第34話 佐恵子と友美と朔郎

 やっと踏ん切りが付いた頃に佐恵子から「お世話になったかおりの事でお礼が言いたい」と誘いの電話が掛かった。

 とりあえず場所はこの前に有美子と会った喫茶店『篝火』を指定して来た。

 朔郎が来店するとマスターは三つ並んだテーブル席の一番奥に奨めた。彼は空いているカウンター席をチラッと眺めてから座った。座るとマスターは「すぐに来ますから」と佐恵子の遅延を知らせた。


 そう云う事を仲介してもらえるほど此処のマスターとは懇意になっていると云うことなのか。思案に暮れる朔郎は最近また始めた煙草を取り出すと、前の壁には禁煙のステッカーが丁度眼の高さに貼り付けてあった。慌てて煙草を仕舞ってから手持ち無沙汰に窓の外を眺めた。センス良く着こなしている感じの良い女が歩いている、連れの女はヤンキーぽかった。妙な組み合わせだと見ていると真っ直ぐこの店に来た。そこでハットして見るとその一人は佐恵子だった。そうするともう一人は妹の確か友美とか云う展示会場に一緒に来た子だった。

 佐恵子は妹の友美を連れて入って来た。

 この前の写真展もそうだが何故いつも二人で来るんだろう。正幸への言い訳に妹を連れて来るのか。それじゃまだあの夫婦は相手の出方を探り合う冷戦状態にあるのか。

 友美はこの前と違って顔が合うと向こうから笑顔で挨拶してきた。朔郎も慌てて笑い返した。

 二人は着席するとマスターにはコーヒーの注文と合わせて妹も紹介した。ふたりを見比べたマスターの可怪おかしな顔付きに「末っ子なんです。間に兄弟はまだ三人いるんです」とすぐに反応した。

「そうでしたか、兄弟が多いとさぞ賑やかだったでしょう」

「もうケンカばっかりして弟達をいつも泣かしていました」

「友美! マスターが本気にするじゃないの」

 マスターは「分かってますよ、そんな人じゃないことは」と云う顔をして中へ戻った。

「私が言っても誰も信じてくれないんだから、お姉さんは得な性格ね」

「友美、あなた何を言いに来たの」

 佐恵子は妹をとがめるが口調は穏やかでその眸は笑っていた。

 朔郎には佐恵子の今の眸が挫折しかけた自分を幾度となく蘇らせたことか。彼は眼をしかめながらも当時を想い出して口元を緩めてしまった。

「此処のマスターとはかなりの馴染みなんだなあ」

「ええ、そうよ。京都へ来てから最初に有美子と利用してから気に入ってるの。とくにマスターが人当たりが良くって。それでこの店を利用するようになったの」

 二人だけの秘密の場所だったのか、それにしても朔郎は佐恵子への感情をあらわにした前回の有美子を想像すると何処まで仲が良いのか疑った。その表情の変化を佐恵子は捉えた。

「有美ちゃんの事で何か気になることでもあったの? この前は病院で有美ちゃんの連絡先を聞いたから会ったのでしょう」

「会った事は会ったが、別に何も変わったことはなかった」

 佐恵子の表情はこの言葉を鵜呑みにしていない様子だった。それでも大した事は無かったと瀬踏みしているからひと息付けた。

「ところで正幸はどうしてるんだ」

「良く頑張ってくれているわ。その分、残業とか出張が多いけど……」

夫婦の間になんとなく乾いた空気が感じられた。そう思ったのは俺だけか、妹は平然としていた。

「本当に、家を買ってからお義兄さんすごいのよ」

 友美が補足した。

「帰りが遅いから家にいても仕方ないからあたしも働きに出たのよ」

 佐恵子は共働きを弁解がましく言った。朔郎の持論は妻に対して、家事に専念するか仕事を持つかに拘らないのを知っているはずなのに、弁明した愚かさを感じずにはいられなかった。

 お互いに何をしょうとそんな事より、相手にとって何が大切なのかを想う事の方が大事なんだと朔郎は常に言っていた。『信じる事が二人の存在の証しだ』と言った彼の言葉が今では地中深く埋もれて、誰かの発掘を待つ化石の様な存在になっていた。その言葉を風化させたのは彼なのかそれとも佐恵子自身なのか……。

「北山のブティック、店のオーナーから任されたぐらいだから信用されているんだねぇ」

「長いだけよ」

「そう、お姉さん凄いのよ、始めの頃はかおりちゃんを保育園まで送り迎えしていたんだから」

「それじゃ正幸は何をしてたんだ」

 朔郎は非難めいた言い方をした。

「私が好きでやってるんですから良いんです。それよりかおりの事では改めてお礼を言いますこれは正幸も同じで感謝しているから」

「それより船に乗った事があるんですね。漁船ってどんな事をするんですか」

 急に友美が割り込んで訊いて来た。諦めたように佐恵子は話を中断した。

 遠洋漁業の話が聞けると云う口実で妹は付いて来たらしい。それがいつまで待っても話題が変わらないのに妹は業を煮やした。

 トロール船は毎日一定の漁場を行き来して魚を捕獲する苦労話を朔郎は始めた。

「ずっと海の上にいるんですか?」

「燃料や食料が無くなるまでね」

「無くなれば?」

「母船からの洋上補給かアラスカへ補給に寄るんですよ。補給が済むまで町中で遊べる。それが唯一の船員の楽しみなんですよ。だから無理してアンカレッジへ寄港する事もあるらしい」

「アンカレッジ ?」

 友美が身を乗り出した。

 ーーアンカレッジはアラスカ州の州都ジュノーを上回るアラスカ州最大の都市で州の人口の半分はこの都市近郊に集中していた。ただベーリング海からは遠く北太平洋のカナダ寄りに有った。だからベーリング海で操業する漁船には余計な燃料と日にちが掛かった。それでも無理して寄港するのはひとえに乗組員の辛い労働からの解放と保養に有った。



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