第26話 佐恵子クライマーの真髄を聴く

 今日は店に品物を納品するワンボックスの車が来る日だった。営業の二宮にのみやは開店間際にやって来た。三十代の彼はさっぱりとしたラフななりで得意先を回っていた。

 彼は配送でどんなに忙しい時でも必ず裏通りに回って車を止めてくれた。そんな律儀なところが好感を持てた。佐恵子はいつもの様に中央のスライスドアから商品を見定めた。

「もう冬物の季節になったわねえ」

 佐恵子は厚手のコートやジャケットを手当たり次第に選んでいた。

「篠原さんは大の得意先ですから今年も最新の洋服を取りそろえましたよ、他店では売れ残りの秋物をバーゲンしているのにさすがですね」

「二宮さん、おだてたって何も出ないわよ」  

 佐恵子は洋服の納入業者にもお客と変わらない態度で接するからいつも二宮はここで油を売ってしまう。佐恵子の選んだ数十着の冬物を二宮は店内に運び込んだ。車へ戻ると納品書を持って応接セットのソファーに座る佐恵子に伝票を渡した。

「まだ動き回ると暑いでしょう」と彼女は冷えた麦茶をテーブルに用意していた。

「ここは値の張る物ばかり売って頂いて恐縮しているに……」

 と云いながらも二宮は向かいのソファーに座り込んだ。

「お口がお上手なのね。ところで挨拶回りで事務所へ寄った時に伺ったんですけど、二宮さんは山登りが趣味だと聞いたけど、そうなんですか」

 相変わらず小綺麗な身のこなしで佐恵子は半身を乗り出して来た。

「イヤー、学生時代ですよ、これでも山岳部ですから」

「今も登られるんですか」

「ちょっと足を痛めましてね、生活には支障ないんですがもう高い山での縦走は無理ですね」

「あらー、そうなの残念ね、せっかく山の醍醐味を伺いたいと思ったのに」

 佐恵子はちょっとおどけて魅せて引き留めるツボを心得ていた。山の醍醐味ですかと二宮は腰を落ち着かせて麦茶を美味そうに飲んだ。

一般的には新穂高温泉からロープウェイに乗り登山道から千石尾根に辿り着くと、そこから稜線を縦走して西穂高、奥穂高、北穂高と個々の山を走破して行くのです。観光じゃないんですから上高地からは行きませんよ。

「二宮さんもそのルートですか」

「いや、クライマーの憧れはその先の北穂高から槍ヶ岳ですよ」

「じゃあその槍ヶ岳が一番高いのですか?」

「いや、北アルプスの最高峰は北穂高です、ちょっと高いだけですけど、でもやっぱりクライマーの憧れは天を射すように聳え立つあの絶壁の槍ヶ岳ですよ。アルピニストとして単独登山で写真を撮る為に登るのでしたら穂高まででしょうねでも北穂高はきついですよ」

「その縦走ですけれど稜線ってどんな登山道なんです」

 登山道と聞いて二宮は笑った。

「人ひとりがやっと通れる狭く連なった岩場ですよ」

「じゃ踏み外したら落ちるんですか」

「冬場ね、吹きだまりに雪庇せっぴと言って雪が張り出してるんですが夏や新雪、残雪の頃は大丈夫ですよ」

冬は一回だけ二人で行った。その時は落ちかけた北村を正幸が救った。

「まさか篠原さん失礼ですがその歳で北アルプスへ行くつもりじゃないでしょうね」

「失礼ねまだ三十後半よ」

 ちょっとサバを読んだかと微笑みで誤魔化した。

「主人が昔の学生時代にちょっとだけ登山のはしりのように穂高に登ったから」

「穂高ですか」

 二宮は一度だけチラッと見たご主人の姿を想い出した。が同じ大学時代の友人と登ったと聴いて納得した。まず宿泊とテントと食料は最低二人で分散して登るから北アルプス縦走は単独登山ではきつすぎると付け加えた。

「じゃあ息の合った者同士でないと難しいんじゃないの」

「息が合うだけじゃ登山はダメですね外見上は息が合っていても登り始めるとボロがでてしまいます」

「どういうこと?」

「早い話が山登りはきついですそしてその見返りは景色だけなんです。貪欲な人間でも無欲の人にもあれだけの激しい体力の消耗、時には命がけの行動に対して何の見返りもないんです。正に無欲の極地です。そんな所でも二人の性格が静と動の様に全くの正反対でも山では実に協調性の有る人もいますからね」

 登山と云う目的に限定すれば正幸と朔郎には当てはまりそうなのだ。

「最近ですが、登山仲間から見せて貰ったある案内状に写る穂高の写真に釣られてその写真展に行って来ましたよ」

 それを聴いた佐恵子は思わず身を乗り出し掛けた。

「月明かりの穂高の写真ですか」

「なーんだ篠原さんも行ったんですか」

二宮は好みが合った事に破顔一笑した。

「しかしあれはどっちも当てはまらないなあ」

 山を情熱的に語る二宮が次に冷めた一瞬だった。

「どういうことですか?」

「あれは多分単独登山で行った時の写真でしょうね」

 あの辺りは狭い稜線で山小屋どころがテントを張る空き地も、まして横になれるスペースもない場所だ。そんな危険な所で山男は誰も好んで野宿をしない。寝袋に入って狭い岩場に身を寄せるしかなく、おそらく前後には急斜面が迫っていて僅かな月明かりの中でそれを確認出来る程度だ。ああいう行動とる人は、それは異色の登山家だからどっちにも当てはまらないと言った。一枚の写真の為だけに挑む登山家は異質だと二宮は言い切った。

「その人と主人が三回ほど一緒に穂高へ登山してるんです」

 彼女は商社マンの夫との不思議な組み合わせだと思わせる口振りが二宮には腑に落ちない。登山家は目的以外は性格や職業や身分は超越しているからだ。

「北アルプスの縦走ですか?」

二宮のこの質問にはどんな相手なのかと云う別の意味を込めていた。

「多分、冬に一回と雪の無い時に二回言ったと聴いてます、二宮さんが言ったとおり冬は危ない目に遭ってますから冬は二度と行かなかったです」

「じゃ夏山に二回行ったんですか」 

「ええ、でもそれっきりなんです。二宮さんは足をケガしなかったらいつめます」

「山男には禁煙、断酒よりも難しい質問だなあ」

 踏ん切りを付けるとすれば体力勝負だが、それでも還暦を過ぎても登る人もいる。家庭での家族形成との兼ね合いでバランスが保てなくなれば決めるがその初期ではむりだと言い切った。

「でも主人は大学を出て社会人になっただけでキッパリ止めましたけど、止められますか ?」

「その二人はキッパリ止めたんですか」

「これが最後だと宣言して登った切り止めました」

「スポンサーが付かず体力勝負である限りはどこかで区切りを付けるが、それにしても早すぎる、となると二人にとってはどこかで重荷に感じていたんでは……」

「じゃあ登山がある時から重荷になったんですか」

ある時期からなんて絶対に有り得ないと二宮は前置きした。

「その人との登山が重荷であれば最初からペアは組まない」

と二宮は話にならないと笑い捨てた。

「さっきも言った様に登山は特に高い山ほど協調性が問われるんです。性格や性質じゃないんです。命がけの一番馬鹿げた行動に笑って付き合えるかなんです。それが無理ならどんなに仲が良かったとしても同行は避けて下界からエールを送るのが関の山でしょうね」

「登山って一番馬鹿げた行動なんですか?」

 二宮は登山の素人にどう説明するか困惑した。

「頭を空にしてただ自然を畏怖出来る人たちだから美しいんです」

 この言葉に佐恵子には山男への理解、心情の限界を超えて仕舞った。それを問うと後は二宮の独演会だった。

「いい意味でご主人を見詰め直す機会として言っておきます」

 それから二宮は山男の鉄則を語り始めた。

 ーー仮にも山男としてペアを組んだなら私情を登山中はあらわにする事は禁物です。でも相当徳を積んだ聖人なら別ですが、絶対欲が絡むと人間は実に弱いもですから。それが登山で現れれば最悪の結果を招きます。ですから欲が絡みそうな時は絶対避けるべきです。そんなときに誘う人物は危険視する必要がある。貪欲に駆られた人間には誰もいない稜線ほど一番弱い内面がさらけ出てしまう絶好の場所ですから。だから物欲に何の障害も生じない時に登山することをお奨めします。まあそんな兆候を察すればおのず避ける物です。決して情けを信じてはいけません。まして友情や愛情に執着するなんてはもっての他です。そんな未練は下界に置いて下さい、山は神聖にして犯すべからずです。  

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