第40話 女神の加護を得たのは
赤い炎が、燃え広がろうとしている。
イザベラの目にはもはや、【包帯公爵】も女神ミュゼリアの加護を得る歌姫の存在も見えていなかった。
彼女が見ているのは、前世の無念。憎悪。悲しみ。
「イザベラ様! こんなことはもうやめて!」
シエラがイザベラに近づこうとするが、それは炎で阻まれる。
このままではまずい。
アルフレッドは、シエラを抱えてその場を離れた。
この森はイザベラの支配下だ。すぐに森全体に炎が回るだろう。
その前に、イザベラを止めなければならない。
(……炎に、シエラまでくれてやるつもりはない)
アルフレッドは拳を握る。額には、汗がにじんでいた。
炎の熱さにやられた訳ではない。
どうしても、炎を見ると身体が反応してしまう。
十年前のあの爆発が、赤い炎に重なるのだ。
「アルフレッド様、きっと大丈夫ですわ」
そっと、シエラが額の汗を拭ってくれた。
目の前の天使の笑みに、アルフレッドの思考も、冷や汗も止まった。
「……あぁ、そうだな。絶対に止めよう、イザベラ王女を」
イザベラはたしかに呪われている。
前世という過去の記憶に。
アルフレッドもシエラに出会うまで、ずっと過去に囚われていた。
だから、イザベラの気持ちは理解できる。
それに、アルフレッドはグリエラに出会っている。
彼女の穏やかで優しい人柄に触れて、好ましく感じていた。
(ラリアーディス様は一体なぜ、グリエラたち魔女をあの森に閉じ込めたんだ……?)
人間と魔女の戦争を終わらせるため? それももちろんあるだろう。
しかし、死ぬまで閉じ込めるのなら、殺したと同じことではないのか。
はなから魔女と共存する気はなかったのだろうか。
イザベラは、最初からグリエラを愛してなどいなかったのだと思っている。
ラリアーディスは本当に裏切ったのだろうか。
グリエラは、愛した彼が最終的に選んだのは、魔女との共存ではなかったのだと絶望していた。
グリエラの記憶を通して見たアルフレッドは、少しの違和感を覚えている。
ラリアーディスは、誠実な男であるよう見えたのだ。
「……わたし、魔女が愛に裏切られて滅んだ、というイザベラ様の言葉をどうしても信じられません。信じたくないだけかもしれませんけれど……」
不満そうな顔で、シエラがぽつりとこぼした。
「どうしてそう思う?」
「だって、魔女を滅ぼそうとしている人に、女神ミュゼリア様が加護を与えるでしょうか? 魔女を殺したといわれているラリアーディス様は、ヴァンゼール王国に女神の加護をもたらしたのですよ」
シエラの言葉に、アルフレッドは衝撃を受けた。
そうだ。ラリアーディスは女神ミュゼリアの加護を得ていた。
だからこそ、魔女を森の中に閉じ込めることができた。
しかし、女神ミュゼリアの加護を得られる人間は限られている上に、魔女を閉じ込められるほどの強い加護を得るためには女神に気に入られなければならない。
本当にラリアーディスが愛を裏切るような男なら、ヴァンゼール王国はもうとっくに女神の加護を失い、滅んでいるだろう。
「……女神ミュゼリアが愛するのは美しい芸術。そして、女神が気に入る最高の芸術には、すべてに“愛”が込められている」
「はい。わたしがアルフレッド様のもとへ来られたのも、アルフレッド様への愛を込めて歌ったからですわ。誰かを破滅させようと思う人間がつくる芸術など、女神ミュゼリア様が気に入るとは思えません」
「つまり、初代国王ラリアーディスに、魔女を滅ぼす意思はなかったということか」
「そうに決まっていますわ。でも、その愛がどういうものなのか、過去を知らないわたしには分かりませんけれど……」
悔しそうに話すシエラを見て、アルフレッドは決めた。
ここまできて、秘密にしておく訳にはいかない。
「実は十年前、私は“呪われし森”で最後の魔女に会っているんだ」
透明人間であることを告白した時と同じように、シエラはアルフレッドの言葉を信じてくれた。
そして、アルフレッドは手短にグリエラのこと、包帯に宿る魔力のこと、グリエラの過去のことを話した。
話が進むにつれ、シエラは涙を堪えるような表情になり、グリエラが愛する人に裏切られた絶望で“呪われし森”となったくだりになると、涙が溢れていた。
「……あの“呪われし森”は、とても悲しい愛によって生まれたのですね」
「そうだな。だが、ラリアーディス様はどうして、愛する人を守れなかったのだろう。私なら、シエラを守るためならどんなことでもする」
「わたしも、アルフレッド様のためなら何も怖くありませんわ。どんなことがあっても、わたしの居場所はアルフレッド様のお側です。絶対に、離れたりしません!」
そう言って、シエラはぎゅっとアルフレッドに抱きついてきた。
アルフレッドはそっとシエラの背に手をあてて、優しく抱きしめる。
「あぁ。私も同じ気持ちだ」
アルフレッドが頷いた時、周囲の木々が炎にのまれた。
この場所も、もう安全ではない。
「シエラ、走るぞ!」
「はいっ!」
ジャケットを脱いでシエラの肩にかける。少しでも、迫りくる炎から守れるように。
しかし、ずっと逃げ続けられるはずがない。
(だが、この炎の中、どうやってイザベラに近づく?)
前世が〈炎の魔女〉というのは嘘ではないのだろう。
イザベラが火種となっているのに、火の粉ひとつ彼女には降りかからない。
アルフレッドが近づけば、容赦なく襲ってくるのは目に見えている。
どうしたものか。
考えているうちにも、炎は広がり、近づいてくる。
「アルフレッド様、先ほどのお話を聞いて思ったことがあります」
「シエラ、グリエラの話をして思ったことがある」
炎から逃げながら同時に言葉を発し、二人は顔を見合わせた。
危機的状況には変わりないが、愛する人が側にいる。それがどれだけ心強いか。
互いに笑みを交わし、先に口を開いたのはアルフレッドだ。
「シエラ。私たちは夫婦で、愛し合っている。だが、だからといって何もかもを理解できる訳ではない。あなたが記憶喪失になったというだけで、私は一時でも離婚という選択肢を考えてしまったぐらいだしな……」
「記憶を失っても、アルフレッド様の側を離れるという選択肢はわたしにはありませんでしたけれど……状況は違いますが、ラリアーディス様とグリエラ様も、互いを想い合うあまり、すれ違ってしまったのかもしれません」
愛し合っていた二人に訪れた、悲しい永遠の別れ。
しかしそれは、裏切りが原因ではないのではないか。
二人は同じ結論を出していた。
「ちゃんと話をしなければ、相手が何を思っているかなんて分からないからな」
「えぇ。相手にとって何が幸せか、なんて他人に推し量れるものではありませんもの」
繋いだ手をぎゅっと握り直し、二人は立ち止まる。
目の前には閉ざされた道。後ろには炎。
逃げ道はもうない。
「シエラ、私を信じてくれるか?」
アルフレッドの問いに、シエラは迷いなく笑顔で頷いた。
「しっかり掴まって」
ふわりとシエラを抱き上げ、アルフレッドは炎に向かって走る。
熱風が肌に触れる。赤く燃え上がる炎がアルフレッドを覆った。
しかし、その炎は熱さを感じさせるだけで、火傷を負わせることも衣服を燃やすこともできなかった。
(やはり、この炎は幻覚か)
これは、一種の賭けだった。
もし本物の炎だったなら、今頃アルフレッドはシエラと共に炎にのまれて死んでいただろう。
腕に抱いたシエラが無事であることを確認し、アルフレッドはほっと息を吐く。
シエラを地面に下ろして、イザベラを見据える。
「イザベラ王女! こんなことをしても、あなたの望みは叶わない」
イザベラの黒髪が、赤い炎と踊るように揺れている。
アルフレッドたちを追い詰めた炎は幻覚だったが、イザベラの周囲で燃えている火は本物だ。
しかし、そこから燃え広がることはない。
彼女は、不完全な魔女だから。
だが、理由はきっとそれだけではない。
「愛する人と結ばれて幸せなお前に何が分かるというの? わたくしは、愛するものも、大切なものも、すべてあの魔女殺しの国――ヴァンゼール王国に、ラリアーディスに奪われたのよ!」
赤い瞳は怒りを宿し、メラメラと炎が燃えていた。
「確かに、私には理解できない。いや、誰もあなたの気持ちを理解することなんてできないだろう。何故なら、私たちは“今”を生きている。過去は変えられないが、未来は自由だ。シエラに出会えて、私はこれからの幸せのために生きたいと思えるようになった。イザベラ王女、あなたの前世はたしかに魔女かもしれない。けれど、今のあなたは人間であり、ロナティア王国の第一王女だ。今は、前世とは違う。あなたの大切な人や場所はここにある。それを、あなたも本当は分かっているんだろう?」
前世の記憶など、本来ならば忘れているはずのもの。
人は、まっさらな記憶で新しい人生をスタートさせる。
きっと、死してなお忘れられないほどに、ベラの想いは強かったのだろう。
だからこそ、アルフレッドは怒りが湧いてくる。
こんなことをするために、前世の記憶を持って生まれ変わったのか。
もっと別の願いがあるのではないか。
アルフレッドはそう信じたかった。
しかし、シエラに出会っていなければ、こんな風に考えることはなかっただろう。
絶望と怒りが復讐を求める気持ちなら、痛いほどによく知っているから。
震えるアルフレッドの手を、シエラがきゅっと優しく握る。
未来に希望を見出してくれた、愛しい存在が。
シエラと目を合わせ、頷いた。
「それでも前世にこだわってこんなことをしたのは、本当は復讐のためではないはずだ。あなたはただ、大切な親友と仲直りがしたかっただけだろう?」
その言葉で、イザベラの周囲の炎が一瞬にして消えた。
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