Album

白井惣七

1

――それは白紙で、どんなエクリチュールもない処女なるページであった。

(Marcel Proust, *À la recherche du temps perdu : le côté de Guermantes*)




 この白紙を前にして私は戸惑ってしまいます。私は、私と絵画芸術との関わりについてのこのアルバムをどこから書き始めればよいでしょうか。太陽の白い光がそのうちに様々な無数の色の光をこっそりと隠し持っているように、私の過去の一時点や現在もまた、それが持っている色を分析してゆくと、相互にまったく無関係であると思われるような、数え切れないできごとが、互いに撚り合わせられた、必然的な要素となっているということが見出されるでしょう。そういうわけで、もしかすると、私がかつて画家になることを決心したのは、それより以前のある日に食べた玉ねぎがすこし傷んでいたことに原因の一端があるかもしれませんし、いま私がこうしてこれを書いていることも、昔、市場の露店で売られていた焼き魚の目が白く濁っていたのを見たせいかもしれません。それだけでなく、とっくに忘れてしまっているいくつものできごとさえ関与していることでしょう。ですから、私がかつておこなったあのことだけを語るとしても、それの遠隔的な原因はおそらく無限に存在するでしょうし、それらすべてを語り尽くすことはできません。この手紙の中で私が語ること、告白することは、それゆえ、純粋な、混じりけのない私の過去そのものとはならず、私自身が再構成してみせるかぎりでの私の過去であり、それは何らかの色を帯びて見えてくるかもしれません。ですが、おそらくそれは本来の色を持つものではないでしょう。これを読むあなたの想像力によって、私の話に不足していると思われる過去を自由に補って、本来の色のもとでこの小さな独白録を解釈していただければ幸いです。


* * *


 おそらくその当時、私は街にいる他のどの画家よりも遥かに裕福でした。私はとある大貴族の婦人の庇護のもとで絵筆をとっていました。私の周囲にいた画家たちとは違って、私は絵の具の代金はおろか、食事にさえ困ったことはありませんでした。そのように大貴族の婦人が私のパトロンであったがゆえに、その貴族を取り巻く他の多くの貴族たちも挙って私の絵を称賛し、一枚残らず彼らが買ってゆきました。私はそうした状況に満足していました。しかしそれは、私が裕福であったことに対する満足では必ずしもありません。私が裕福であったのは、私の絵の人気に附随することにすぎません。私の満足は、私の絵を買ってゆく人々の美的好奇心を充足させることができていたという確信にこそありました。彼らも、自身を美的に充足させることのないような下らない絵に金を出して買ってゆくということもないでしょうから。画家の描いた絵が人の噂になることも、またそれがじっくりと鑑賞されることに耐えることも、その作品が芸術的であるための条件であって、絵は周囲の誰からも評価されないよりも誰かに評価されたほうがいいし、誰にも買われないよりは誰かが買っていってそれをどこかに飾っているほうがいい、と考えていましたので、その意味で、同じ時代のどの画家よりも自分が幸福であると感じていました。その街に住んでいた、おそらくすべての貴族が私の名前を「最高の画家」という称号と結びつけており、しかも特に有力な貴族はみな私の描いた肖像画を部屋に飾っていたでしょう。

 私が絵を描くときは必ず、外の光を一切入れないようにし、さらに防音処理を施した自分のアトリエで描くことにしていました。ですので、私のパトロンをはじめ、どんなに偉大な貴族であっても、肖像画が欲しいというならば必ず私のアトリエを訪れるように言っておりました。しかしそれでも多くの貴族が私のアトリエにやって来ました。彼らはみな、人工の光によってのみ照らされた、ほとんど無音の空間を奇異に思うのでしたが、彼らはすぐに、そうした空間で絵を描くということを、芸術家の奇妙な特徴として解釈するのでした。そして、芸術家という人種には漏れなくそうした奇癖が備わっている、ということは、おそらく多くの人に迎えられているある種の直観、あるいは信仰とさえ呼んでも構わないようなものでしょう。そのように絵を描いていた私自身も、そうした空間で、他のあらゆるものから切り離されて、ただ画布とのみ向かい合うという特殊な経験を通じることで、いっそう優れた芸術作品を作り出せると、あるいは逆に、優れた芸術作品はそうした経験を通じることによってこそ作り出されると、どこかで信じておりました(そのようにして絵を描いてこそ私は一人の芸術家たり得るのだと考えていたのです)。そして、私が絵を描くたびにそれが多くの人々から絶賛をもって迎えられるという事実によって、その直観ないしは信仰は私の中で少しずつ確かなものとなってゆきました。

 そのように一切の外界を遮断し、空気を伝わる雑音の一切が排除されるということによってある種の透明性を獲得した空間の中で絵を描くということは、私にとっては芸術創作であると同時に、一つの快楽でもありました。画布の上に絵筆を置くたびに、騒々しさの中ではほとんど聞き取れないであろう、絵筆が画布の上で擦れる僅かな音が伝わってきます。そしてそのたびに、真っ白であった空間が少しずつ、空気中を漂っている眼には見えない色素を取り込んでゆくかのように色を帯び、形を作ってゆくのです。徐々に空白である部分は失われてゆき、絵が完成してゆきます。そのプロセスは、私にとっては自動的であるようにさえ思われるのですが、それは単に、「私」というものが絵を描くという快楽の内に(あるいは、いまの私がより精確なしかたで言うならば、快楽であるものとしての描画の中に)溶け込んでしまっているからであって、背後では私が指揮棒を振り、各部分を私の好みの色に仕立て上げ、私のお気に入りの形状にまとめ上げるというようなしかたで調律していたということに気がついていないだけなのでした。そのようにして、私は一人の指揮者として、画面上に現れる様々な色や形をした各パートに細かく指示を与えてゆくことで、全体に調和を与えようとすることが私の絵画実践だったと言えるでしょう。

 つい最近仕上がったばかりで、これまでの描いたものの中では最も精妙な色彩を持ち、最も優れた調和を保っている絵をパトロンの催す夜会へと、このあと、サロンに集っている貴族たちから受けるであろう絶大な称賛や賛美のことを思いながら運んでいる最中のことでした。日もほとんど沈み、街は倦怠感に満ちた薄青い暗さを湛えていました。その夕闇の黒い霧の中ではどんな人も、顔をかき消され、肌の色も髪の色も黒く塗りつぶされ、背丈や手足の長ささえ平均化され、男女の見分けさえつかなくなるに至るほど個性を喪失しているように見えました。その誰もが口を開かず、静かに頼りなさげに歩いていました。そんな夕闇の中では、私たちはしばしば、まったく知らない人でさえ自分の親友であるかのように思ってしまうこともあります。また逆に、自分と非常に親しい間柄にある人が自分に向けて挨拶をして手をあげたような場合でも、自分とは一切関わりのない人間が、同じく別の知らない人間に挨拶を送っているものと勘違いしてその人の前を素通りしてしまうことがあります。このように夕闇の暗さは私たちの認識をも暗くします。夕闇に落ち込んだ暗い認識能力は、親しい友人を、恋人をさえ探し出すことができません。どれだけ注意深くあたりを見回しても、ほとんど僅かにしか太陽が顔を出していないこの時間には、誰もがみな個性を欠いた気味の悪い影のような姿で闇の中を歩いているようにしか見えないのです。

 そのような街のなかで突然聞こえてきたのです。それは初めは遠くで誰かが泣いているのか、あるいは笑っているのか、あるいはまたそれとは別な感情の発露であるようにも思われました。夜空の星が、想像もつかないほど遠くから発した光が宇宙の闇を強力に貫いて鋭く私たちの眼に届いているように、その音もまた遠くから、街に広がる人々の無個性というエーテルの空を浸透し、私のところまで渡ってやってきました。私が向かう方向から聞こえてくるようで、歩くたびにそれは少しずつ大きく、判明になってゆきます。それは絶対なる一への祈りを唱えるような声でもありました。いまこの街にあっては、その音一つだけが豊かであり、実りに満ちていました。いえ、むしろ、その音は最も豊穣であったがゆえにただ一つだけだったのかもしれません。まったく未知であったものは少しずつ明晰にかたち付けられてゆき、とうとう理知によってそれが何であるのかを把捉することが可能なほどになりました。それは歌でした。少年の発する歌でした。たんに日常の中で、仕事の合間に口ずさまれたようなものでしょう。それは上手いとは言い難い歌ではありました。しかしその歌はこの闇に埋もれた街の中では最も眩しいものであり、輝くように響いていたのでした。彼の放つ歌がそれほど眩しく聞こえてきたのは、その少年が、この街にほんの僅かばかり残された太陽の光の、香るようなばら色をした残滓を、ただ彼だけが一身に浴びていたこととは無関係だったのでしょうか? いずれにせよ、ここでは彼だけが光を放ち、彼だけが高らかに歌っていたのでした。私はその少年がよく見える位置で立ち止まりました。彼はそれでもまだ遠くにいましたが、そこからは、確かに彼の顔を、髪の長さを、手足の色を、はっきりと見て取ることができました。彼の喉の振動に始まる小さな声の波は、それが私に至るまでの媒介となった青暗い空気を揺すぶり照らしました。立ち止まってからほんの僅かのうちに、歌をうたう少年もまた闇の中に消えてゆきました。それと同時に彼の歌も消え去ったように感じました。それでも、あの眩さに心の奥底から目を覚まされたような、ことばにし得ない幸福な感覚に震えを感じた私は、さっきまで確かにそこに感じ取っていたはずの不思議なあかりを心の中で再現しようと努め、闇の中に彼の顔を見ようと、静寂のうちに彼の歌を聞き取ろうとして、彼がいたところをしばらくの間、呆然としてじっと見つめ続けていたのでした。

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