第12話 狭山の北村論

 狭山は営業報告や得意先の支払い報告でよく経理に寄っていた。経理には三人の女子事務員が居てその内の一人が綾子だった。

 帰りの遅い狭山は経理への報告や伝票の依頼は翌朝になることが多かった。ふたりの仲を知ってからは時間に間に合えば綾子のところへ寄った。

「何だ堀川、君まだ頑張ってんのか」

 言ってから狭山は時計を見た。

「ええ、でももう帰ります」

「じゃちょっと付き合わないか」

 綾子は北村の事だとすぐにひらめいた。二人は一度ゆっくりと話したいと願っていたから社外であう約束をした。

 狭山と綾子は御堂筋から一筋離れた横町の喫茶店に入った。此の店は心斎橋のビル街からの通勤途上から外れて、人通りの少ない落ち着いた古風な店だった。

 カウンターには常連らしい年配の客がおり、通路を挟んでテーブル席が並んでいた。二人は奥のテーブルに座った。

 狭山はコーヒーを頼むと、この前は驚いたと話を切りだした。あの日は君が来る直前に北村の口から佐恵子とは正反対の性格である綾子の話が出て半信半疑だった。しかしその後に堀川が来たのでピンと来た。

「あの日は逢い引きだったのか」

 古い言葉でその場をほぐすと狭山は堀川の返事を待たずに「これであいつも落ち着いた家庭が持てそうだから良い」と納得していた。

「あそこに狭山さんが居るなんて思わなかったわ」

 綾子にはセルフスタイルのコーヒ店が意外だった。

「何も聞いていないのか、あいつは口下手だからそう云う方法を採ったとおもったが。まあ偶然ならあいつには言う手間が省けて都合良かったんじゃないのか」

「狭山さんの仰るとおりですけど」 

 綾子には狭山はただの同僚だと思っていたから驚いた。

「そう云えば入社日が同じなんですね」

 ーーもう十七、八年になる。俺は大学からだがあいつは途中採用と云っても数日ぐらいだから二人とも新人で同期に違いない。募集人員より応募者がその年は少なかったのも幸いしたが。あいつは佐恵子さんが人事部に掛け合って採用されたのだ。だから当時は社内ではあいつ以外は知らないから休憩も食事も何をするにも一緒だった。気も合って退社後も二人でよく飲んで帰った。多恵と佐恵子さんが知り合ったのもそんな居酒屋だった。あいつは良く店の名を噂していたから遅くなった日に探しに来たらしい。そこで嫁同士二人が別々に迎えに来て気が合って四人でその日は飲んでしまった。それからだお互い家族同士で付き合う様になった。

「でも北村さんはすぐに離婚したって聞いたけれど……」

「大学時代から一緒だったらしいけど俺たちと付き合ってからだと四ヶ月ぐらいか。春から夏ぐらいだった。暑いさなかにはあいつはもう一人だった」

「離婚の原因はなんなのですか」

「詳しい事を言わんし、俺も聞かないから解らんなあ。……ああ想い出した離婚前に北村と気が合う男がひとり居た。そいつと穂高を縦走したらしいそれが唯一の変わった出来事だったなあ」

「それが原因ですか?」

「いや、解らない。本人が何も言わないから。いや言いたく無いのだろう」

「そうなの。肝心な事なのに狭山さんにも言わないなんてどうかしてるわ」

  言ったところでどうにもならないのだろうと狭山は笑った。

「肝心な事だから言わないんだよ。あいつはそう云う男だ。自分以外は心を明かさない、いや佐恵子さんだけは違った特別な人らしかった。だが今回はその人が問題だったから誰にも言えんわなあ」

「じゃあ佐恵子さんって云う人はどんな人なんですか?」

「まああいつにはもったいない女だったなあ」

「もったいない、て言う事は素敵な人だったんですか」

「なんせ学生時代は男達に結構言い寄られたと云う話を北村はしていたが。そんなひとが北村に言い寄るはずがないとまあ眉唾もんだと相手にしなかったんだ」

「どうしてですか」

 二か月前までは同調した綾子だったがこの日は珍しく剥きになった。

「どうしてって、大学では一番話しにくいだんまりやの北村に女の方から誰が誘うと思いきや、我らの源氏物語の玉鬘さんは選りに選って北村に声を掛けたからこれはあの大学では七不思議に入ってるらしい」

 あのイケメンの貴公子でも振ってしまう玉鬘の話にすり替えて北村は自慢した。そこからは「そな事は無いだろう」とわざと否定すると北村は意地になった。後にも先にもそんな話をしなかったから、珍しく結構あの日の酒は荒れていたんだ。だから日頃から心の奥底に溜まっていたのだろう。彼女と別れて以来その日は初めて酒に酔った勢いで北村が漏らした言葉だった。

「酔った話はともかく七不思議なんて狭山さんの話、飛躍してませんか。北村さんのあの黙々と作品作りに賭ける情熱を見抜けない事はないでしょう」

 確かに北村は努力の人だが変な意固地を張る所で帳消しにしてしまっている損な男だった。

 それを帳消しにさせなかったのが佐恵子さんだった。

「言っても誰が解るかというあの目付きが余人を遠ざけてしまうらしい。まあ一人だけ気まぐれな男が居たとは聴いているが。そいつが最後に一緒に山登りに行った男だった。俺は最後の登山が気になったがあいつは変に黙っていた」

 綾子は神妙に聴き入っていたが終わりの方では憤慨し始めた。

「どう変なんです。突き詰めれば人はすべて可怪おかしいと思いますよ。そうでなければつまらないのと違いますか。狭山さんの奥さんもそんな目で見てるでしょう。言わないだけで」

「おいおい堀川、うちと一緒にするな。まあ世間とは掛け離れた物に拘る事は確かにある。その誤解で世間には非常識な男と云うレッテルを貼られてしまっている。だが俺はそんな北村に何とかしてやりたいと思うだけでいつも遠目で観てしまった。そんな彼の世界に飛び込めたのは佐恵子さんだけだったがその信頼、絆を断たれたショックはさぞかし大きいだろうなあ。並みの人間なら自棄やけになるのに彼はそれを表に出さず黙して語らず我が道を行ってる。まるでマグマだまりを抱えた死火山ってとこかなあ」

 終わりのひと言は狭山は綾子に語るでなく自分に言い聞かせていた。

みんなそうだ、ただ決めるのは愛情しかない。それが受け入られるかどうかだけど佐恵子という女はそれ以外の物も相手に求めた。本当に北村の信頼と絆に代わる物を佐恵子が見つけられたか真意は解らない。

 淀屋橋には次第に色を失って行く黄昏に代わって、訪れた闇に乳白色が吸い込まれて行った。あとには橋の下の澱みさえ包んでしまい、川を上下する船の音だけが残った。

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