第1話 ザクロ館 その七
いったい、何段おりただろう?
なんだか、予想以上に階段が長い。
妙な感覚に龍郎は襲われていた。
この感じ、どこかで経験したことがある。
なんとなく、空間がチューインガムのように伸びていくような、現実に存在する場所から、しだいに非現実のなかへ引きこまれていくような。ふわふわと夢のなかを歩いているような。
不安な気持ちで、その感覚をどこで経験したのか考えていた龍郎は、ハッと思いあたった。
あの場所だ。
青蘭をさらわれた、まさにそのとき。
楽園のような温泉街のなかで、とつぜん、異界に誘いこまれてしまった。
あのときと、まったく同じ感覚。
(まさか、もう、始まってる?)
だが、そう思ったとき、足が平坦な床をふんだ。どうやら階段をおりきったらしい。そして、近くでパチリと音がして、電気がついた。
「ほら、ここがワインセラーだよ」
冬真が壁のスイッチに手をかけている。
そこは細い廊下だ。
コンクリ打ちっぱなしのよくある地下室。廊下の片側の壁のドアがひらかれていて、なかから冷んやりとした空気が流れている。のぞくと、何十本ものワインのボトルが専用の棚に保管されていた。壁に温度計がついていて、つねに適温が保たれているらしい。
どうということのない、ごくありふれたワインの貯蔵室だ。どこにも異常はないし、ましてや、異世界に通じてるふうもない。
清美をチラリと流し見ると、あわてたようすで首をふった。細かい部分はわからないという意味か、あるいは、この場所ではないということか。
(そう言えば、さっき、奥に書斎があるとか言ってたな)
さっき、冬真がそう言っていた。たしかに、廊下はまだ奥に続いている。
階段と廊下の伸びる方向から言って、ワイン貯蔵室は屋敷の建物の下だが、その廊下のさきは中庭の下にあたるのではないかと思う。
「冬真。この奥が書斎?」
「ああ。書斎と言っても、父がパソコンを持ちこんで仕事するだけだから、なんにもないよ。机と椅子が置いてあるだけ。気を散らすものがなくて集中できるんだってさ」
「そっちも行ってみよう」
「あ、ああ……」
冬真は一瞬、顔をしかめた。
あまり、そっちには行きたくないようなそぶりだ。
今度は龍郎が先頭になって歩いていく。貯蔵室のドアをあけっぱなしにしてきたので、廊下には光がもれている。ほんの四、五メートル歩いていくと、真正面にドアがあった。なんだか重々しい鉄の扉だ。
そのドアの前に立ったとき、龍郎は背筋がゾクリとするのを感じた。
ドアの内側から、黒い邪気がほむらのように滲みだしているかのような錯覚に落ちた。
(なんだ? この圧迫感。でも、これでまちがいはない。魔界に通じているとしたら、このドアの向こうだ)
龍郎は思いきって、ドアノブをまわした。重い扉を押しあける——
だが、壁のスイッチを見つけ、電気が点灯したとき、そこにあったのは、六畳ほどのコンクリートの箱にすぎなかった。冬真の言ったとおり、かなり大きめのデスクと椅子が一つずつ置かれているだけだ。書棚さえない。書斎と言うよりは、完全なる仕事部屋だ。
まあ、邪魔は入らないし、防音もきいて、仕事ははかどるだろうなと、龍郎はガッカリしながら考えた。
「何もないな。わかったよ。上に——」
あがろうと言おうとしたときだ。とつぜん、電気が消えた。また停電だ。
すると、暗闇のなかで、誰かが龍郎のほうに倒れてきた。あわてて抱きとめたが、清美ではない。身長がそこそこあるから、青蘭か冬真だ。
たぶん、冬真だろう。
食堂のときのように、仮死状態になったのだ。
「おい。冬真。大丈夫か?」
声をかけるが返事がない。
かわりに清美のわめき声が応えた。「ぎゃあ、怖い。なんにも見えない。お母さーん」などと叫んでいる。あれくらい大声が出せれば問題はない。
「青蘭? 青蘭はどこだ?」
冬真にひっついていたはずだ。冬真が倒れてしまったから、心細い思いをしているだろう。
龍郎は冬真を床に置こうとした。が、その手が途中で止まる。
(違う。冬真じゃない)
この匂い。
それに、肌のなめらかさ。
青蘭だ。
愛しあい、肌をかさねた人だ。
姿が見えなくてもわかる。
「青蘭? どうしたの? 気分が悪いの?」
そっと耳元にささやくと、かぼそい青蘭の声が聞こえる。
「わたしは、ほんとのわたしじゃないの」
「青蘭? 青蘭なんだろ?」
「ほんとのわたしは、もうすぐ死ぬの」
「どういうことなんだ? 青蘭?」
「もうすぐ……だから」
「えっ? 何?」
「祭が始まる」
青蘭の声がとだえた。
龍郎はあわてて、青蘭を抱きしめる。
「青蘭。大丈夫か? どうしたらいいんだ? 青蘭?」
急に視界が明るくなってきた。
青蘭の比類ない美貌が目の前にあった。青蘭は泣きそうな顔で龍郎を見つめている。
「助け……て、龍郎さん……」
「青蘭!」
やっぱり、これは青蘭だ。
龍郎のことを忘れたわけじゃない。忘れたとしても、それは表面的なことだ。記憶の奥底では覚えていて、龍郎の助けを待っている。
青蘭の姿がゆらいだように見えた。
よく見ると、青蘭が首にかけているペンダントが淡く光っている。青白い光が、しだいに強くなる。
光のせいで目があけていられない。
しだいに、意識も遠くなっていく。
気を失う直前、龍郎はまた、あの感覚に落ちた。現実が間延びして、非現実のなかに飲みこまれていくような、あの感覚に……。
了
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