第33話 朔郎は堀川と新居を考える
彼は鴨川の欄干に頬杖をして遠くの山並みへと視線を移した。この十七年間で川沿いを走っていた電車は地下に消えた。ビルも増えたが規制で高いビルはないから眺めは変わらなかった。
マスターの見込みどおりと云うか、永平寺の座禅が利いているのか朔郎の気持ちは覚めていた。正幸の遠い裏切りより今を彷徨う佐恵子の方が気掛かりだった。いったい佐恵子は何を考えている、何を求めているのだろう。
正幸への恨み、憎しみはまだ残っていた。いや一生消えないが、彼はこの街に居るのに疲れた。彼はこの街に長居することなく近くの駅から電車に乗った。電車は夜の闇に溶け込むように、途中停車した駅名も分からないぐらい大阪へ走り続けた。終点の淀屋橋からどう行ったかまったく記憶にないままアパートへ帰った。
彼はそのまま自宅に戻ると倒れ込むように自室に転がりそのまま寝込んだ。
どれぐらい寝たか分からないまま電話のベルで起こされた。だがすでに陽はかなり昇っていた。電話は綾子からだった。
「さっきから電話していたのに何処へ行っていたのですか」
彼女の口調は荒かった。無理もない今日は会う約束をしていたからだ。場所まで決めなくて良かったと彼はホッとした。
「ゴメン、寝ていた」
「福井から戻ったら連絡してくれる約束だったでしょう。ずっと電話を待ってたのに、もう何時だと思ってるの」
窓から外をよく見れば陽は真上近くに有った。朔郎は急いで梅田近くの喫茶店で落ち合う約束を取り付けてアパートを出た。
彼の足取りは重く、いつもの駅までの道のりがやけに長かった。今日ほどエスカレーターが有り難かった。まだ疲れは残っていて電車の単調な揺れが自然と眠りを誘った。
昨夜はすぐに布団に寝入ったが途中に目が覚めてしまった。そこからは正幸の裏切りのショックが尾を引いたのか眠りは浅くなった。そのウツラウツラの状態で明け方近くになってやっと深い眠りに落ちた。
綾子に電話で起こされた時は昨日の採血が堪えたのか、起きるとすぐに頭がふらつき正幸の恨みはいっとき吹っ飛んでいた。
いったいどれぐらいの血を抜いたのだろう。ベットで眠るかおりの顔が朧気に浮かんで来た。心地良い睡魔もほとんどの乗客が入れ替わって仕舞う梅田駅の混雑で現実に戻された。お陰で足取りは確かになり苦も無く約束の店にたどり着けた。
だが扉を開けて綾子を見付けるとホッとした勢いからまた足が重くなった。彼は努めて軽い足取りを装った。
「顔色が悪いわねえ」
席に付くなり見破られた。
「良くそれで永平寺で座禅の修行が出来たわねぇ」
「多分、それで疲れたのだろう」
「たった一日なのにそんなに厳しい修行なの」
「それゃあ禅宗の厳しいお寺ですからね……。まあいいやその事はそれより福井から帰ったら話があるって言ってなかったっけ」
「言ったわよ」
「何の話?」
綾子は顔が強張った。それでいてちょっと身を引いたように身構えながらもそれでいてソワソワしている。要するにとりとめがないんだ。それを押し出すように言った。
「そろそろ二人の事を考えてみたいの」
「それって一緒になるって事」
彼女は頷いた。
「あなたも前から考えていたんでしょう」
「考えてはいたんだが、今は失業中だし、仕事が見つからないと生計も立てられない」
「子供が出来るまでわたし働くから」
「結婚するには金が要るなあ」
「式を挙げなくていいの、住むとこだけ考えて」
入籍だけでいいと結婚式を否定した彼女の眸は無理に笑っているようだった。それを観て朔郎の胸がいたんだ。
「住むとこは?」
「あたしのはワンルームだしあなたの所は2DKでいいんでしょうけど、別れた前の奥さんが住んでいた所はイヤなの。ねえ、ふたりで新しい所を探しましょう」
いつから綾子はこんなに具体的なところまで考えていたのだろう。それに引き替えて俺は漠然とした物しかなかった。
「分かった、そうするか」
綾子は用意していた住宅情報誌を出して幾つかの物件を示した。朔郎は一瞬、マジ? かと呆気に取られたがここで動揺は禁物、すぐに気持ちを切り替えた。彼女の示した物件にその都度に意見を述べて最終的に二人の意見が合った物件をこれから見に行く事になってしまった。
地下鉄御堂筋線の東三国駅から淀川の方へ十分ほど歩いた川縁のマンションが気に入った。彼女はその日のうちに賃貸契約を済ませてしまった。綾子のこの電光石火の早業に朔郎は為す術もなく見事に振り回された。
朔郎は荷造りの為に自分のアパートに戻ったが一人になりたい為の口実に過ぎなかった。部屋へ戻ると仰向けに寝転んだ。目まぐるしく変わったこの一週間はいったいどうなっているのだ。彼は両手を頭の後ろに組んで天井を眺めていた。そこで急に掛かって来た電話で飛び起きた。電話は狭山からだった。
「今さっき堀川から聞いたが、来週の日曜から一緒に住むんだって」
もう現実に頭が付いて行けなかった。急に自分の予想より凄い早さで物事が回っているのに戸惑いを通り越してしまっていた。
「そうなんだけど」
「嫌なんか!」
「いや、そうじゃない」
朔郎は強く否定した。
「じゃあええやないか」
「そうだけど。急なんで頭が付いていかないだけさ」
電話の向こうで狭山は笑っていた。笑い終えると狭山は意外な事を言い出した。
「この前に来た時には堀川が北山のブティックでかおりちゃんと佐恵子さんに会った話はしただろう、それでお前が福井へ言ってる間に多恵とまた会って、堀川の気持ちを確認した上で一緒に暮らしているという既成事実を作り相手に付け入る隙を与えない、諦めさせる事が肝要と多恵が意見した。堀川は早速それを実行に移しただけだ」
「狭山、それをなんでもっとはように行ってくれないんや、そしたら心の準備が出来ていたのに」
「北村、お前の場合は考えると結論を先延ばすするから知らせなかった、悪く思うな俺の親心と思え」
「しかしなあこれは人生の大きな節目になるからなあ、物を深く考えるのは当然だろう」
狭山は突然電話口で声を上げた。
「北村! 佐恵子さんの性格をよく考えろ。彼女の性格はお前が一番良く知っているはずだ。彼女は利かん気が強く意地になるところがあるやろ。彼女と
狭山の電話はこの後は一方的な忠告ばかりが続いて終わった。
朔郎は窓を開けて陽がとっぷりと暮れた空を見た。何処までも闇が続いていた。あれほど暑かった日々が嘘の様に今は長く風に吹かれると寒さを覚えて窓を閉めた。部屋には佐恵子と買いそろえた家具がまだ残っていた。タンスの引き出しは半分しか使っていないし、食器棚は全く使っていなかった。決して想い出として残したつもりもなかった。処分するのが面倒なだけだった。一週間でこの部屋のすべてを片付ける。途方もない遠大な計画に彼は気が滅入って仕舞った。
ーー確かに狭山の言うとおりだ。気まぐれな女と信念のない男に関わっていられない。しかしあのふたりはどうするんだろう。
彼は熱い紅茶と共にウイスキーを軽く呑んでから寝床に入った。
翌朝は少しでも片付けようと荷造りを始めたが、手に付かずにそのまま散歩に出た。
あてもないのに足だけはしっかりと歩いていた。いつもとは正反対に今日は人混みを求めて御堂筋を梅田まで歩いて仕舞った。心地良い疲れが足元から伝わってくる。
夕方から降り出した雨は次第に雨脚を強めた。十月の終わりを告げるように雨は一気に秋を加速させた。
御堂筋の路面を叩く雨の中を淀屋橋まで歩いたがもう雨にも飽きてしまいついに地下鉄に乗った。
家路を急ぐ乗客たちは解放された労働からか蝋人形の様に口を閉ざしていた。精巧な蝋人形を観察しているうちに駅に着いたが、外の雨は小降りになってから急に肌寒くなってきた。
部屋に戻った彼は畳の上で朝と同じようにぼんやりとしてしまった。
大阪は忙しない街だが此処に座ると何故が気が楽になった。此処はノンビリ出来る所だった。佐恵子が此処を選んだのが分かる様な気がしてきた。
此処で暮らしたあの頃が人生の頂点だったのか。もう何も考えずに忘れよう一週間すれば新しい生活が始まる。
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