エピローグ

 温室のドアが空いた途端、熱風が体を通り抜ける。顔をしかめつつ私は蝶のために整えられた小さな箱庭を見渡した。

 見える範囲に探し人の姿はない。小さくため息をついて一旦温室から出ると、廊下の端に設置されている靴箱からスニーカーを取り出した。かかとの高いヒールは温室を歩くのは不便だ。今日の服装とスニーカーは釣り合いがとれないが、お気に入りの靴を汚したり、転んで怪我をするよりはいい。


 準備を終えた私は改めて蝶の温室へ足を踏み入れる。クピド患者用に作られた温室に比べると天井が低いが、植えられた草花や樹木に人工的に造られた水辺と豊かな自然が広がっている。しかし温室を包み込むのは熱気。クピド患者用の温室に比べると空調設備も古く、人間が過ごすのに適した場所とは言いがたい。

 それも当然。この空間の主役は蝶。人間は二の次なのである。それにも関わらず、翡翠くんはここに入り浸る。その姿は自分が人間であるという事実を忘れているようで少し怖い。


 水分補給もまともにしていないだろうと持ってきたミネラルウォーターを確認し、土の上に申し訳程度に置かれた板の上を歩く。ここに通うようになって十年ほどたつが、人工的な道になれた私からすると土の感触はいつまで立っても落ち着かない。土の匂いも木々の匂いも良い匂いとは思えず、異界に迷い込んだような気持ちになる。

 しかし、翡翠くんにとってはこの場所はどこよりも居心地の良い場所なのだ。それを思うたび、翡翠くんはここ以外で生きていけるのだろうかと心配になる。


 翡翠くんは思ったよりも近くにいた。人工芝の上でいつものように蝶に群がられて眠っている。翡翠の整いすぎた容姿と美しい蝶たちによって幻想的な光景だが、見惚れられる人間はある意味幸福だ。蝶に仲間意識を持たれている人間という異常性に気づかずにいられるのだから。


「翡翠くん、今日、カウンセリングの日だって覚えてる?」


 蝶を驚かせないように少し離れた場所から声をかける。蝶の鱗粉が肌につくとかぶれることがあるため私はいつも距離を取ってから声をかける。颯介くんは皮膚が強いのか、細かいことを気にしないのか、堂々と突撃しているが私には真似できない。

 蝶が視界を埋め尽くさんばかりに飛び交う姿は遠くで見れば幻想的だが、眼の前で自分に起こる現象としては怖い。私は昆虫が得意ではないので、こんなに虫と関わることになると分かっていたら蝶乃宮病院へ就職することはなかっただろう。

 今となっては知らずに来て良かったと思っている。患者に対して失礼だとは思いつつも、この病院には希少な症例が多い。眼の前で寝ている翡翠くんもその一人。


「……あー……今園さん……おはよ……」


 ゆっくりと翡翠の目が開き、寝ぼけた声が漏れる。人によってはこれだけで襲いかかりたくなるのだと聞いたが、私からするとただの子供にしか見えない。

 

 たしかに妙な色気のようなものがあるが、外見が成人しているだけで中身は子供。子供に手を出す大人は人間としてどうかと思う。

 多感な時期に翡翠くんという薬物みたいな存在に出会ってしまった子供たちに対しては同情するが、大人はダメだろうと何度過去を振り返っても思う。


 しかしながら、それを口にしたところで性癖なんて人それぞれであり、一度抱いた劣情を押し殺すのには強い理性と倫理観が必要であることは分かっている。全ての人間がそうしたものを持ち合わせているわけではない。空腹時に美味しそうなご飯を並べられ、手を出さずにいられる人間は少数だろう。

 他人の劣情を誘う。そんな体質をもって生まれてしまった翡翠くんと、そんな弟を持ってしまったアゲハちゃんに同情するしかない。


 翡翠くんが体を起こし、蝶たちに手を振ると心得たように蝶たちは飛び立っていく。その姿を見るたびに私は言いようのない不安を覚える。眼の前の子は本当に人間なのだろうか。だが、人間でないとしたら一体何なのか。いくら考えても答えは出ない。


「今日はどんなお話するの?」


 座り直した翡翠くんがワクワクした様子で私を見上げる。そういう子供らしい姿を見るたび、私は眼の前の子がどんな存在だとしてもどうでもいいかという気持ちになる。きっとアゲハちゃんも同じで、文句を言いつつ面倒を見る颯介くんもそうなのだ。


「そうねえ、翡翠くんは話したいことある?」


 隣に腰掛けてペットボトルを渡しながら問いかける。受け取ったものの飲む様子がない翡翠くんはペットボトルを見つめながらなにを話すか考えているようだ。

 颯介くんに村瀬さんの件で怒られたと聞いたから、そのことを話すのだろう。なんて返そうかと考えながら翡翠くんが話し出すのを待っていると、翡翠くんは珍しく悲しそうな顔で私を見つめた。


「姉さん、最近忙しそうなのは俺のせい?」

 予想外の言葉に私は固まった。少しの間を開けてから、「どうしてそう思うの?」と先をうながす。


「なんか最近、疲れてるように見えるんだけど、どうかしたの? って聞いても何も答えてくれなくて。そういう時ってだいたい俺絡みだから、また俺なんかやっちゃったのかなと思って」

「なにかって、この間颯介くんに村瀬さんを誑かしたの怒られたでしょ」

「今更、そのくらいで姉さんはあんなに疲れないって。またかとは思うだろうけど」


 そう思うなら控えなさいと口からでかかったが、翡翠くんは意図して人を誘惑しているわけではない。翡翠くんが他人に求める感情は友情であったり、仲間意識であったりと、恋慕とは遠いものだ。翡翠くんの気持ちを裏切っているのは翡翠くんに恋している側なのだ。本来ならば翡翠くんは慰められる側である。

 本人があまりに平然としているから忘れそうになるが、翡翠くんはいつだって被害者だった。


「俺がいない方が姉さんは幸せなんじゃないかな。俺には恋ってよく分からないけど、姉さんは分かる。姉さんだったら素敵な人と恋が出来るだろうし、子供のことも好きだから、今頃母親になれてたかも。本当は父さんのこと探しに行きたいし、蝶の研究だってもっとしたいのに、俺がこんなだから病院創って、日本からも離れられない。毎日、毎日忙しそう」


 そこまで言い切った翡翠くんは困った顔で笑った。


「姉さんは俺がいない方が幸せになれる」

「そんなわけないでしょ」


 翡翠くんの手をぎゅっと握りしめる。答えに迷ってはいけない場面だと長年の勘が告げていた。翡翠くんは握られた自分の手をじっと見つめて、「そうかな」と小さな声で呟いた。

 マイペースな性格から翡翠くんは何事にも動じない性格だと思われている。事実、人よりも鈍感な部類であることは間違いない。だからといって何も感じていないわけではない。恋が出来なくても家族や友人を愛する心は持っている。翡翠くんにとって唯一無二の存在はアゲハちゃんなのだ。


「アゲハちゃんはあなたが幸せならそれでいいのよ」

「幸せかあ……」


 翡翠くんは温室の天井を見上げた。鉄骨によって区切られた空。翡翠くんはもう十年、この光景しか見ていない。それを思い出した時、私は翡翠くんの幸せとは何だろうと考えてしまった。友人も出来ず、外に出ることも出来ず、蝶のために造られた温室で蝶と共に過ごす日々。これは本当に幸せなのかと私の頭に疑問が浮かぶ。

 外に出たい。翡翠くんがそう言い始めたらどうすればいいのだろう。そこにいるだけで人を魅了してしまうこの子が、クピドの翅という急所をさらしたままで外を歩くことが出来るのか。いくら考えても私には誰かに翅を引き裂かれる翡翠くんの姿しか想像出来なかった。


「俺は、姉さんが幸せならそれでいいから、姉さんは俺に気にせず海外調査にでも行って欲しいな。あと彼氏紹介してほしい。姉さんの子供だったら絶対可愛いよね」


 先ほどの不安そうな表情が嘘のようにのんびりした雰囲気でそう告げる翡翠くんの姿に私は胸が締め付けられた。

 大切な人の幸せが自分の幸せだと考える人はいる。けれど翡翠くんの場合はあまりにも選択肢が少ない。たくさんの選択肢の中からそれを選んだのではなく、翡翠くんにとって世界はあまりにも狭いから、それ以外の選択肢が思い浮かばなかったのではないか。そんな嫌な予感に私は苦しくなる。それでも私が翡翠くんにしてあげられることは話しを聞いてあげることだけ。翅を落としてあげることも、外に連れ出すことも、私には出来ないのだ。


「そうね。アゲハちゃんの子供だったら可愛いと思うわ。アゲハちゃんに子供が生まれたら、翡翠くんは叔父さんになるのね」

「そっか、叔父さんか……変な感じ。中学卒業してない叔父さんって子供嫌がらないかな?」

「アゲハちゃんの子供なら大丈夫よ」


 むしろ、姉の子供を魅了してしまわないかという心配の方が強い。その前に、アゲハちゃんが選んだ恋人が翡翠くんに落ちる可能性すらある。そうなったら泥沼だ。アゲハちゃんにはぜひとも、翡翠くんの魅了に耐性がある人物を選んでもらいたい。

 そう思ったところで、ある人物が頭に浮かぶ。アゲハちゃんに好意を持っていて、翡翠くんの魅了に耐性があり、蝶乃宮一族の体質に理解があり、アゲハちゃんを大切にしてくれそうな人……。


「姉さんには四谷とかお似合いだと思うんだけど、今園さんはどう思う?」


 頭に浮かんでいた人物の名前が翡翠くんから出たことに私は驚いた。目を見開いて翡翠くんを見つめると翡翠くんは「ダメ?」と不安そうに首をかしげた。


「同じこと考えてたから驚いて……」

「あっ、今園さんも四谷がいいと思ってた? よかった」


 翡翠くんは楽しそうに笑う。翡翠くんの感情が伝わったかのように離れていた蝶がひらひらと飛んできて、翡翠くんの肩に止まった。


「俺、父さんの記憶ないから、四谷と話してると父さんってこんな感じなのかなって思うんだよね。姉さんと四谷が結婚したら俺とも家族でしょ? そうなったら嬉しいなあ」


 成人男性とは思えない、無邪気な子供の顔で笑う翡翠くんを見て私は安堵を覚えた。アゲハちゃんの幸せを願うと気持ちには自分の幸せもちゃんと含まれている。それに気づいて本当に安心した。


「問題は、颯介くんがヘタレってところね」

「わかる。四谷、姉さん前にすると大人しくなるよね」


 クスクスと楽しそうに笑う翡翠くんの背で蝶の翅が輝いた。太陽光を浴びた翅はステンドグラスのように様々な色へと変化する。美しすぎるそれに人々は魅了され、勝手に神秘性を見いだしてしまうが彼は一人の人間だ。

 蝶乃宮翡翠はたった一人の家族の幸せを願う、無垢な子供なのである。

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