こんにゃくゼリーの恋人

紫水街(旧:水尾)

1

 彼女はこんにゃくゼリーが大好きである。


 ここでいう彼女は単なる三人称指示代名詞としての彼女ではなく、所有格が付け加わっている。要するに僕の彼女、つまりは恋人である。くりくりとした目、ぷっくりした頬、くるんとカールした髪の毛。ぷにぷにの手足。つまりはどこもかしこも丸っこくてぷるぷるしている、そんな元気な女の子だ。


「私は遠い空の向こう、惑星プルプルのこんにゃく王国からやってきたので、こんにゃくゼリーを摂取し続けないとこの星にいられなくなってしまうのです」


 こんにゃくゼリーを好む理由をそれとなく尋ねたときの、彼女の返答である。それが冗談に聞こえないほど、彼女はこんにゃくゼリーばかり食べていた。冷蔵庫と冷凍庫には大量のこんにゃくゼリーが詰め込んであり、戸棚の中にもこれまた大量のこんにゃくゼリーがぎっしりと並んでいた。


 そのときの気分によって冷凍されたこんにゃくゼリーを食べるか、ひんやり冷えたこんにゃくゼリーを食べるか、はたまた常温のこんにゃくゼリーを食べるかが決まるのである。電子レンジで加熱してホットこんにゃくゼリーにして食べるときもあった。三回に一回は加熱しすぎて爆発させ、電子レンジの中をこんにゃくゼリーまみれにした。


 彼女の一日三食はこんにゃくゼリーとこんにゃくゼリーとこんにゃくゼリーで構成されていた。どうやら本当にこんにゃくゼリーを摂取しないと生きていけないらしかった。こんにゃくゼリー以外のものを口にしている姿を見たことは一度もなく、つまりおそらく彼女の身体は百パーセントのこんにゃくゼリーでできていた。そのうちの四十パーセントはイチゴ味、三十パーセントはブドウ味、残りはその他の味である。


 ちなみにゼリーは好きだが、こんにゃくはあまり好きではないという。理由を訊ねたところ、彼女は少し困ったような笑みを浮かべてこう言った。


「こんにゃくが嫌いな理由ですか? そうですね……家庭の事情、でしょうか」


 僕はそれ以上の追及を避けた。こんにゃく王国から来たのにこんにゃくが嫌いだということは、きっと何かしらの事情で国を追われたのだろう。何らかの陰謀に巻き込まれたに違いない。ああ何と数奇な人生、と僕は勝手に納得し、勝手に感動していた。


 そんな彼女との生活も、気づけば三年目に突入しようとしていた。僕は寝ている彼女の寝室に忍び込んでこっそりと薬指のサイズを測ったり、貯金残高と今後の収入と支出を書き出していろいろ計算してみたりした。どうやら問題なさそうだった。万事順調、順風満帆であるかに思われた。


 しかし人生の荒波というものはかくも平等に襲いかかってくるものである。禍福は糾える縄の如しという。楽しいことずくめだった彼女との生活の、反動がやってこようとしていた。


 数週間ほど前から、彼女はよく電話をするようになった。しかし、それは決まって向こうからかかってくる。決して彼女からかけることはない。


 電話がかかってくると、彼女はまず消費期限が数年前に切れたこんにゃくゼリーを食べてしまったときのような渋い顔つきになる。そしてたっぷり六コール分は躊躇してから、嫌々ながら受話器をとる。電話は数分間のときも、数十分間に及ぶときもある。声を低めてぼそぼそと話し、そして電話が終わったあと、彼女は決まって更に苦い顔をするのである。まるで買い置きのこんにゃくゼリーが切れているのを発見したときのように。


「嫌な相手なのですか」


 僕はあるとき、そう尋ねてみた。嫌ならば出なければよろしい、そう言おうとしたけど、彼女は諦めたように首を振った。


「そうです。でも出ないわけにはいかないのです、家庭の事情で」


 そして今朝もそうだった。電話のベルが鳴り続けていたが、受話器をとるのを躊躇っていた。やがて諦めたように受話器をとり、そして話し始めた。


 いつもと違うのはそこからだった。いつもなら低めたままの声が、だんだん高くなっていった。彼女の顔が赤く染まり、やがて全身がぷるぷる震え始めた。


 ぷっくりとした頬を真っ赤に染めて、まるで世界中の不条理に対する行き場のない怒りを、余すところなく振動のエネルギーへと変換しているかのようであった。


 僕はこう思った。「イチゴ味のこんにゃくゼリーみたいだ」と。


「何度言ったらわかるんですか」


 僕はソファに座ってテレビを眺めていた。テレビの中では芸人がジェットコースターからパラシュート射出されていた。僕はテレビの音量を上げてみた。けれど番組の内容はちっとも頭に入ってこなかった。できるだけ聞き耳を立てないようにしていても、この狭い家の中では土台無理な話だった。


「そちらの都合で追い出しておきながら、今更帰ってこいとはあまりに身勝手ではありませんか」


 丸聞こえだった。


「嫌です。私は帰りませんからね」


 彼女は高らかに叫んだ。


「結婚なんてまっぴらです!」


 そうして受話器を叩きつけて電話を切ったあと、その場で怒りの残滓に身を任せてぷるぷる震えていた。


 僕は改めて「やっぱりこんにゃくゼリーみたいだ」と思い、それから然るべき手続きを踏んだ。おそるおそる、こう訊いたのである。


「ひょっとして君は、僕と結婚したくないのでしょうか」


 彼女は首をぷるんぷるんと横に振った。


 どうやら結婚したくないわけではないようである。しかし、返ってきたのは予想外の答えであった。


「違います違います。恥ずかしながら、むしろ今すぐにでも結婚したいと思っています」


「そうでしたか」


 僕は安心し、新婚旅行の行き先を考え始めた。ハネムーンなんて言うぐらいだから、月なんてどうだろう。でも近場すぎてつまらない気もする。いっそ、もっともっと遠くの知らない惑星なんかが面白いかもしれない。


「ここ数週間、私がよく電話をしていたのはご存知でしょう。あれは、はるか昔に別れを告げたはずの父からだったのです。私に『さっさと国に戻ってこい、お前にお見合いの話が持ち上がっているのだ』と……」


「それは災難でしたね」


 僕は鹿爪らしく頷いた。


「会ったこともない相手と結婚させるなど、まるで政略結婚ではないですか」


「そうです。政略結婚です」


 彼女は重々しく頷いた。


「あなたという想い人がありながら、どうして今更別の方と結婚などできましょうか」


 政略結婚ということは、彼女はなかなかに高貴な血筋の生まれであるらしい。


 そういえば以前聞いたところによると、彼女が物心ついて間もない頃、彼女の父親はまだ幼い妻と娘を放り出して一方的に離縁を宣言したとか。それ以来、彼女は母親と二人でつつましく穏やかに暮らしてきたという。


 母親が世を去ってのち、彼女は僕の家に身を寄せることとなった。二人はいつしか惹かれ合い、そして今に至るのだ。そんな仕打ちをしておきながら重ね重ねなんと恥知らずな親だ、親の顔が見てみたい、と僕はしばし憤った。


「しかし、どうして今更そんなことを」


「知れたことです。自分の欲望のために一度捨てた私を利用しようとしているに違いありません。あの人の頭の中には欲望と腐ったこんにゃくしか詰まっていないのです」


「なんて奴だ」


「なんて奴でしょう」


 僕と彼女は大いに憤慨し、地団駄を踏んだ。家全体が共振してぷるぷる揺れた。


「さっきは大声を出してしまって申し訳ありませんでした」


 どたばたと地団駄を踏みながら、彼女はぺっこり頭を下げた。


「いいえ、そんな父親、怒鳴られて当然です。次電話がかかってきたらもっと怒鳴っておやりなさい。というわけで罵倒の言葉と、それから実際に会ったときのために下品なジェスチャーをお教えしておきましょう」


「お願いします」


 彼女は嬉しそうに笑った。


 それから僕たちは、相手を口汚く罵る言葉について一緒に練習をした。彼女は大変飲み込みがよく、すぐに中指を立てつつ「ファッ◯ユー」と流暢に発音できるようになっていた。本場のアメリカ人だって、これを見れば怒り狂ってハンバーガーを握り潰してしまうに違いない。


「いいですか、これは己の品位を犠牲にして相手を侮辱する行為です。決して乱用してはいけませんよ。ここぞというときのみ使うことを許します。いいですか」


「はい!」


 彼女は手をぴしりと挙げ、元気よく返事をした。




 彼女が姿を消したのは、それから三日後のことであった。

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