第10話 個展の復活

 朔郎さくろうは早めにアパートを出て梅田周辺をあてもなく歩いた。この辺りは相変わらず人の往来が多い。通勤の時はそうは思わなかったがこうして当てもなく歩くとみんな機械の様にもの凄いスピードで歩いていた。動く歩道でもエスカレーターでも止まると云う事を知らない。会社を辞めて二ヶ月で彼はもう此の流れに付いて行けなくなってしまった。

 朔郎は地下鉄で心斎橋へゆき、綾子との待ち合わせ場所である地下街のセルフサービスの喫茶店に入った。注文したコーヒーを持って席を探していると居合わせた狭山さやまに声を掛けられた。

「何だ、最近よく会うな」

 狭山は笑いながら席を空けた。朔郎は時計を見て、やばいと思いながらも席に着いた。

「多恵がお前の事を心配してるんだ」

 ウ~ンとうわの空で生返事をした。

 要するに狭山の心配は失業保険や退職金で食い潰すより生活の安定だと言っていた。それで一年、二年して引き篭もるパターンになる事を狭山は恐れていた。

「佐恵子さんのことよりまず仕事の事だ、次はかおりちゃんの事とじゃないのか、此の先大変じゃないのか」

 ーーそうか狭山に言われて気が付いた。俺には娘が居たんだ。なぜこの前に京都へ行った時に娘を捜して名乗らなかったんだ。あのブティックのどこかに居たかも知れない。いやあれでいいんだ。俺も娘もこれ以上重い鎖を曳きずる必要はないんだ。

「まあ、お前には親の資格はないが、それでも親には違いないんだ、そう思えばどんな仕事でも出来ると思うが……」

「親か……」  

 朔郎は視線を暫く宙に漂わせてからもうすぐここに綾子が来ると言った。

以前からあのは朔郎に愛嬌を振る舞いていた。朔郎はためらいと迷いの優柔不断の中で綾子を見ているだけで歳月を送った。

 やはり心の片隅にはまだ佐恵子が無意識の中に残っていたのだろう。佐恵子の生活がはっきり解り、入り込める余地が無い今は一気に彼女への心のつかえが取れた。それから彼は二ヶ月前の送別会の後からやけに綾子に急接近していた。

「そうか。しかしそれとかおりちゃんは別だ。この縁は死ぬまで切れないぞ」

 狭山は「娘には曖昧な態度を取るな」と真剣な眼差しを北村に向けた。だがその眼はすぐに崩れた。狭山の視線の彼方に綾子がいた。

「堀川が来た」

 狭山は綾子を顎で示した。朔郎も見た。

綾子は真っ直ぐに来て狭山に挨拶して座った。

狭山は綾子と北村を交互に見比べた。

「そう云うことか。じゃあ俺は先に帰る」

 綾子は狭山の後ろ姿を見送って何を話したか尋ねた。

「別に大したことじゃないよ」

 朔郎はいつもの調子で答えた。

 いつもの綾子なら「また」と云ってムッとするところだが、今日は軽く受け流すとすぐに求職の話になった。

「人に使われるのが嫌なら独立しかないわね」

 綾子はかっだるく他人事のようにさらりと流した。

「だけど使われるのは嫌だけど使うのも嫌なんだけど、どうしたらいいだろう」

 こん度は呆れ果てて勝手にしたらと云う目付きになった。すぐに何かにひらめいたらしい。

「北村さんって風景写真を撮っているんでしょう、それで個展を開けないかしら?」

 朔郎はドキッとした。随分昔に佐恵子が同じ事を言ったからだ。どうして女は打算的なんだろう。

「あれは芸術作品で非公開作品だ」

「そんなに気取って結局自己満足の域を出ないのなら没後うん十年に何かの記念で発掘されてそれで後悔されるしかないのかしら」

 此の女は何処まで冗談で何処から本気なんだろうそんな表情だった。

「昔、一度だけ個展を開く計画が有ったんだけど……」

 ホーッと意外そうに北村に興味を惹いた。

「だけど、どうしたの」

「正幸って云う男のお陰でそれどころじゃなくなったんだ」

「その人が計画をぶっ壊したの?」

「彼が壊したのは個展でなく俺の人生そのものだからさ」

 ホーッと今度は別な意味で綾子はさっきより興味を惹いた。

「その人は今はどうしてるの?」

「さあ解らんし、知りたくもない」

「あなたの過去など知りたくもないか、何か歌の文句ね」

 今更そんな言い方はないでしょうと綾子は冷めてしまった。

「そんな所だ」

 朔郎は話を止めて綾子の顔を覗き込んでどうして続きを聴きたくないのか尋ねた 。

「顔に聴かないでくれって、書いてあるから言いたくないんでしょう」

 ーー無気力なのか思いやりが有るのか解らない女だ。佐恵子ならこうと決めたら花も嵐も踏み越えてゆく。俺は作品以外は何も考えなくて付いて行けば良かったが。ここは自分でやるしかないか。

「今の話で考えたんだけど」

「何を?」

「個展を開くことにした」

「何処で?」

「京都で俺の作品の写真展を拓く事にした」

「大阪じゃダメなの」

「最初の計画通りやりたいんだ」

「昔に幻で終わった計画を実現したいのね」

 ホーッと無関心を装うにも良し悪しはあるが今回は功を奏してやっと引き戻せたかと綾子は安堵した。

 仕事も無く退職金と失業保険だけで流浪るろうの生活をする朔郎に一筋の光明を与えるべく綾子は推奨した。朔郎もあの当時と違って今は退職金と云う資金もあった。  

 朔郎は思いきり穏かに頷いた。その顔で綾子は仕事はともかくやっとこの人も前向きになってくれたと思った。

外へ出ると夕陽はすでに落ちていて足下は暗く、九月半ばの気候は過ごしやすくなっていた。昼間あれほど暑くても陽が落ちると心地良い風が頬を射してゆく。季節の節目を迎えようとしていた。

「やっと涼しくなったわねえ。これであの暑さから解放されたのに春のように節分とかお水取りとかの行事がどうして夏の暑さから解放される時にはないんでしょうね」

 どっちも同じぐらいに身体に堪えるのにと思った。

「一年の節目とその途中ではなあ」

 とひと息付くのがやっとで、とてもそれを祝う気分になれない、そこが春とは違う雰囲気だった。レースに例えるなら息も絶え絶えにゴールする秋分と颯爽とスタートする春分の違いだろうか。旅立ちは祝うが到着はこっそりと疲れた躰を癒やすだけだ。

「寒さから解放されるときは命の芽吹きを感じられるからさ。眠り付いた枯れ野から花や葉が咲き出すだろう」

 綾子にそう云いながら彼に生命の息吹きが有っただろうか。いて思うなら佐恵子との恋か。芽吹く前に散った恋が、あれが息吹きと言えるのだろうか。もうそんな時代は過ぎて付録の人生しか残ってないのか。そんな人生をまっとうしなければならないのか。今度の個展がその集大成になるかも知れない。

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