髪の毛

千里温男

第1話

 ぼくはだんだん人付き合いが苦手になって、高校二年の夏休みになると、ほとんど外出しなくなった。

母は何故かぼくが家にいるのを嫌って、

「またぼんやりして」

とか

「アルバイトでもして、自分の小遣いくらい稼ぎなさい」

とか、口うるさかった。

 それで釣りに行くことにした。

釣りが好きなわけではなかった。

けれど、ひとりっきりで同じ場所に長時間ぼんやりしていても誰にも怪しまれないのは、たぶん釣りくらいなものだろうと思いついたからだ。

 となり町のはずれの里山の麓にぼくが通う高校の校庭くらいの池があった。

池は四方を森と言っていいほどの木立と腰ほどの高さの雑草に囲まれて薄暗くひっそりとしていた。

竜が上ったという言い伝えもあって、それなりに神秘的で不気味な雰囲気も感じないわけでもなかった。

南の岸に古びた神社があって、そこから水面に壊れた桟橋が十メートルくらい伸びていた。

廃屋のような神社と桟橋の残骸が池とその周囲をいっそう陰気にしていた。

池の縁のぐるりには、雑草や灌木が水面に垂れ下がるようにして茂っていた。

あたりに動くものの姿は見あたらず、時折り聞える鳥の声が、かえって静かさを増していた。

 神社とは反対側の岸に腰をおろして、餌を付けていない釣り糸を垂らした。

魚を釣るのが目的ではなかった。

ただ時間をやり過ごしたいだけだった。

ぼんやり、太公望も人付き合いが苦手だったのではないかしら、などと想像したりしていた。

 ふと気がつくと、向こう側の桟橋から数メートル離れた岸に女性の上半身が見えた。

雑草で腰から下が見えなかったせいか、なんとなく薄気味悪かった。

心の中で『三千代さんだ』とつぶやいた。

三千代さんは近所の雑貨屋の若奥さんだ。

三、四年前に嫁いで来て以来、美人と評判の人だ。

 母にお使いを言いつけられて、何度か三千代さんの店に行ったことがある。

お釣りを受け取る時、三千代さんの手がぼくの手に触れたので、顔が赤くなってしまったことがある。

あの時より、ずいぶん髪の毛が長くなっていた。

 どうして三千代さんがこんな所にいるのだろうと不審に思って見つめていると、目が合ってしまった。

ぼくは、さりげないふうで、浮きに視線を移した。

それでも、こっそり窺っていると、三千代さんが池の縁に沿って歩き出した。

ぼくに向かって歩き出したような気がした。

何回も釣り竿を上げたり餌を付け替えたりするふりをしていた。

そうしながら、ちらちらと三千代さんを盗み見た。

相変わらず腰から下は雑草に隠れて見えず、長い髪の毛と上半身だけがふわふわと近づいて来るのであった。

 とうとう、三千代さんがすぐ右横に来た。

三千代さんのにおいがした。

振り向くと、ちゃんと脚はあった。

間近にみる薄いストッキングに包まれたふくらはぎが猥褻なくらいなまめかしくて、ドキンとした。

ぼくは、見てはいけないものを見てしまったような気がして、慌てて水面に目をやった。

 しゃがんだのか尻をおろしたのか、右耳のすぐ近くで三千代さんの声がした。

「釣れる?」

「ぜんぜん」

ぼくは、三千代さんなんか意識していないというように、素っ気なく答えた。

 突然、背中を突かれた。

ぼくは

「わっ」

と声をあげながら、咄嗟に体を反転させて草に腹ばいになった。

そして、夢中で両手にしっかり草をつかんだ。

「くっくっくっ」

という低い笑い声を聞いたような気がする。

 ぼくは池の縁から離れた所まで這って行って、三千代さんを振り返った。

そうしないではいられないほどの恐怖を感じたのである。

突き落とすつもりだったなら、なぜもっと強く突かなかったのだろう…

けれども、冗談にしては、力が強すぎたような気もする…

 三千代さんはもう仰向けに寝転んでいた。

「川田くんも寝ころびなさい」

と雑草の地面をぽんぽんとたたいた。

ぼくはたった今の恐怖を忘れて、三千代さんのすぐ傍に寝転んだ。

また、三千代さんのにおいがした。

心臓がドキドキして、三千代さんに聞こえるのではないかと思うと、ますますドキドキした。

 「川田くん、ガールフレンドいる?」

「…いいえ…いません…」

「ふうん、見かけほどもてないのねえ」

それっきり、三千代さんはずうっと黙って寝転んでいる。

なんだか池の底に沈んでいるみたいに、じっと動かなかった。

やっと、三千代さんがつぶやくように言った。

「じゃあ、女の子とキスしたことないわね」

返事を期待しているような言い方ではなかった。

ぼくも『いいえ、ありません』と口の中だけで答えた。

また、不安なくらいな静寂…

 ぼくは三千代さんの様子をうかがった。

重ねた両てのひらを枕にして仰向けに寝転んでいる。

全く無防備だ。

キスするなら今だ、と思った。

~のしかかって、あのままの位置で左右の手を押さえて、唇にキスする~

そんな妄想を頭の中で繰り返していた。

どれくらい立ったのだろう、三千代さんの声に、はっ、と妄想から醒めた。

「つまらない子」

決して大きな声ではなかったのに、妙にはっきり聞き取れた。

 三千代さんは、起き上がり、池の縁に行って足を垂らした。

ぼくも上半身を起こした。

けれど、三千代さんには近寄らずに、

「どうして、髪の毛を伸ばしたんですか?」

と訊いた。

失礼な質問だと思ったのか、三千代さんは答えなかった。

 しばらくしてから、

「この池、水深が十二メートルもあるそうよ。一度沈んだら、水底の藻と髪が絡み合って二度と浮かび上がって来られないそうよ」

と、独り言のように言った。

ぼくはどうしてそんな不吉なことを言うのだろうと不審に思った。

けれども、それは口には出さなかった。

また、何時間も過ぎて行くような沈黙が続いた。

その間ずっと、水底で数千匹の蛇のような藻に髪の毛の一本一本に絡みつかれて逃れようとしてもがいている三千代さんの姿が浮かんでしかたなかった。

 やがて、三千代さんが背を向けたまま、

「ここでわたしに遭ったこと、決して誰にも言わないでちょうだい」

と言った。

ぼくは誰にも言わないと約束した。

「もし喋ったら、この池の底に引きずり込んであげる」

三千代さんは病人のうわ言のように言った。

 ぼくは三千代さんに

「もう、帰りましょう」

と促した。

なぜか、早く帰った方がよさそうな気持ちになっていた。

 ふたりでぼくの自転車が置いてある所まで戻った。

「お姉さんの自転車は?」

「わたし、歩いて来たわ」

ぼくは、ぞっ、とした。

自転車でさえ、ここまで一時間くらいかかるのだ。

三千代さんが、二度と帰らないつもりで、池に来たような気がした。

そうとしか思えなかった。

 「はやく乗って!」

ぼくは、自転車にまたがると片手でハンドルを持ち、もう一方の手で三千代さんの手を引っ張って後ろに乗るよう急き立てた。

三千代さんは後ろからぼくの体に腕を回した。

背中にオッパイの弾力を感じた。

初めての感触に、一瞬、うろたえた。

けれど、今はそれどころではない、一生懸命ペダルをこいだ。

 「とめて!」

人家の見える所まで来ると、三千代さんが断固とした口調で命じた。

ぼくは『送りたい』と言ったけれど、三千代さんは『一緒にいるところを見られたくない』と言い張った。

そして、ひとりで自宅のある方角へ歩いて行ってしまった。

ぼくは、三千代さんの後ろ姿の長い髪の毛を見送りながら、やっぱり一緒に行かない方がいいのだと思った。

ふいに、『つまらない子』といわれたことを思い出した。

あの妄想を見抜かれていたのだろうか?

わけもなく回り道をして帰った。

 一週間くらい経って、三千代さんが行方不明という噂が聞えて来た。


まさかとは想ったけれど、でも、あの時の三千代さんの『引きずり込んであげる』という言葉がとても気になった。

『突き落とす』ではなく、『引きずり込む』と言ったのだ。

約束を守るべきか喋るべきか、ぼくなりに迷った。

やっぱり人命にかかわることだと判断した。

 三千代さんに池のほとりで遭ったことを書いた手紙を、あの雑貨屋のポストにこっそり入れた。

匿名のパソコンで作成した手紙だったから、誰も信用しなかったのに違いない。

池の捜索は行われなかった。

(おわり)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

髪の毛 千里温男 @itsme

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る