから背を向けて外に出れば、家の外は日常が広がる。反対に、落ち着けるはずの我が家は異界でしかない。まるで、顔も知らぬ他人の家に上がり込んでしまったようだ。


 やめろ、それ以上先に進むな。と、頭の奥が頭痛という形で警報を鳴らしている。しかし、進まなければいけない。ここで背を向けられない程には、僕はこの家が好きなんだ。

 あえて靴を脱がずに臭いのするリビングに向かう。家に上がり、廊下数歩進んで突き当りを右に曲がれば扉を隔てた先はリビング。扉からも滲み出る臭い、どこかで嗅いだことのある香りだと考えたが、思いついたのは母が魚を捌いた時に出た内臓がゴミ箱の中で放つ腐敗臭のそれだった。


 「あ――おがぇりぃ、おにぃちゃぁん」


 妹の口の周りが赤子の食事のように真っ赤に汚れ、飴を咥えてるのか球体を口内で転がしているせいでうまく喋れないようだ。

 ぺたりと制服のままで座り込んだ妹が居た。そして、妹の周りにはいくつかの真っ赤な塊がが転がり――。


 「――うっ」


 妹の周囲を囲むグロテスクな物体に気付き、堪えきれずその場で嘔吐する。失神してしまえばずっと楽なはずなのに、気が遠くなりそうになりながらも意識を必死に繋ぎとめる。

 もう一度、その凄惨な光景に視線を戻す。


 リビングには長方形のテーブルを囲み対面するようにして四つの椅子が並び、奥の方には家族がくつろぐソファと大型のテレビが置かれている場所に人間の腕がぶら下がっていた。

 卒倒しそうになりながら否定することも肯定することもできないまま、よく知っている無邪気そうな妹と視線が交差する。

 視線がぶつかった妹は、ごくり、と何かを飲み込めば咀嚼を止めた。


 「あーあー、お部屋汚しちゃったねぇ。でもでも、私もお部屋汚しているしおあいこだよねー」


 座り込んだままの妹の姫叶ひめかは、近くにあった赤い塊に手を突っ込めばぐちゃぐちゃと音を立てて掻き混ぜる。やはり、妹の口元は”何か”を食べたのか汚れていた。最初にうまく喋れなかったのは、”何か”が口の中に残っていたからなのかもしれない。


 「おい、姫叶ひめか……何を……混ぜているんだ……」


 ようやく出た質問がこれかと呆れてしまうが、俺は喋ることができただけでも奇跡的だと思えた。

 一度だけ真っ赤に染まる塊から引き抜くと、妹はにこりと微笑んだ。


 「――おかあさん」


 思考がぷつりと途切れ、既に許容量いっぱいいっぱいだった俺の脳内は完全に思考を停止する。

 ダメだ、したくない。してはいけない。

 日常の名残りのようにして、姫叶の短い二つ結びの髪が左右に揺れる。流れる髪の隙間から人間のパーツが見え隠れする。


 「なん……で……」


 届くかどうかも怪しい息を吐くようなか細さで僕は声を絞り出す。


 「なんでって、異世界に行くための儀式だよ」


 「――は?」


 思考も、視覚も、感覚も、善悪の区別すら不明瞭になった状態で、魔物になった妹の狂った発言に反応する。

 急なことに理解が追い付かなければ、悲しみすら間に合わない。狂った状況で、意味不明な妹の発言だけがじんじんと脳髄を駆け巡る。


 「ちょっと待って、待て、待てよ……。異世界? は? そんな訳の分からないことの為に、母さんを殺したのか……?」

 

 「むぅ、訳が分からないは心外だなぁ! これでもいろいろと準備して、ようやくここまでやってこれたんだよ!? そこのところ、分かってくれるかな!?」


 頬を膨らませる姫叶。愛らしい仕草が今は恐怖を増長させる。続いて出た言葉は、さらにまともな思考を削り取っていく。


 「……それに、お母さんだけじゃないよ? お父さんもいるんだよおぉぉ」


 何がそんなおかしいのか、両手をメガホンのようにして姫叶は声を大にする。

 誰が見ても狂っていた。妹は狂人にしか思えない。

 姫叶はどこにでも普通の女子中学生だったはずだ。当たり前に友達がいて、流行りの遊びをして、学業のことで悩む。気付けば、俺は壊れかけの日常で縋りつくようにして口走っていた。


 「こんなことしたら、もう元の生活には戻れないんだぞ……。友達にも会えなくなる、学校にだって行けるわけがない。それに、あんなに夜遅くまで受験勉強頑張っていたじゃないか……!」 


 狂人相手に馬鹿の一つ覚えをするように日常を問い続ける。

 屍の臭いも、血まみれの家も、狂ってしまった妹も、現実を直視することもできず、ついさっきまでそこにあった日常を求めることしかできない。

 ケタケタと姫叶は耳障りなほどの高音で笑う。


 「なぁに言ってんのさ、お兄ちゃんてば! 異世界に行くんだから、この世界のことなんて関係ないに決まっているじゃない! ――ほらねっ」


 カッと眼球を撫でるような閃光が迸る。

 急な出来事に目を閉じてしまい、次に瞼を開く時には異変がはっきりと視認できた。

 ――姫叶の周囲二メートル程の空間が歪んでいる。


 「ほら、気付ているかな? 今お兄ちゃんが見ているのは、異世界への扉が開こうとしている証拠なんだよ」


 「馬鹿な……馬鹿げているよ……」 


 強い光を浴びせられて目がおかしくなっただけかと思っていたが、勘違いで済まされる状況ではない。

 姫叶を中心に空間が捻じれ、ぐらぐらと姫叶の肉体が輪郭を失おうとしている。


 「ほら、開いているよっ! 開いているよぉっ! やっぱり、コレに書いてあった通りだ!」


 無造作に転がっていたと考えていた自分の通学鞄を引っ張った姫叶は、鞄に入っていた教科書をまき散らしながら一冊の古びた本を取り出した。

 国語辞典ぐらいの大きさの年季の入った本を大事そうに両腕で姫叶は抱きしめた。あたかも、未開の惑星へと旅立つ宇宙飛行士が恋人の思い出の品を握りしめるかのように。


 得体の知れない文字で書かれた布切れに包まれ、汚れ、黄ばみ、異臭のする分厚い本を我が子のように抱えた妹に寒気を覚える。いや、正確には妹の握りしめた本から言いようのないおぞましさを感じさせた。

 フリーズしていた思考がようやくまともな行動を起こさせる。


 「やめろ! 姫叶! その本を早く捨てるんだっ!」


 きっと何もかも遅いと理解しつつ、がむしゃらに伸ばした右手が姫叶に届こうとする。が――痛みもなく、肩の辺りから右腕が消失する。


 「あぁぁ――」


 バランスを失った体は頭から前のめりに顔面を強打する。じとりとおそらく両親のどちらかの生温かな血の感触が頬を濡らす。自分の腕を無くしたことよりも、唇から舌先に流れてくる肉親の血液の味に気を失いそうになる。

 床を這いずり逃げ出したくなる気持ちを必死で堪えて、血肉のぬかるみに震える左手で体を支える。


 「姫叶っ――!!!」


 既に姫叶の輪郭の大半は形を失い、辛うじておぼろげになった姫叶の虚ろな瞳が俺を見下ろす。


 「お兄ちゃん、しつこいよ。儀式と関係ないから、せっかくお兄ちゃんは生かしておいたのに……。こんな風に中途半端に儀式に参加するから、そんな風に死んじゃうしかないんだよ」


 責めるわけでもなく怒る声のトーンというだけではなく、ただ淡々と語る。口を無くした姫叶の声が、異空間の中で響き渡った。


 「姫……叶……。俺は、お前を……」


 「どうするの、追ってきて殺す? それとも、信じたいの? もしそれさえも曖昧ないなら、お兄ちゃんに私を追う資格はない。まあそれ以前に、お兄ちゃんには適正がないから通れないんだけどね。あっちの世界で偶然お兄ちゃんの腕を見つけることがあったら拾っておくね。……無理だろうけど」


 姫叶を取り囲む異世界への通り道となった空間は、俺の体をも取り込もうとする。


 「行かせ……ない……!」


 もしも姫叶の語る儀式というものが、異世界に旅立つ為の条件というのなら、俺には扉を抜ける権利は無いということだろう。それ故、中途半端に右腕だけが持っていかれたと考えられるのだろう。

 条件反射なのか生きたいと無意識に思っての行動なのか、必死に左腕をバタバタとさせて、その手に触れたのは一枚の布切れ。両親の服の切れ端か、それとも破れて散らばっていたソファの一部か、それでも縋るように布切れを握りしめて手繰り寄せた。


 布切れは真っ赤に染まり、血でぐっしょりと濡れていたが、真っ赤な血に染められながらも布切れには気持ちを不安にさせる赤黒い液体で書かれた魔法陣は血に染まることもなく黒々と怪しく光っていた。いつ気が狂ってもおかしくない状況だというのに、黒く光る魔法陣から目が離せないでいた。

 ――しかし、肉体は思考の継続を許そうとしない。

 視界が曖昧になっていく、どうやら俺の顔もこの異界へと続くであろう謎の空間に消されようとしているのか。


 「うぅ……なんで……こんなぁ……」


 違った。俺は泣いていたのだ。だから、視界は濡れて見えなくなっていこうとしているんだ。

 みっともなく叫ぶが、俺にはもうどうしょうもない。次に顔を上げれば、完全に姫叶の姿が消えてしまったことを知った。

 泣き声すら出せなくなった頃、俺の世界はどんどんと暗くなっていく。


 ああ、異世界を超える権利のない俺には死の世界が待っているだけなのか。

 嫌だ、生きていたい、まだやりたいととだってたくさんあったんだ。それなのに、何で!

 両親だって妹だって、普通だった。何かも普通の家族だったんだ。それなのに、何で壊された。姫叶が狂ったせいか? いいや、違う。姫叶があの古い本に対する執着は異常だった。――きっと、異世界にその原因があるはずなんだ。


 もう元には戻らない家族だとしても、俺は姫叶が狂った原因を知り、そして、アイツを止めなければいけない。

 生きたい、生きていたい、俺は姫叶の兄の希道助きどうたすくだ。これからの人生は俺の為に命は使わない、姫叶の為に使う。

 だから頼む、異世界に神様がいるなら、俺を姫叶の元まで連れて行ってくれ。


 ――俺を異世界に連れていけ、姫叶を――為に――。


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