第一章 ちむは肝。心がどきどきするってことさぁ。

 店の前を、白と茶色の太ったボス猫がのんびりと歩いていく。

 ブイヤベースの看板は外に出されておらず、店のシャッターは一カ所、半分だけ開いていた。入り口のドアに鍵はかかっていない。薄暗い店内に人の気配はない。しんとした感じが、明け方に意識は起きているけれど目は開いていないときに似ている。

「シェフ? 新里さん?」

 返事なし。

 詰めても三人しか座れない狭いL字型のカウンター席、壁側のベンチシート、その前に置かれた二人用のテーブルが四つ、角の広いテーブル席、奥の厨房。身体の大きい新里さんと何人かのお客さんが必ずいる店内に誰もいない。

「早くして、お母さん。人の家に勝手に入ったら泥棒じゃないの?」

 外で待っている春樹の声だ。

「お母さんは何か盗むつもりじゃないから大丈夫なの」

 不法侵入、という言葉が浮かんだ。戻ろうと向きを変えたとき、カウンターの上で何かが光った。隙間からさしこんだ光が鍵束に反射している。その横に厚いファイルと白い紙が置いてあった。


『藤丘紗里様 ブイヤベースに来てくれてありがとう。紗里ちゃんのおかげで、俺は一番したいことができる。店は任せる。よろしくな。紗里ちゃんなら絶対にうまくいくよ。楽しんで。新里孝志』


「お母さん、ちょっと来て。早く、早く出てきて」

「待ってたら」

「お母さーん」

「春樹がこっちに来て」

 うわあ、という春樹の声が聞こえて、急いで店から出た。おばぁが三人いて春樹の姿が見えない。

「春樹、どこ?」

 お母ぁさん、という声はする。雑貨店のおばぁの背中、そのむこうに春樹のストライプのTシャツが見えた。乾物屋で働いている白髪のおばぁと、知らない大柄なおばぁが春樹を取り囲むように立っている。

「あの、すみません。うちの子が」

 春樹がおばぁ達の間から手を伸ばしてきた。おばぁ達はその手を掴み、飴や黒糖を握らせている。

「かわいいねえ。まちぐわぁに来たらおあばのところへ寄ってねえ」

 おばぁとおばぁの隙間から、春樹は這うように出てきた。満面笑顔のおばぁ達は春樹の頬や肩、腕を惜しむようになぜ、雑貨店へ歩いていった。

「おばぁの強襲ってすごい。こどもの姿は決して見逃さないんだ」

「なんで早く来てくれなかったの」

「来たって」

「お母さん、これ食べていい?」

 涙目の春樹は飴を一つ持って私の顔をうかがっている。私はうなずき、店内へ戻った。

「どうして暗いの? 今日はブイヤベースを食べられないの? ねえ、お母さん。聞いている?」

 私はカウンターから身を乗りだして暗い厨房を覗いた。

「誰もいないよ。帰ろう、お母さん」

 厨房にはなんの用意もされていない。もうすぐ店が開く時間なのに。

 新里さんは行ってしまった。あのときとは違う。

「くまさんはどこへ行ったの?」

「わからない」

「病気? 死んじゃったの?」

 死ぬ? どうして? もう一度、メモに並んでいる字を読む。

「それで? 僕達はどうするの?」

 春樹と目をあわせて首をかしげた。

 春樹も真似をして首をかしげる。

 私が逆向きにすると春樹も逆向きにした。

「もう、お母さん。ふざけないで」

「ごめんごめん。新里さんに電話しよう」

 携帯を出して電話帳の画面を開く。店の番号はあるが、新里さんの番号は登録されていない。私は二ヶ月前に初めて店に来て頻繁に通うようにはなった。けれど、新里さんとは友達でもなんでもない。客のうちの一人だ。

「これは?」

 春樹はメモの隣にあった厚いファイルをめくった。

「ちょっと見せて」

 ファイルの一ページ目は店の名前でもある、看板メニューのブイヤベースのレシピ。二ページ目はブイヤベースのレシピの改訂版。次のページもまたブイヤベースのレシピの改訂版2。めくってもめくってもブイヤベースのレシピだった。20ページ後にやっと魚の香草焼きのレシピがあった。その他のメニューのレシピが続く。一番後ろのページには仕入れ先一覧。漁師の大城一真(かずま)の名前が一番上で、パンとケーキを作っている知念芽衣(めい)の名前もあった。

「新里さん、本気だ」

「本気って?」

 春樹は左手で自分の耳の上をぼりぼりと掻いた。

 私は一ページ目のブイヤベースという字を見つめる。もう、新里さんの作ったブイヤベーススープは食べられない。新里さんとも二度と会えないような気がする。

「これはなんなの? お母さん」

「これはさ、くまさんの大事な物」

「大事な物だったらなんでここにあるの?」

 そうだよね、と私はカウンターの椅子に座り、胸の前に垂れた自分の髪を梳くようにさわった。どうして不意打ちのように店を任せる相手が私なんだろう。


「私もこれくらいおいしいスープを作りたい。新里さんみたいに沖縄の魚と野菜で」

 ブイヤベースを食べながら、私は言った。

 一ヶ月前? 二ヶ月前……。

 カウンターの中で新里さんはエプロンを外し、「紗里ちゃんにこの店は任せた」と言い、店から出ていこうとした。

「待って。今すぐってわけじゃないから。いつかの話だから」

 慌てて私は椅子から立ち上がった。

「いつかって言うやつに限ってさぁ、いつまで経ってもやらないんだよ」

 ベンチシートに座っていたウミンチュの一真が言い、新里さんは彼の隣りに座った。

「コックさん、夕陽色のブイヤベースをお願いしまーす」

「俺達、底なしだからたっぷりお願いしまーす。愛情もたっぷりでぇ」

 二人はハイタッチして楽しそうに笑っていた。


「お母さん、怒ってるの? ねえ、お母さんたら」

 春樹と目を合わせたら、すぐに春樹は逸らした。

「もう行こう。暗いお店にいるのは怖いよ」

「大丈夫。ここは安全だよ。お母さんもいるし」

 春樹を横に座らせて背をなぜる。そうか。朝のは、これだったんだ。

「僕、お腹空いた」

「飴は?」

「とっくに食べちゃった」

 12時前だ。私は鞄をおろし、紅芋チップスの袋を春樹へ渡した。

「食べていいの? ご飯前なのに?」言いながらも春樹は一枚つまんで口に入れた。

 春樹、今日はどうしてお母さんと一緒にいるの? 

 今日は、お母さんにとって大事な日になるから? 

 全てが変わったあの日のように? 

「一枚ちょうだい」

 手を出したら、春樹は楕円が壊れていない紅芋チップを慎重につまみ、どうぞと手に載せた。

 春樹の後ろでは半分開いたシャッターから強い光が入ってきている。外では沖縄の太陽がこれでもかと力をみせつけている。梅雨が明けていよいよ沖縄の夏が来る。

 ドアの内側に置きっ放しの店の看板。クリーム色に塗られた木の板に大きな魚と数匹の小さな魚が鍋に入っている絵、『Bouillabaisse』、その下に片仮名で『ブイヤベース』、OPEN12:00-17:00と全て濃い緑色で描かれている。

 口の中で紅芋がぱりんと割れた。予想していたより固かった。何が現実かわからなくなり、春樹が持っている袋に手を入れて紅芋チップスを立て続けに食べた。

「おい、何してる」

 シャッターの隙間から顔が見えた。ウミンチュの一真だ。

 彼は一歩下がり、シャッターを押し上げた。店内が一気に明るくなる。

「新里さんと開店前に会う約束をしていたのに、新里さんはいなくてメモがあって」

 一真は鮮やかな青のTシャツに短パン、島ぞうりという格好で店に入ってきた。

 いいもん食べてんな、と春樹が持っている袋からチップスを取り、口に放り込んでからメモを見た。春樹は袋の開口部をしっかりと閉じた。

「新ちゃん、まじでいないんだ」

 一真はテーブル席の椅子を引き、座って足を組んだ。

「まじでって?」

 私がカウンター席に座り直すと、チップスで油っぽくなった春樹の手が私の太ももに置かれた。

「朝の競りさぁ。新ちゃん、定休日でもないのに来ないからこっちに寄ってみたんだよ」

「一真さんも知らないの? だって新里さんとは客と店主を越えた関係って話していたのに」

「あほか。いいから、なんか飲もう。お前の店になったんだろ」

「違います。新里さんもどうして私に店を頼むなんて」

「そりゃあ、お前がやってくれると思ったからだよ。わかりきったことさぁ。そっち入れよ」

 一真の顎に促されるようにカウンターの中へ入った。

 帰ろうよ、と春樹がつぶやく。

「ダメ。水道の栓もガス栓も閉まっている」

「ファイルに水の出し方くらい書いてあるさぁ。ちょっと俺、そのへんで飲み物を買って来る。なんでもいいだろ」

「できれば温かいのがいい。あと、お砂糖を使ってないの」

「面倒なやつ」

 一真は笑いながら店を出ていった。帰ろう帰ろうと言う春樹の言葉を流し、私はファイルをめくった。レシピのページが終わると空白のページがあり、最後の見開き部分に手書きの紙が入っていた。店の開き方閉め方という項目があり、メニューブックと同じ細かい字がびっしりと書かれていた。

 店を任せるから、よろしくな

 ここで? 一人で? 店をやる? ここで? 一人で? ラップの曲のように言葉が回る。

「お母さん、僕は、熱だよ」

 母さん、僕は、熱だよ、イエーイ、母さん、僕は……。

「お母さん、お母さんったら」

「ええと、熱ね、熱」カウンター越しに春樹の額、首の後ろとさわる。「大丈夫だよ。熱は上がってないよ」

「でも、頭がぼーっとする」

 そう? と春樹の広い額から頭の後ろへと手を動かすと、春樹は目を閉じた。春樹はこうされるのが好きだ。

「新里くんは、いないのかい?」

 スーツを着た初老の男性が店へ入ってきた。七三分けに整えられた白髪、背は低く、ほっそりとしている。男性の二倍のボリュームがある身体をしたおばちゃん二人が続く。

「新里さんは、今は、いませんが」

 これこれ、とおばちゃんが名刺を渡してきた。そこにいる初老の男性の顔がアップで写っていて、おばちゃんのTシャツには『真栄里マコト後援会』と書かれている。

「マコトさんは市場の味方だからねぇ。ゆたしくねぇ」

 おばちゃんが言い、私はマコトさんと握手をした。

 次、次、と言うおばちゃんに引張られるようにマコトさんは店を出ていった。カウンターに名刺が10枚程散らばっている。

「あの人がマコト?」

 春樹が言い、

「マコトさん、でしょ」

 襲撃のようだったと思いながら、私は名刺を集めた。

「水の出し方、わかったか? わかんなかったら隣りに聞きにいくけど」

 戻ってきた一真が温かいウーロン茶と100%のグレープフルーツジュースをカウンターへ置いた。

「今ね、マコトさんが来ていたの。新里さんと話したそうにしていたよ」

「俺もそこで会った」

「ああやって一軒ずつ回るの?」

「田舎は繋がりで投票するからな」一真はベンチシートに座った。「コウイチ後援会の奴らもロータリーで名前を連呼してたさぁ。コウイチは市場に顔を出したくても出せないんだよ。嫌われているからな。あいつはどう見ても悪人顔でさぁ。なのに選挙に通るんだよ。お前、ちょっと行って、市場についてどう思いますかってコウイチに訊いて来いよ」

「どうして私が?」

「威張っているやつの動揺した顔、見たくない?」

「私、糸満市民でもないし」

「出た。他人事」

「お母さん、飲んでいい?」

 春樹がジュースのパックについているストローを引き抜いた。

「飲む前になんて言うの?」

 ストローを穴に差し込みながら、ありがとう、と春樹は言った。

「顔を見て言うんでしょ」

 春樹は一真の方へ顔をむけ、ジュースをありがとうございます、と言い直した。

「こっええ、母ちゃん」

「顔を見てお礼を言うのは大事だと思う」

「ちびのときからあまり厳しくしてもさぁ。それより水やガスはわかったのかって」

「わかった。ねえ、一真さんは知っていた? 新里さんがどこかへ行きたいと思っていたのを」

「前からだけど一真さんって気持ち悪いさぁ。一真、もしくは大城でいいよ。いや、このあたりはみんな大城だからなぁ。カズでもいいし」

 サッカー選手の顔が浮かぶ。カズ。とても呼べない。

「新ちゃんはやると言ったらやる男だからなぁ。きっといつか戻ってくる、かもしれない。いやぁ、戻ってこないなぁ」

「戻ってこなかったらブイヤベースは?」

「お前がやるなら続くし、やらないなら店はなくなる。シンプルさぁ」

 春樹はずっと音をたて、ストローから唇を離した。

「お母さんがお店をやるの? そしたらお店はなくなるの?」

「違う、違う。ええとね」

「これ、お母さんも一口飲む? おいしいよ」

「お茶があるから大丈夫。ありがとう」 

 一真は缶のプルトップを開けて口をつけた。

「お前、これ飲む? まずいよ」

 顔をしかめ、一真が珈琲の缶を見せた。

「まずい物を勧められても。珈琲、いれようか?」

「その機械で?」

 厨房にあるコーヒーメーカーを一真は目で指した。

「前も言っていたよね。機械でいれる珈琲だったら紅茶がいいって」

「恨みがあってさぁ」

「コーヒーメーカーに? ならハンドドリップでいれようか。ドリッパーを見かけたことがあったような」

 これも飲んでいいからと春樹にペットボトルを渡し、カウンターの中へ入った。メモを見ながら水道栓やガス栓を開け、しばらく水を出しっ放しにする。その間にファイルをめくって珈琲豆の在り処が載っているページを探した。消耗品の保管場所と補充用の置き場所、購入箇所が一覧になっているページがあった。

「そもそも、お前の名前は?」

「今さら? 藤丘紗里。新里さんのメモにも書いてあるよ」

 冷たく言うと一真は口元だけで笑った。

「調子出てきたな。紗里ちゃん、俺をうならせるような珈琲をお願い」

 棚の中を探る。フィルターの隣にアンティーク柄のコーヒーミルとケトル、陶器のドリッパーがあるのを発見した。

「そんなに珈琲が好きなんだ」

「飲まないといらいらするから依存症に近いな。あとさぁ、人にいれてもらった珈琲は特別。濃い目にいれて」

「やってみる」

 紙フィルターを出してドリッパーにセットする。ケトルに浄水を入れて火にかけ、金色のミルに豆を二人分より多めに入れた。

「手順よくない?」

 一真はカウンターの前に立ち、跳び箱をするように春樹の隣りに座った。春樹は一真から離れるために椅子を一つ移動する。

「取って喰わないから、そんな目で俺を見んなよ」

「春樹、大丈夫だよ。変なことしないって」

「その言い方さぁ。ったく、失礼にもほどがあるって。よく飲食で働けたな」

「学生の時に小料理屋でバイトしていたぐらいだけれど」

「それがなんで珈琲?」

「こどもを産む前は珈琲がすごく好きだったから、おいしい豆や淹れ方を研究した」

「紗里ちゃんは、すっごーく、研究とか好きそうだもんな」

 強調された「すごく」は流し、ミルを使って豆を挽く。でも、言われてみればそうかもしれない。おいしいものを食べたくて小学生のときから明(あきら)といろいろ作った。巨大ハンバーグや焼豚、コンロでカツオのたたきを作ろうとして火事になりそうになったのを覚えている。それにしても持ちやすいミルだ。豆が粉になるときの振動がじかに伝わってくる。豆を挽く音が店内に響き、珈琲の香りが広がっていく。

「実際に珈琲を飲むよりも、豆を挽いているときの香りのほうが私は好きかも」

「音がほしいな」

 彼と目があった。

「同じ事を考えていた」

「以心伝心さぁ」

「以心伝心ってこういう使い方? ニュアンスが違うような。ハッピーアイスクリーム? 先に言ったほうがアイスを奢ってもらえるんだよね?」

 声を出して彼は笑った。

「昭和だねぇ。今時そんなことを言うやつがいるとは」

 ケトルが鳴った。コンロの火を消して粉をフィルターに移し、沸騰した湯をかけて蒸らす。45秒を数えてから二人分の珈琲をおとしていく。湯を一度に入れ過ぎないように、遅すぎないように。フィルターの中の粉の様子を注意深く見守りながら、円を描くように湯を垂らした。あともう少し、の一歩手前でドリッパーを外して珈琲に湯を足す。

「薄めている?」

「ちょうど良い濃さにしているの。こうすると豆本来のおいしさだけが味わえる。最後まで落としきるとどうしても雑味や嫌な酸味が出るから」

「薄められているみたいでイヤだな」

「飲んでから決めて」

「出た。負けず嫌い」

 一真のカップをカウンターに置き、一真と春樹の間に座った。もう一度、珈琲の香りをかいでから一口飲む。深く濃い闇に、とん、と入ったような気がした。辺りは暗い。でも、暗いからこそよく見える、というような闇に。

「僕もちょうだい」

 春樹が褐色の液体をのぞき込んできた。

「珈琲だよ。苦いよ。しかも具合が悪い時には絶対、飲まないほうがいい」

「おいしそうなのに」

「今日は特にダメ。もっと元気なときね」

 おい、と一真が大きな声をだし、春樹の身体がびくっと震えた。

「こりゃ、うまいわ」

 ちょうだいちょうだい、と春樹が騒ぐ。

「ちょっと静かにして。味わっているんだから」

「げっ、もうない」

 一真は席を立ち、両手を上げて身体を伸ばした。Tシャツの裾と短パンの間から引き締まった腹筋が見える。 

「やればいいさぁ。珈琲をいれている姿がさまになってた」

「珈琲とブイヤベースは違うよ」

「結局は胃に入るもんだし、同じさぁ」

「店をやるんだよ? そんなに簡単な問題じゃない」

「お母さん、お店をやるの?」

 やらないよ、と春樹へ伝える。

「そうは言っても、本当はやりたいってよくある話さぁ」

 一真がにやにや笑っている。

「お母さん、このお店はくまさんのでしょ」

「そう、くまさんの。お母さんのじゃないよ」

「なら、ブイヤベースの命はここまでか」

 一真は首を大きく動かした店内を眺めた。

「あーあ、良い店だったのになあ。卸していた魚の分、俺も収入が減るなあ」

「私が潰したみたいに言わないで。私だってここに来るのを楽しみにしていたのに」

「来れば俺に会えるからさぁ」

「違う」

 厨房で動いている自分。エプロンをして髪を結って。想像できなくはない。

「少し考えてみればいいさぁ」

 一真がドアへむかい、私は席を立った。反射的に。

「ありがとう、寄ってくれて。心配してくれて」

「俺は大事な新ちゃんが心配で来たんだけれどな」

 顔の温度が三度くらい上がった気がした。

「珈琲、ごちそうさま。まじでおいしかった」

 一真は照りつく陽射しの中をのんびりと歩いていく。白と茶のボス猫と汚い毛並みの猫が数匹、彼の後をついていく。飴をくれるにこにこおばあぁの雑貨店と、肉屋が連なるC棟の間の道にあるバス停で一真は立ち止まった。『ジュゴンを守ろう! 辺野古の闘いへ 往復バス乗車券1000円』とバス停の横に看板が立っている。まさか。新里さんの口から辺野古の話は聞いたことがないし、そもそも政治に関わる話は一回もしたことがない。

「お母さん、怖い顔をしているよ」

「闘いに行きそうな感じ?」

「珈琲飲むとそうなるの?」

 春樹はカップにうっすらと残っていた珈琲を指で舐め、苦い、と顔をしかめた。 


 急な上り坂の途中でダッシュボードの温度計に目をむける。針は真中を指している。沖縄へ来て、中古で軽自動車を買ってから二週間目だった。この坂を登っているときにボンネットから煙を吹いた。毎日、強い陽射しを浴びながら勾配のきつい登り坂を二往復する。中古のエンジンには負担がかかり過ぎたのだろう。買った値段と同じくらいのお金が修理にかかってしまった。

「煙が出たのはこのへんだよね。大丈夫?」

 春樹は身を乗りだし、温度計を確認した。大丈夫そう、と私はアクセルを緩める。坂を下ったら大輔の保育園だ。駐車場に停め、速足で園の玄関をくぐる。大輔は私の姿を認めると勢いよく走りだし、抱きついてきた。

「大ちゃん、赤ちゃんみたい」

 春樹に言われてもクラスの友達にからかわれても大輔は気にしない。えくぼの出る笑みを浮かべて私の胸に頬をつける。今ままでの人生でこんなふうに人から好かれたことがあっただろうか、と迎えに行く度に思う。

「大輔くんのお母さん、ちょっとお話が」

 うさぎ組の友子先生が小声で言った。

「にいにと滑り台してもいい?」

 いいよ、と大輔を床におろしたら、二人は園庭にある滑り台にむかって競うように走っていった。春樹は熱を出して休んだことをすっかり忘れている。

「大輔くんって本当に元気ですよねぇ。給食を食べ終わるのも、毎回一番なんですよ」

 友子先生は恰幅がよく、いかにもベテランの保育士といった感じだ。

「ところでお母さん、同じクラスの子にシラミが発生して、全園児調べたら残念なことに大輔くんにもいたんですよ」

「シラミ、ですか?」 

 白くて小さい虫が猫の体からぴょんぴょん跳ぶ絵が浮かんだ。あれは蚤だったろうか。

「平気、平気。よくあることだから」

「シラミってどうすればいいんですか?」

 はい、と友子先生はシラミ対策・除去法と書かれているプリントを差しだした。

「家族にもすぐうつるから、お母さん、がんばってねぇ」

 プリントを読みながら玄関を出る。シラミ。ふっくらとした腹部、胸部からは足が六本伸び、触覚もついている、羽のない蜂のようだ。男子は髪を五分刈りにすれば簡単に除去できると太字で書いてある。

「春樹、ちょっと来て」

「なあにぃ?」春樹は滑り台の上から大きな声を返した。

「早く来て。調べたいことがあるの」

 滑り台を滑らずに横の山を駆け下りた春樹は鼻と口の間に汗をかいている。

「幼稚園を休んだのに思いきり元気じゃん。まあいいや。ちょっとしゃがんでくれる?」

 春樹の頭のてっぺんの髪をかき分ける。それらしき物はいない。プリントには耳の上の部分に多く生息する、ひどいかゆみを伴うとあった。

「春樹、このへん、かゆい?」

 春樹の髪をさわったら、かゆいかゆいと春樹はぼりぼり掻いた。言われてみれば髪を掻きむしる春樹の姿をここ何日か目にしていた。

 いるんだ、きっと。私にもいるかもしれない。

 自分の髪に小さなシラミがいるところを想像し、途端に頭にかゆみを感じた。

「かゆいなら短く切っちゃおうか? さっぱりするよ」

「嫌だ。切らない」

「そう言うだろうと思った」

「もういい? 大ちゃんと遊びたいんだけれど」

 春樹の両手を持ち、目の高さをあわせる。

「すっごく大事な話。春樹の髪の毛に小さな虫がたくさんついているの」

 春樹は目を大きく見開いた。

「髪を短く切れば退治できるんだって。大ちゃんは今日にでも切りにいくから、すぐにいなくなるよ」

「短くってどのくらい?」

「坊主頭より少し長いくらい」

 春樹の目は震え、みるみるうちに涙がたまる。

「短くしなかったら虫を退治できないの?」

 プリントにはシラミ用のシャンプーを一定期間使い、タオルや枕カバーなどを高温で洗えば除去できるが時間がかかるとあった。

「坊主って一休さんでしょ? 僕はイヤだ」

 春樹はぽろぽろと涙をこぼした。かゆみを感じ、私は両手で頭の後ろを掻いた。

「明兄のところへ行って雅子さんに聞いてみる? もしかしたら髪を切らなくてもいいかも」

 春樹は大きくうなずき、Tシャツの襟のところを持ち上げて涙を拭いた。

「もうちょっと遊んできていい?」

 春樹と大輔、二人の髪にいったい何匹の小さな虫がいるのだろう。強い陽射しを浴びているのに寒気を感じ、私は両腕で自分の身体を抱いた。


 広い玄関には磨かれたばかりの明の革靴と私のサンダルが揃えて置いてあり、埃一つない靴箱の上には漆喰シーサーが一対、飾られている。明の家はいつ来ても整頓されていて、小さいこどもが三人いるとは思えない。私は上がり框に座り、シーサーの顔を見ていた。明の妻である雅子さんが私の後ろに立ち、私の髪をかき分けて根元を調べてくれている。

「大丈夫よ、紗里ちゃんには今のところいないし卵もない」

「さっき、かゆみを感じたのだけれど」

「あるある。花粉症の人って花粉が飛んでいる映像を見ただけでくしゃみとか出るらしいわよ」

「でもシラミって」

「長い髪にいたら大事(おおごと)だからね。友達のこどもは一年中シラミがいるの。飼っていると言ってもいいわね」

「そうなの?」

「アトピー体質の子も使えるシラミ撃退シャンプーを貸してあげる。まだ卵も少ないだろうから、あとはこの櫛で梳いて取るしかないわね」

「さすが雅子さん、いつもありがとう」

「うちのだって何回もシラミにはお世話になったから。沖縄は湿度や気温のせいか多いのよ。それに兄弟も多いでしょう。お昼寝がある保育園でもらってきて家族全員がうつるの」

 八年前に明と雅子さんは沖縄へ移住した。東京に住んでいるときに長女の優美(ゆみ)の喘息がひどくなり、明が沖縄の公務員試験を受け、雅子さんは仕事を辞めた。

 シャワーを浴びてきた明が短パン姿で居間へ入ってきた。坊主頭になった大輔が明の後ろから出てくる。

「かわいい、大ちゃん。似合う似合う」

 雅子さんに言われ、大輔はえくぼを見せた。

「明兄、またお腹に貫禄がついたんじゃない?」

 そうなんだよ、と明がお腹をさする。

「明って元々、顔が濃いでしょう。最近、よくウチナンチュ(沖縄の人)に間違えられるの」

「今日は? 飯喰っていくのか?」

 明はソファへ腰をおろし、テレビのリモコンを手にした。

「今日は帰る。ありがとう」

 玄関の扉を開けたら小学二年生の優美がコンクリートの階段を走ってきた。

「お母さん、春くんってば今日は幼稚園をお休みして紗里ちゃんとレストランへ行ったんだって」

 優美の上気した顔を見つめる。話したくてたまらないというように輝く目。

「でね、くまさんがいなかったんだって」

 優美ちゃん、と呼んだが、言うべき言葉が見つからない。

 なあに? と優美が顔を傾けた。人が言わないでほしいと願っていることに気づこうと思えば気づけるのに気づかないままでいようと決めた、女の子独特の表情だ。

「あのね、お母さん、くまさんっていうのは料理を作る人で」

 できることなら優美の口を両手で押さえたい。

「紗里ちゃんがレストランで作る人になるかもしれないんだって。そしたら優美も行きたいなぁ」

 台所に立っている雅子さんとソファに座っていた明がこちらへ顔をむけた。私は玄関から出て、春樹、とささやき声で、けれどしっかりと怒りを込めて呼んだ。

「なんで優美ちゃんに余計なことを言うの」

「余計って?」

 春樹はこどもらしい素直な目で私を見つめる。

「紗里、ちゃんと話していけよ」

 はい、と背をむけたまま明へ返事をした。


「で、紗里はどうしたんだよ」

 明の家には大人10人が囲める一枚板の大きな机がある。その机のむかっているのは私と明の二人きり。右斜め前に明は座り、オリオンビールの瓶を傾けて自分のグラスに注いだ。明が飲み干してから、私は口を開いた。

「シャッターに本日は臨時休業しますって紙を貼ってきた」

「前のコックとは連絡が取れないんだな?」

「そんなことってあるの? あのシェフ、無責任すぎない? 紗里ちゃんは店を頼まれるほど仲が良かったの?」

 雅子さんは冷蔵庫から野菜を出しては切り、ザルに入れている。

「話はしていたけれど仲が良いっていう感じではなくて」

「何回くらい行ったの?」

 二ヶ月で10回以上、通っていた。平日は一人で行き、休日は子連れで。車で20分はかかる古い市場に。

「3回くらいかな」

「それだけで普通、店を任せるか?」

「でも新里さんに、おいしいスープを作ってみたいと言ったから。あと」

「お料理を作るのが仕事なのに、あの顔中の髭はどうかと思ったわよ」

「まさか紗里、そいつが帰って来るまで店をやろうと思っているんじゃないだろうな」

「紗里ちゃん、こっちの公務員試験を受けるんでしょう。そんなことをしている場合じゃないよね」

「わかってる」

 机の下で左手の親指の爪をひっ掻く。

「一人で店なんて止めろよ。やる意味がない。紗里は一つのことに没頭するから試験勉強が疎かになるのは目に見えている」

「やっと沖縄での生活に慣れてきたんだよね。またママが落ち着かなかったら、春くんや大ちゃんがかわいそう」

「だいたい、自分の店を何回か来ただけの客に任すってなんだよな」

「確かに、おかしい話かも」

「このゴーヤのピクルス、うまいな」

「でしょう。うまく漬かったみたい。スーパーで売っている漬物で添加物を使ってないの、一つもないのよ。一つも」

「雅子はえらいよ。なんでも手作りしてさ」

 明と雅子さんの言葉が流れていく。小さい頃は食べる物や飲む物を誰かが用意してくれる。明の家に来ると、その頃に戻ったみたいに感じる。

「紗里、よく聞けよ。物件を借りて自分好みの店にする。経営が軌道に乗る。そしたら大家が難癖つけて返せといい、お客も含めて丸ごと大家の物にする。ひどいだろ。沖縄は口約束の社会だからこんな話が腐る程あるんだって」

「実際に私のお友達で被害にあった人もいて、今は借金を抱えて大変そうよ」

「コックの新里ってやつも突然帰ってきて難癖をつけてくるかもしれないし」

「一方的にメモを残されてもねぇ」

「新里さんはそういうことをする人じゃないよ。もしかしたら辺野古へ行ったのかもしれないし」

「辺野古? 何のためにだよ」

 グラスを持った明が鋭い視線をむけてくる。

「それはやっぱり、沖縄の人として、するべきことを……」

「辺野古はそんな単純な話じゃない。反対派の中には金のためにやっているプロもいるのを知ってるか」

「そうよ。辺野古に使っている労力を福祉や教育にまわしてほしいっていう声も大きいのよ」

「辺野古とは限らないけれど、店よりも大事なことがあって」

「ねぇ、明、糸満の市場は建替えの話が出ていなかった? 選挙も三ヶ月後よね。もしかしてそれで紗里ちゃんに押しつけたんじゃない?」

「だから、そういう人じゃないって」

 二人は私を見てから目配せをした。明は空のビール瓶を振り、雅子さんが新しい瓶を冷蔵庫から出す。

「いいか、紗里。今まで世話になった人にお礼や挨拶もしない。次に任せる人に引き継ぎもしない。それで店を放り出すのは社会的には無責任だし、なんと思われても仕方ないことだ」

「私も職場の人にちゃんと挨拶したり、引き継ぎでもできなかったし同じだね」

「それは地震とあんな事故があったからだし、お前はこども二人と暮らしていたんだから話は別だろ。しかも一人でやっている店と、大人数で働いている役所と全く違うじゃないか」

 同じのようなものだと思ったが言えなかった。引っ掻いた親指の爪はささくれだっている。

 雅子さんは話していても料理の手は止めていない。夕ご飯を作りながら、明にジーマミー豆腐や麩のチャンプルーといったおつまみを出していく。雅子さんが振りむく度に肩先でカールした髪が軽やかに揺れる。

「今日は優美んちでご飯食べていきたい」

 春樹が私の横に座った。

「今日はうちでご飯だよって約束したよ。それから優美ちゃんは春樹より四つも年が上なんだから、呼び捨てじゃなくて優美ちゃんって呼びなよ」

「えーっ、食べていきたい。お願い、お母さん」

「だから、春樹」

「紗里ちゃん、食べていくもんだと思って多めに作っちゃったわよ」

 やったぁ、と春樹が叫んだ。

「でも、ご飯のあとのテレビはなしだよ。明日は学校や幼稚園があるんだから、食べたらすぐに帰るからね」

 はーい、と大きく返事をして春樹は子供部屋に戻っていった。

「だいぶ春樹くんも聞き分けがよくなってきたわね。今みたいなとき、前はもっと文句を言ってたわよ。我が儘といえば春樹くん、だったけれど」

 雅子さんが皆の分の取り皿を出したので、私は席を立って箸やフォークのセットを机に運んだ。春樹は子供部屋で正座し、優美の呼びかけにはーい、と手を挙げている。優美は三歳の弟、二歳の妹の様子を普段みているからか、小さい子と遊ぶのがうまい。うまく役割分担してごっこ遊びをしている。

「春樹と大輔が優美ちゃん達と楽しく遊んでいるのを見ると、沖縄に来て本当に良かったと思う」

「そうだろう。俺の言う通りにして良かっただろ。いいか、紗里。お前はこども二人を育てる母親なんだ。何を優先して、今自分は何をするべきかを常に考えろよ。家にこもって一人で勉強していたら余計な事を考えるのもわかるけど、あと三ヶ月だからな。紗里は東京の大学を出て経験もあるし、こっちのやつらなんか目じゃないとは思うよ。でも、落ちたらかっこ悪いしな。来年はチャレンジできない歳なんだし」

「わかっている」

「紗里ちゃん、また気分転換に美味しいものを食べにいこうよ。楽しみもないとね」

 雅子さんが中華鍋の中身を大皿に出しながら言った。

「行ってこいよ。俺がこどもの面倒はみておいてやるから」

「明が面倒みるってDVDを見せるだけじゃないの」

「なんだよ、いいだろ」

「雅子さん、手伝うことある?」

「じゃ、もやしをやってくれる?」

 ザルを受けとり、もやしの根を一本ずつ取っていく。わかっている。明は私達の生活を心配している。明がいなかったら私達は今ここにはいない。それはよくわかっている。根を取っても取っても、もやしの山は減ってくれない。初めのうちはそう思う。けれど手を動かし続ければ、あるポイントがくる。そこを過ぎたらみるみる山は小さくなっていく。だからそこまでは、何も考えずに根をちぎり続けたほうがいい。


 明の家から、私達が住む海沿いのマンションまで車で3分とかからない。コンクリート建てで世帯数が多いからマンションと呼ばれているだけで、沖縄風アパートの方が正しい呼び名だ。築二十年、沖縄の強い太陽と海風にさらされて外壁のコンクリートは黒みがかり、ひびが入っているところもある。

 これも持っていけ、これもと明達に持たされた四つの大きなタッパーを冷蔵庫に入れ、ベランダへ出て手すりにもたれた。19時半を過ぎているのに空は明るさを留めている。干潮が近いのか目の前に広がる海の水は少なく、底が透けそうな水色をしていた。明の家からはぎりぎり海が見えない。明の家と比べてうちのほうが良いのはこのベランダからの景色だけかもしれない。

「お母さん、危ないよ。海に落ちちゃったら大変だよ」

 畳にレゴブロックを出しながら春樹が言った。

「大丈夫だって」

 地震が怖くて津波が怖くて避難してきたのに。引っ越して来たばかりの頃、こうしてベランダに立って海を見ながら思った。けれど今は、次の引越しを考えられないくらい、この眺めを気に入っている。海、空、漂う雲。いつも、違う表情をみせてくれる。毎日、みとれてしまう。

 このアパートに住めと決めたのは明だ。私達の父親は私が3歳のときに家を出ていった。アルバムを開かない限り、私は父親の顔を思いだせない。元々共働きで帰宅時間が遅かった母親はさらに忙しくなり、一緒に夕飯を食べたり勉強したり遊んだりしたのは五つ年の差がある明だった。

「お母さん、洗濯物は終わったの?」

 春樹が部屋から叫んでいる。

「ちょっと待って。今から外すところ」

 片手で服を押さえながらピンチを外す。見て見て、と春樹がレゴで作った家のような物を掲げた。

「かっこよくできているねぇ」

 でしょ、と春樹はブロックを付け足していく。

「お母さんさぁ、僕達が遊んでいるとき、明叔父さんに怒られていたでしょ」

「怒られていないよ。話をしていただけ」

 遊びに熱中しているようで、春樹も私を見ていたんだ。あれは、怒られていたというより……。

「くまさんの話をしてたでしょ?」

「そうだけど」

 新里さんは明達が言うような悪い人ではない、と思う。でも、このままだったら店はなくなる。古くて閑散とした市場にある、そこだけ素敵なレストラン。遠くからでもブイヤベースのスープを食べにくる人がいる。

「お母さん、まだなの? 変なシャンプーをするんでしょ」

「ちょっと待って」

 洗濯物を全て取り入れたとき、坊主頭の大輔がベランダに出てきて抱っこぉと手を伸ばしてきた。

「抱っこぉじゃなくて、抱っこしてほしいとか、チューしてほしいって言ってほしいな」

 大輔がチューの口をする。軽く唇をあわせてから大輔の身体を持ちあげた。もうすぐ4歳、20キロになる。10キロの米袋が二つ分の重さだ。大輔が私の腰に足をまわした。そうすると私が軽く感じるのを大輔は知っている。

「海、海が見たい」

 身体の向きをかえて大輔の顔が海の正面をむくようにする。

「海はきれいだねぇ」

 私の口調を真似して大輔が言い、頬を私の胸につけた。短く刈られた髪が首の下に当たってちくちくする。大輔の温かさが私の身体に染み込み、愛しいという感情がわいてくる。父はこのくらいの私を置いていった。そんなこと、私は決してできない。

「いんちき。僕がずっと待っていたのに」

 シャンプーの容器を手に持った春樹が頬をふくらませて立っている。

「いんちきってお母さんの嫌いな言い方。せめて、いいなーって言って」

 沖縄の『いんちき』は東京のそれとはニュアンスが違う。ずるい、偽物というより、羨ましいという意味が強い。

「春樹には寝るときにおでこやってあげるから。先にお風呂に入っていて」

「約束だよ」

 私はうなずき、両手を大輔の尻の下に入れてぽんぽんとたたいた。もし店で働いたら多くの時間を取られる。勉強する時間やこどもと過す時間は減る。父親が側にいなくて寂しい思いをさせているのに。今はこんなに可愛いのに。抱っこだってすぐにできなくなるのに。

 大輔を抱いたまま部屋に戻った。こどもと風呂に入り布団を敷く。洗濯物を畳んで明日の用意を一緒にして絵本を読み、歯磨きと寝かしつけ。雅子さんの料理をご馳走になっていなかったら食器洗いもある。今日からはシラミシャンプーやシラミ取り、シラミ関係のものを熱湯消毒して普段着とは別に洗濯もしなくてはならない。大輔をおろして、大きく息を吐いた。

 二枚のシングル布団をぴったりとつけて畳に敷く。大輔は枕を抱えて眠っている。春樹は自分ようの枕を二つ横に並べ、枕カバーがわりのタオルをかけた。

「お母さん、おでこやって」

 横に座り、春樹の前髪を後ろに流すように額をなぜる。春樹は目を閉じ、柔らかい顔をなる。

「気持ちいい?」

 春樹がほんの少し顎を引く。幼い頃、私も同じようにやってもらった記憶がある。母親がしてくれたのだろう。もしかしたら父親かもしれない。

 春樹の呼吸が落ち着き、眠りに入っていく。目を閉じると年齢よりも幼く見える。雅子さんの言う通り、わがままで心配性でひがみっぽいけれど、でもこの子には私しかいない。

 

 幼稚園の副園長が車のドアを開け、春樹が車の外に出るまで押さえている。

「行きたくない。昨日、お熱があったのに」

「今朝計ったら熱は下がっていたし、昨日あんなに走りまわっていたじゃん」

 春樹はチャイルドシートの上でうつむき、坊主頭の大輔は我関せずと窓の外を眺めている。

 私は女性の副園長と目をあわせた。沖縄の保育園は年中や年長のクラスがないところがほとんどだ。だから5歳になる年、東京でいえば年中から幼稚園へ通う。幼稚園は十四時まで。両親が働いているこどもはそのまま幼稚園で預かりのクラスか、家の近くの学童か、祖父母や親戚の家へ行く。

「春樹くん、いきましょう。絵本の読み聞かせもありますよ」

 副園長が春樹に手をさしだした。

「でも、お熱あったのに」

 春樹の声に涙が混じっている。

「春樹、ニコニコバイバイしよう」

 春樹は上目遣いで私を見た。

「お母さんはニコニコでお別れしたら早くお迎えにきたくなるなぁ」

 わかった、と春樹はつぶやいた。せーのと私が声をかけたら、二人で同時に両手の人差し指を自分の頬に指し、笑顔を作って目をあわせ、バイバイと手を振る。

「じゃあね、今日も一日、楽しんでね」

「早目に迎えに来てよ。5時、やっぱり4時」

「わかった。バイバイ、春樹」

 春樹はのろのろと車から降りた。入園当時、春樹は車から降りなかった。私は泣いている春樹を抱いて車から降ろし、教室まで連れていった。それでも別れられなくて春樹はしがみついてきた。毎日、毎日。お母さんは春樹の泣き顔を見てから別れるのは悲しいよ。大丈夫だから。なにかあったらすぐに迎えにくるから。ニコニコで別れようと、指を頬に指し、笑顔を作ってバイバイした。春樹にも同じように笑顔を作らせ、バイバイのタイミングで必ず別れることにした。

 大輔の保育園へ向かう。バックミラーの端に映る坊主頭の大輔はチャイルドシートにゆったりと背をつけている。大輔は春樹のようには泣かなかった。すぐに担任の先生に慣れ、お母さんバイバイと玄関であっさり別れた。

「大ちゃん、お母さんは世界で一番大ちゃんが可愛いんだけれど、いい?」

「いいよ。一番かっこいいのは、にぃにでしょ」

 バックミラーへ微笑む。空へ、太陽へ、勢いよく伸びる緑の向こうには真青な海が見える。

 

 次の項目を北山文化、東山文化に分類しなさい。

『足利義満、足利義政、能、連歌、茶の湯、水墨画、金閣寺、銀閣寺』

 金閣寺が建立されてから銀閣寺、だろうか。そもそもどちらの文化が時代的に先なのか。なんとなく北が先のような気もするけれど。小学校の社会の資料集に表が載っていたことは覚えているが、書かれていた内容は覚えていない。中学、高校、大学受験、公務員試験、最低四回は暗記したのに覚えていないなんて。参考書を閉じて、沖縄県の過去問題集を手に取った。

 1609年に起きた薩摩藩による琉球侵攻の際、三司官を務め、降伏せず、起請文に署名しなかった罪で処刑されたのは誰か。

『野国総管、謝名利山、尚寧王、羽地朝秀』

 一人として知らない。

 問題集を閉じて机の端に寄せてから台所で湯を沸かした。銀色のコーヒーケトルは底から側面にかけて黒い煤が付いている。磨かなければと思いながら青白いガスの炎を見つめる。水が沸騰していく音が小さく響き、うまい、と言った一真の声を思いだした。冷蔵庫の上に置いた新里さんのファイルを手に取り、ページをめくって仕入れ先一覧を眺める。

 湯が沸き、紅茶のポットを温めて茶葉を入れ、湯を注いだ。タイマーを4分にセットし、携帯を充電器から外す。一真への電話はワンコールもしないうちに繋がった。

「誰?」 

「紗里です。藤丘紗里。ブイヤベースで、昨日話した」

「どこいんの?」

「家だけれど」

「なんの用?」

 一真の低い声は不機嫌なのか、電話ではこういう感じなのか。

「やっぱり新里さんに連絡取ってみようと思ったら、私、新里さんの携帯番号を知らなくて」

「それで」

「新里さんの番号を教えてもらっていい?」

 返事がない。ノートの端に棒人間を描いていく。

「もしよければ一真さんから新里さんにかけてもらって、私の番号を新里さんに教えてもらえると助かるのだけれど」

 棒人間が一人、二人……。

「あのさ、俺が新ちゃんに連絡をとっていないとでも思った?」

 だから不機嫌なのか。重ね塗りされた棒人間がどんどん太くなっていく。

「新ちゃんと、つながったと思う?」

 棒人間は塗りつぶされて細長い丸になる。

「そうか、そうだよね」

 また沈黙。タイマーが鳴り、急いで音を止める。

「切っていい?」

「一真さん、なんか怒っている? 電話ではこれが普通?」

「普通」

「お願いがあるんだけど」

「早く言えよ」

「パン屋の芽衣ちゃんと、あと他に新里さんのことを連絡すべき人がいたら一真さんから連絡してもらえない?」

 三回目の沈黙だった。音楽がほしいと思いながらベランダの向こうに広がる海を見る。薄紫色の海、リーフがある場所に白波が立っている。

「お前、店やんの?」

「だから、やらないって」

「なら、ほっとけばいいさぁ」

「でもそしたら」

 最後まで言い終わらないうちに電話は切れた。紅茶ポットがそのままの状態でキッチン台にある。注いだら、渋そうな濃い茶色になっていた。

 パン屋の知念芽衣。彼女とは店で顔を会わせたことがある。パン屋といっても店を持っているわけではなく、注文販売のパン屋として営業している。赤ちゃんを抱えて一人で焼いているから量を焼けず、ほとんどがブイヤベースの分になると話していた。コール音を聞きながら余計なお世話だろうかと考える。でもせっかく焼いたパンが無駄になってしまったらもったいない。四回、五回目を聞き終わったときに繋がった。

「私、ブイヤベースで会ったことがある藤丘紗里だけど。三月に東京から来た春樹と大輔の母親で、髪の長い。わかる?」

「わかるよぉ。紗里ちゃんだよねぇ」

 ゆったりとした話し方。一真と正反対だ。ショートカットで、ふっくらとした彼女の顔が浮かぶ。

「新里さんが店を閉めてどこかへ行ったの。一昨日か昨日から。心配しているかと思って」

「そうなんだぁ。昨日は配達なかったからなぁ。で、どこへ行ったの?」

「わからない。メモには書いていなくて。パンは準備しちゃった?」 

 ノートにパンの絵を描いていた。食パンに顔をつけたらアニメの食パンマンみたいになった。

「紗里ちゃんはブイヤベースを新里さんに頼まれたの? もしかして、代わりに紗里ちゃんがやるの?」

「昨日、私宛のメモを店で見つけて、とりあえず芽衣ちゃんに知らせたほうがいいと思って」

「紗里ちゃんがやってくれたら嬉しいなぁ。おいしそうにパンもスープも食べていたよね。料理も上手そう」

 遠くでこどもの泣き声がしている。

「赤ちゃん、泣いていない?」

「大丈夫。泣くのが仕事だからねぇ」

「私もこどもがいるし。シェフの経験もないし、できないよ」

「でも、このままお店がなくなっちゃうのは寂しくなぁい?」

 そうだけれど、と食パンマンの横に泣き顔のパンを描いた。

「新里さんのことだから、気が変わって戻ってくるかもねぇ。お店があるのに急にはいなくならないよねぇ」

「そうかも」

 新里さんのメモ、誰もいない厨房。戻ってくる可能性は低いような気がする。

「なにかあったらいつでも電話してねぇ」

 わかった、と電話を切り、ノートを閉じた。ノートの表紙には試験日までの予定表と『公務員になって三人で安定した生活を』と書かれている。既に勉強した箇所にはチェックもしてある。ここまでやれば受かるというラインもわかっていて、二ヶ月間、予定通り勉強してきた。明は俺の妹なら必ず受かると思っている。もしかしたら同僚に、東京から来た妹が今年度の試験を受けると話をしているかもしれない。

 海から風が流れ、ノートや参考書のページがめくれた。何も考えず、正確に暗記して答えればいい。受かれば元のような生活に戻れる。いや、違う。ここには海があって明達も近くに住んでいる。怯えなくていい。怖がらなくていい。人の群れ。水。食べ物。受かれば、元の生活よりも良い生活ができる。

 ノートに室町時代の文化と書いた。試験には出ないかもしれない、試験後にはまた忘れてしまう。でも、これは今日やるべきことだ。


 市場の駐車場には魚屋の名前が書かれた軽トラックと、タイヤがパンクしているセダンだけが停まっていた。

 昼を過ぎて一時に近い。もしかしたらと思ったが、遠目からでもブイヤベースのシャッターは閉まっていた。昨日、私がシャッターに貼った紙が風で揺れている。雑貨店の前の広場ではおじぃとおばぁが缶ビールと缶チューハイを持って赤い顔で話をし、机の下では三匹の猫が寝そべっている。沖縄の言葉でゆんたくと呼ばれる雑談か、既に宴会が始まっているのか。どちらにしても昼間から幸せそうだ。

 ブイヤベースのシャッターを上げ、窓を全開にして風を通した。植物を外に出して水をあげ、しおれかけている葉を濡れたタオルで拭いてたら、目の前に小さなおばぁが立っていた。

「あんた誰ねぇ?」

 おばぁの目に射すくめられた。

「自分の名前もわからんの」

 白髪でおかっぱ頭のおばぁは手に杖を持っていた。腰も大分曲がっている。邪魔だ、というように杖を動かし、ゆっくり歩を進めて店の中に入っていく。

「藤丘紗里と言います。今日はお店はやっていなくて」

 おばぁが振りむき、は? と顔をしかめた。私は音量を上げて同じ言葉を繰り返した。

「聞こえとる。意味がわからん。髭のにぃにはどうしたね」

「ちょっと、ええと、どこかへ」

 おばぁは厨房を覗いている。

「当分、店はお休みするみたいです」

「ここはうちの家さぁ。髭のにぃにへ貸しとる。店を辞めるんだったら返してもらう約束さぁ」

 怪しいおばぁだと思ったら大家だった。そう言えば会ったことがあるような気もする。

「にいにに伝えとけぇ。今週中に店を開けないんだったら返してもらうってなぁ」

「今週中? 今日は木曜日だけれど」

 おばぁは店の入り口まで戻り、ドアに隠れつつ外の様子を窺っている。あの、と声をかけても反応せず、杖をついて雑貨店へ行ってしまった。本当に大家なのだろうか。公設市場ということは糸満市の建物のはずだ。あのおばぁが市から借りて新里さんに貸していた? ファイルに家賃は書かれていたけれど大家についての記述はなかった。

 ため息をついて椅子に座り、買い物客を眺めた。年配の女性が雑貨店の店先で菓子のパックを手にしている。ブイヤベースの隣りの店では誰が着るのかわからない幾何学模様の割烹着みたいな服が風になびいている。あの服はいつから吊るされているのだろう。売れないだろうな。売り上げがなくて、どうやって家賃を払っているのか。いや、市場の店は朝五時から開いているらしいから、早朝は人混みができているのかもしれない。押すな押すなのおばぁ達。いやいや、それはない。まあ、でも、このさびれた市場にいたら、なにもかもどうでもよくなってくる。なんくるない、というのだったか。港と同じだ。人よりも猫が多いからか。昭和の雰囲気だからか。

 今、カウンターに髭の新里さんがいたら。

 突然、レストランをやれって言われて。新里さん、どうすればいい?

 紗里ちゃんはどう思っている? どうしたい?

 新里さんはそう言うかもしれない。本物の熊というよりは絵本に出てくる優しい熊の目で。じっと私の顔を見つめて。

 よいしょっ、と口に出して席を立った。

「珈琲だろ」

 窓のむこうにいる一真と目があった。

「そこでしょっぱいそばを食べてきたから口直しをしたくてさ」

「私が珈琲をいれようと思うタイミングで、ちょうど来るのっておかしくない?」

 真赤なTシャツを着た一真はずかずかと店内に入ってきた。

「ハッピーなんとかって言ってたさぁ」

 今朝の電話のときとは比べられない程の明るい口調で言い、カウンター席に座った。

「珈琲をいれようとは思っていたけれど、なんか腑に落ちない……」

 私がカウンターの中に入り、湯を沸かし、豆を挽いてドリッパーをセットした。挽きたてをハンドドリップでいれた珈琲を飲みだすと、もうこれしか飲めない。生乳の生クリームを食べたら植物油の生クリームをおいしく感じなくなるように。杵つき餅を食べたら餅粉から作った餅では物足りなくなるように。

 自分の珈琲を味見をしてからカップを一真に渡し、壁側のベンチシートに座った。ここなら店の全体が見える。

「旨い。もう缶珈琲は飲めないな」

「私も同じようなことを考えていた」

「だから言ったろ。ハッピーなんとかって」

「それはいいから。ねえ、一真さんはおいしいものが好きなのに、どうしてしょっぱいそばを食べるの?」

「自分で作るのは面倒だし、遠くへ行くのも面倒だし」

「安全でおいしいものを食べて身体をつくったほうがいいと思うけれど。しょっぱいということは塩分も多いし化学調味料もたっぷり入っていそうだし」

 一真は額から短髪の頭へ手を動かした。

「面倒な話はやめよう。せっかくのおいしい珈琲が台無しさぁ。そういえばこれ、おばぁにもらったアーダギーだけれどお前は食べないよな」

 大人の拳より大きいサーターアーダギー、別名砂糖天ぷら。小麦粉と砂糖と卵。ドーナツより密度が高くて食べ応えがある。油と砂糖の塊でかなりカロリーが高い。どこでどんなふうに育てられた鶏が産んだ卵なのだろう。小麦粉は? 油は?

「いらない、かな」

 そう言ったらお腹が鳴った。なんでこのタイミングで、と腹部をさする。

「揚げたてで、しかも黒糖アーダギーだってよ。腹が減っているんだったら我慢しないで食べれば。珈琲にも合うよ」

 一真は笑いながらアーダギーをくれた。甘い香りが漂い、一度目よりも大きくお腹が鳴った。

「ちーむどんどん、ちむどんどん」

「何? その歌」

「ちむは肝。心がどきどきするってことさぁ」

 一真はにやにや笑っている。ここで食べなかったらあまりにやせ我慢だなと思い、小さくかじる。

「うまいだろ? 腹が減ってればなんでもうまいって。いや、おばぁのティーアンダーが肝かな」

「ティーアンダーって?」

「手の油。おばぁの想いがこめられているってことさぁ。で、店は?」

 おばぁのティーアンダー。おばぁが自分の手から油を一雫、二雫と生地に垂らしている姿が浮かぶ。

「聞いてる? アーダギーの研究はいいよ。どうせ作んないだろ」

「たぶん」

「だっからさぁ、ブイヤベースはどうすんだよ」

「ここの大家さんが来たの。突然。小さくて白髪で杖をついていて気が強そうなおばぁ」

「上原のおばぁ。地主だよ。上原一族。だいたいこのへんは大城か上原だな」

「その上原のおばぁが今週中に店を開けないと返してもらうって。新里さんのファイルにそんなことは一言も書いていないし」

「けどやるんだろ。早く開けちゃえば」

「どうして当然のことのように言うの? やらないって言ったじゃん」

「じゃあ、なんでここにいるんだよ」

 それは、と残っていた珈琲を全て飲む。

「今は公務員試験の勉強をしているの。お店を始めたら勉強なんてできなくなる。年齢制限があるから今年しか受けられないのに」

「それがやりたいこと?」

「今までやってきたし、安定した生活ができるし、こどもとも一緒にいられるし」

 青のサマードレスを着た女性が入り口から顔を覗かせた。やっていますか? と彼女は私に尋ねた。

「すみません、今日は臨時休業なんです。またお越しください」

 席を立って答えると、彼女は男性と帰っていった。

「こどもねぇ。こどもはお前と長く一緒にいて楽しいのかねぇ」

 二人が去った方を眺めながら一真は言った。

「どういうこと?」

「長く一緒にいればいいってもんでもないだろ。お前の長男は完全に草食系に育ってるから母親と離れて、ちょうどいいんじゃん」

「そんなことないと思う」

 一真は片方の口の端を上げた。

「依存しているのはお前なんじゃん。こどもがいるから、あれもできない、これもできないって言い訳できるしな」

「子育ての経験がない人に言われたくない」

 一真は鼻をならし、ちょっと出よう、と顎を外にむけてから店を出た。私は鞄を持ち、彼の背中を見失わないように速足で追いかけた。

 市場を抜けてコンビニの横を通り、港へ着いた。店から5分足らずなのに汗ばんでくる。no music,no lifeと書いてある魚船の前で一真は止まった。他の船の名は栄丸、微風、明子と漢字なのに、彼の船だけ横文字だ。彼は繋いである船尾に飛び乗った。板を渡してくれるのかと待っていたが、早く来いよという顔をして彼はこちらを見ている。陸と船の間は一メートルくらいだ。もし落ちたら服は濡れるしコンタクトだし。

「飛べよ」

 からかっているような顔で彼は言った。

「落ちないかな」

 さあ、と彼は外国の人がジェスチャーでやるように両手の平を上にむけて肩をすくめた。

 私は短く息を吐いてから飛んだ。着地したときに船が揺れ、彼が手を出してくれたけれどつかまなかった。

 彼は船の前方部へ歩いていく。首を軽く揺らして曲を口ずさみながら。彼は舵の前に立ち、私は舵の後ろにあるベンチのような椅子に座った。座面が高い位置にあり、足の裏が下に着かないので不安定だ。でも太陽の光が海に反射し、海面がきらきらと光っているのが座ったままで一望できた。他の船のエンジン音も聞こえないし、人のざわつきもない。

「紗里ちゃんはラッキーだな。俺の船に乗れて」

「ちょっと押しつけがましい感じがするけれど」

 一真は鼻先で息をだして笑い、出そうか、と言った。

 等間隔に音が響き、エンジンの揺れが身体全体に伝わってくる。徐々に音が大きくなり、突然、エンジンが唸りを上げて船が走りだした。私は鉄柱を握った。

 船は一気に港を離れて沖まで出た。海だけが広がっている。建物、他の船は視界にない。この辺を運転しているときと同じだ。すぐに何もない場所へ行ける。

 エンジンがアイドリング状態になった。船は海の流れに浮かんでいる。

 そうだ、保育園や幼稚園でこども達になにか起こったら携帯に電話がくる。携帯を開いたら、意外にも電波は三本立っていた。一真は片手でハンドルを持ち、ハミングを続けている。

「なんの曲? 私も音楽が聴きたい」

 一真はちらっとこちらへ視線を流し、あるよ、と荷物置き場を開けて古いMDラジカセを出した。男性ボーカルの声が流れる。ギターとドラム、パーカッション。

「レゲエ?」

 リズムをとっている一真がうなずく。

「ボブ・マーリー?」

「なんでだよ。レゲエといえば、全部ボブさんなのか」

「ボブマーリーしか知らないし。誰?」

「the wailers(ウエイラーズ)。ま、ボブさんもメンバーに入っているけれどな」

「当たっているじゃん」

「出た。負けず嫌い」

「今まで私、負けず嫌いって言われたことないけど」

「俺は女の本質を見抜くのが得意なの。ばあちゃん、母ちゃん、姉ちゃん三人に可愛がられて育ったからな」

「まさか甘えん坊の末っ子長男?」

「残念でした。ちゃんと弟が跡取りでいます」

 弟が跡取りということは彼の実家も漁師なのだろうか。漁師には漁業権がある。彼の実家はどこで、どうして彼はここで漁をしているのだろう。それより問題は新里さんだ。

「新里さん、辺野古にいる可能性はないかな?」

「あるかもな。今からこの船で行ってみよっか」

「行けるの?」

「行けるさ。行こうと思えばどこへでも行ける。お前こそ、行けるのかよ」

 無理だろ、と振り返った一真の目が言っている。

「こどもの迎えがあるから。それに私が辺野古へ行っても」

 唇をすぼめて息を吐きだし、一真は海の方へ顔をむけた。リーフはすぐそこあり、水色と濃い青色との境目が一本の直線のようだ。ここを越えて辺野古へ行く。米軍の兵営があり、ゲート前に座り込みをしている人達がいる。

 新里さん、ブイヤベースに戻ってください。あの店がなくなったら私、困るんです。

 それで戻るなら、最初からメモなど残さないのではないか。

「新里さんは大人だし、無理やり連れ戻すなんてできない。本当に辺野古にいるかもわからないし」

「辺野古の問題についてどれだけ知ってる?」

 彼は顔だけこちらにむけた。

「普通のことぐらい」

「普通ってなんだよ。試験勉強してんだろ」

「ええと、普天間基地は市街にあるから、辺野古に移転すれば宜野湾市民は安心して暮せる。でも、辺野古にはジュゴンがいて大規模な埋め立てをされたら美しい海が汚れ、二度と元の海には戻らない」

「それもあるけどな」

「それもって、あとは?」

「興味のないやつに説明すんのは面倒」  

 彼は再び私に背をむけた。

 波が船にぶつかる音とラジカセから流れるゆるい音楽が合わさっている。

 目をつぶる。一真の姿が消え、船も消える。

 辺野古の問題、新里さんのことも流れていく。波の上に置かれた白い木の椅子。座っているのは私一人。少し揺れて、流され、漂う。ああ、春樹達もいたらいい。

 大丈夫? 津波は? 船は沈まない? きっと春樹は何度も尋ねてくる。

 待って、走らないで大ちゃん。お母さん、抱っこしてぇ。揺れる船の上で坊主頭の大輔を抱いてふらふらになっている自分。

「お前は海が好きだし、音楽もだろ」

 目を閉じたまま、一度うなずく。

「珈琲をいれるのも好きで親バカ。あってるだろ」

 目を開けて一真の横に立った。

「親バカ? まぁそうかも。あと、眠るのも食べるのも沖縄も好き」

「好きなものに対しては妥協しないし、底なし」

「そう。なんか悔しいけれど」

「好きなことだけをやればいいさぁ。嫌いなことや苦手なことはしなくていい」

 陽に焼けた一真の横顔。睫毛がばさばさとかかっている二重の目。意思の強そうな鼻。

「そんなに見つめるなよ。鼻毛とか出ていたらどうすんだよ」

「鼻毛なんて見てないって。一真さんが言ったこと、わかるようなわからないような。例をあげてみて」

「例? 真面目だな。こういうのはフィーリングさぁ」

「わからないまま、流したくないから」

「はいはい。俺は船に乗って漁に出るのが好きだ。伝統、助け合って。ルールは苦手。面倒なのはイヤだし。つまんないことをしていると自分がイヤな人間になっていく。好きなこと、やりたいことだけやっていい。それは全然悪いことじゃない。仕事は生活のために我慢するものって教え込まれているからさぁ。俺達世代は」 

 金を稼いでいるのだから嫌なことがあって当然だ。我慢して続けていれば実力がつき、仕事も楽しくなる。母や明にそう言われてきた。

「自分で店ができるチャンスなんかこの先ないさぁ。勉強は楽しいの? 今までの仕事は楽しかった?」

「他人事だからそんな風に言えるんだって」

 一真は両肩を持ち上げ、下ろした。

「大事なのは、自分がどうしたいかだろ」

「落ち着きたい。しっかりとした仕事、安定した収入、こどもといる時間がほしい。父親がいない分、普通の暮らしをさせてあげたい」

「だから普通ってなんだよ。お前は地震の後、こっちに逃げてきたんだからさぁ。今までと同じ暮らしを求めるのが間違っているんじゃん」

 じゃんじゃかじゃん、間違いじゃん、と彼は歌っている。

「何が間違いなの? 私の行動?」

「誰もそんなこと言っていないじゃん。間違っているのは国のシステムとか、俺達が受けた教育とか。もろもろ。だから日本はこうなっているんじゃん」

 間違いという言葉が頭をめぐる。そんなふうに考えたことはなかった。あの時、空港へ向かうリムジンバスから見た夕焼け、マンション群。日常に紛れて大事なことを考えてこなかったのは……。

「今までの価値観に縛られることはない。もっとみんなが好きなことをやって良い顔をしていたらいいんじゃん。シンプルに。ほら、ボブさんも歌っているさぁ」

「そんな簡単じゃないよ」

 一真が片方の口の端を上げた。

「お前はさっきもそう言った」

「一真さんが言っていることは理想だけれど、でも」

 海からの風を身体に感じていた。家のベランダで受ける風とは違う。もっと身体を通り抜ける感じがする。身体の前面だけではなく、風は私の全てにふれていく。

「入りたければ入れば? 泳げるんだろ」

「海?」

「面倒くさいやつだな」

「水着もないし、そんなつもり」

 ふわっと身体が持ち上がった。

 待って、と言おうとしたときには投げられていた。

 冷たい、と感じたのは一瞬で、すぐに海水になじんだ。手足を動かすと服が身体に張りついてくる。コンタクトは取れていないだろうか。携帯は確か鞄に入れておいたはずだ。服が濡れてどうやって帰ればいいのだろう。人のことを海に投げるなんて洒落にならない。

 オレンジの救命ベストを一真が投げてきた。濡れた服をわずらわしく感じながら、平泳ぎと立ち泳ぎを混ぜて進み、救命ベストに腕を通した。

「気持ちいいだろ」

 一真の言葉を無視して波の揺れに身体を預ける。仰向けになると太陽の光が真上から刺さった。

「俺のお姫様抱っこはどうだった?」

 数秒、一真を睨む。それから地平線へ顔をむけた。あっちは北だろうか。先には何があるのだろう。このまま泳いでいったらどうなるのだろう。その前に、沖縄近海に鮫はいるのだろうか。

「聞いてんのかよ。あんまり流されんなよ」

 くぐもった一真の声が耳に入り、船に上がるときに思いきり手を引張って一真も落とそうと思った。


 ベランダに出ると、右手の空に橙色が混ざってきていた。横に細く広がる雲が空の手前、奥、そのまた奥と三段になっている。海にも薄く橙色が映っている。あぁ、何もしたくない。こうして空と海を眺めていたい。

「お母さん、聞いてる?」

 何も聞いていない。春樹の声も聞こえない。ベランダの手摺に肘をつく。

「ねえ、聞いているってばぁ。夕飯はどうするのさぁ」

 もう、と言いながら春樹がベランダに出てきた。

「見て、春樹。この夕陽を。これだけでお腹いっぱいでしょう」

「いっぱいなわけないじゃん。お腹空いたよ。僕は遊んできているんだよ」

 春樹は手摺の下の枠に足をかけた。

「遊びねえ。いいなぁ。今日は誰と何をして遊んだの?」

「翼さんとサッカーした」

「翼とサッカー。ぴったりだねえ。翼といえばサッカーさぁ」

「お母さん、ちゃんと『さん』を付けて。幼稚園の決まりだよ」

 明のところの優美ちゃんに『ちゃん』も付けないのに。はーるきさん、と私は春樹の背を軽く押した。

「やめてよ。もし僕が落ちちゃったらどうするのさぁ」

「柵より頭が出ていないんだから落ちないよ」

 雲が厚みを増して西へ流れていく。あのあたりは強く風が吹いているのかもしれない。

「ねえ、聞いてる? 翼さんは学童だからつまんない」

「春樹、サッカー好きなの?」

「うん」

「サッカー選手になりたい? プロの」

「プロって何?」

「プロはサッカーの試合をお客さんに見せてお金をもらう人」

「サッカーをやってお金をもらえるの?」

「そう」

「僕はプロになる」

 私は息を吐いて笑った。簡単でいい。

 自分が好きなことだけやっていい。

 一番、好きなことが眠ることだったら? テレビを見ることやゲームをすること、だらだらして何も産み出さないことだったら? 

「僕がお金をもらったら、お母さんは何を買ってほしい?」

「春樹に買ってほしいものねぇ」

 ブイヤベースで働く。古い市場に毎日通って一真や芽衣から仕入れをして料理をする。ごちそうさま、と言ってくれたお客様へ、ありがとうございます、と笑顔で返す。小料理屋で働いていたときの感覚を味わえる。自分の店で。

「お母さん、今日のご飯は本当にないの?」

「たまにはいいかなと思って」

「作ってよ。お腹が空いて眠れないよ。僕が病気になってもいいの?」

「ご飯を一回抜いたところでなんともないって」

 お母さん、と春樹が力なくつぶやく。

「暗くなったらご飯を作ろうよ。僕も手伝うから」

 真剣な顔の春樹。奥二重の目が潤んできている。余計な心配を増やしたら心配性が加速するかもしれない。

「やっぱり作ろうかな。じゃぁ、今すぐは無理だから、もっと暗くなったら作る」

「約束だよ?」

「約束する」

 春樹は笑顔になり、早く暗くならないかなと空を見上げた。

「ねえ、お母さん、何時に暗くなるのかな? あとどのくらいかな?」

「時間が経てば暗くなるから」

 暗くなれ、暗くなれと春樹は空に祈っている。真剣なこどもの顔ってどうしてこんなに愛おしいのだろう。

 ちーむどんどん、ちむどんどん

 一真の陽気な歌声が耳に残っている。春樹と同じように手摺の下の枠に足をかけ、思いきり身体を伸ばした。空の橙色は夜に混ざり、消えつつある。もうすぐ暗くなる。夜は来る。確実に。

「期限を決めるのって、いいかも」

「期限って?」

 ブイヤベースを一ヶ月だけやる。その間に誰かやってくれる人を探す。公務員試験は受ける。ちゃんと予定通り勉強もする。受かりさえすれば明も納得するだろう。ブイヤベースで料理をして、それを夕飯にすればこどもとゆっくりできる時間も作れる。ブイヤベースも潰れないし誰にも迷惑をかけない。

「よし、お母さんは決めた」

 後ろへ思いきりジャンプした。急に身体が軽くなった気がする。海で浮かんでいるときと同じだ。なんでもできる。きっとうまくいく。

「春樹のことを抱っこしたい」

 両手を出すと春樹は飛びついてきた。

「いいことを思いついた。春樹のおかげかも」

 春樹が足を私の腰にかけた。重い。大輔よりも骨ばっているし抱っこには身体のサイズが大き過ぎる。

「ごめん。もう無理」

 ゆっくりと下ろしたら、春樹がにっこり笑った。

「夕ご飯はハンバーグを作ってね」

 今から玉葱を炒めて挽肉を捏ねるなんて絶対に無理だ。

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