4-7 虫籠の問題

 蝶乃宮病院は職員寮がある。蝶乃宮病院の前身である研究所は蝶を観察するため、良く言えば自然豊か、悪く言えば田舎な、通いには不便な立地に建っていたからだ。


 家庭のある今園さんは毎日一時間かけて通勤してきているが、俺のような独身は寮に入っている。長谷川や坂本さんのようなアルバイトにも寝泊まりできる部屋が用意されているため坂本さんは連勤の際に、長谷川は気まぐれに寝泊まりしている。金がかからず、防音がしっかりしている寝カフェと称した長谷川に今園と二人で拳骨を食らわせたのはついこの間のことだ。これは暴力ではなく教育だと世の中の皆様も分かってくださるだろう。


 そんなわけで寮に入っている俺は自室まで徒歩五分のコンビニにいくようなノリで残業が出来るわけである。昨今の労働基準を鑑みればよくないのだろうが、人の命が関わる職についていると労働時間に関しては見て見ぬふりをされがちだ。労働時間をしっかり守った結果、患者が死んだのでは目も当てられない。


 といっても蝶乃宮病院はそれほど忙しいわけではない。万が一のために夜もスタッフは待機しているが、クピド患者は翅さえ傷つけなければ健康体だ。よって、夜にやることといったら見回りくらいのもの。

 

 好奇心旺盛なうえに思春期真っ盛り、閉じ込められている関係で体力、気力を持て余し気味な患者たちは夜な夜な自室を抜け出す。消灯時間をしっかり守るのは真面目な良い子か、抜け出す発想もないほど熟睡する健康優良児だ。


 それを防止するために見回り業務が存在する。過去には脱走騒ぎなどもあったため、それを防止する目的もあるし、大人に隠れて危険な行為に走る子供を止めるという役割もある。夜になると精神的不安を覚える患者もいるため、そういった患者たちをケアするのも夜勤の仕事だ。


 それに加えて見回りは保護者へのパフォーマンスをかねている。ちゃんと俺たちスタッフは子供たちを見守っており、子供が健全な恋愛を出来るように見張っていますよというアピールだ。


 なんともアホらしいことだ。学生時代に堅物だの恋愛感情が死んでいるだの散々いわれた俺ですら、思春期真っ盛りの子供たちが会おうと思えば会える距離に寝起きしていて、我慢できるはずがないと分かる。そもそもクピド症候群は恋をしなければ治らない。恋愛感情と性的接触は連動している傾向が強いこともあり、よっぽどでなければ見かけても見逃す。

 というか単純に、他人の情事の現場に踏み込みたくはない。


 しかしながら入院中に妊娠となると世間の風当たりは強い。過去にそれでバッシングを受けたこともあり、この辺りに関しては慎重な対応を求められている。

 といっても、俺からすれば恋をしてさっさと退院して欲しいが、子供らしく健全でいて欲しいという親、及び世間の意見は筋が通っていないと感じる。恋の仕方は人それぞれだ。世間の感じる正しさを押し付けられては退院できるものも出来ない。


 たしかに体が成熟していない十代の性行為は体に負担がかかる。妊娠ともなればさらに負担がかかるため、患者たちにはしっかりと講習を受けさせている。その点に関しては普通の学校よりしっかりしていると言っていい。

 

 それでもやらかす奴はやらかす。最近の悩みの種は綾埼さんだが、アイツの場合は一種の病気と言っても良い。翡翠が他人に性的接触をされてもなんとも思わないように、綾埼密美という患者も他人との接触に嫌悪感が薄い。診断をしている今園さんの話しによれば、性行為をコミュニケーションの一種と考えており、綾崎さんの中では雑談と性行為に大きな違いがないのだ。


 こういう認識が大多数とズレている患者に関しては未だにどう接していいか分からない。大多数がそうだからといってもその患者にとっては周囲の方がおかしいのだ。おかしいと思っているものに合わせることは患者にとって大きなストレスになる。それを分かっていながら世間に合わせろというのは医者として、いや、大人としてどうなのだろうか。


 一度、患者に世間に合わせた方が楽に生きられるのではないかと言ってしまったことがある。その時、患者は心底不快そうな顔でこういった。「それは先生が大多数側だからだ」と。その言葉は今も俺の胸に深く刺さっている。


 胸に刺さった棘の存在を思い出したことを切っ掛けにここ最近に起こった出来事が頭の中でグルグル回る。翡翠の存在。村瀬さんの治療方針。綾埼さんをどこまで容認するべきか。長谷川のバカさ。蝶乃宮病院の今後。

 そして、蝶乃宮さんの……。


 思考に沈んでいた俺はガチャリという音に肩をふるわせた。

 ドアが開いた小さな音でも深夜の誰もいない空間にはよく響く。大げさに驚き、椅子から落ちそうになった自分が恥ずかしくなり、俺は慌てて姿勢を整えてからドアの方を見る。

 そこには驚いた顔をした蝶乃宮さんが立っていた。


 見慣れた白衣姿ではない。パンツスタイルにブラウス、ジャケットといかにも働く女性といった装い。ふだんは下ろしている髪も邪魔にならないように一つにまとめられている。モノトーンでまとめられた服装はきらびやかとは言えなかったが、それ故に生まれ持った美貌を引き立てているように感じられた。

 一言でまとめるならば、普段見慣れない姿に俺の胸は打ち抜かれたのだ。


「驚いた。こんな時間まで仕事していたんですか?」


 蝶乃宮さんはそういいながら部屋に入ってきて、自分のデスクの上に持っていた鞄を置いた。仕事用にしては小ぶりなそれに俺は少し違和感を覚える。仕事相手と会う場合、蝶乃宮さんはいかにもビジネスマンが持っていそうなビジネスバックを持って行く。


 違和感を覚えると昼間の坂本さんの言葉が浮かんだ。それを振り払うように壁に掛けられた時計を見上げた俺は思ったよりも時間がたっていたことに驚いた。


「少しのつもりが考え事をしていたらいつの間にか時間がたっていた」


 全くの嘘でもないのでするすると言葉が出た。蝶乃宮さんは苦笑を浮かべる。そのまま給湯室に歩いて行ったから何か飲み物でも入れてくれるつもりなのかもしれない。

 蝶乃宮さんの姿が給湯室に消えたのを見送ってから俺は深呼吸した。気持ちを落ち着けなければいけない。変なことを考えてはいけない。それを蝶乃宮さんに悟られてはいけない。

 しかしながらそんな風に考えれば考えるほど俺の心臓の鼓動は大きく、早くなる。ままならない体に舌打ちが漏れそうになった頃、ココアの匂いが鼻腔をくすぐった。


「コーヒーだと寝むれなくなるので」


 蝶乃宮さんはそう笑って俺の前にココアを置く。ココアなんて飲むのは子供の時以来だ。寝むれないと言った夜に母親が入れてくれたことをふいに思い出して俺の心が温かくなる。先ほどまで大きな音を立てていた心臓が落ち着いたのを感じた。

 口に運ぶと飲み慣れない甘さが舌に残る。甘いものはそれほど好きじゃないはずなのに、今は妙に美味しく感じた。考えごとのしすぎて頭が糖を欲していたのかもしれない。


「考え事って何かありました?」

 

 世間話と、院長としての義務感から蝶乃宮さんが聞いてくる。隣のデスクに座るでもなく寄りかかっている姿を見るに、長いをするつもりはないらしい。こんな時間に帰ってきたんだ。疲れているだろうし早く寝たいだろうと考えると同時に、何に疲れているのだろうと考えてしまう。そんな自分の思考を振り払うように俺は口を開いた。


「翡翠が今度は村瀬さんを引っかけた」

「村瀬くん?」


 驚いたように蝶乃宮さんが目を見開く。それから神妙な顔をして考えこんだ。蝶乃宮さんからしても村瀬さんは予想外だったようだ。


「翡翠はなんて言ってました?」

「話してるだけだと。話し相手がいないのは寂しいっていってた」


 翡翠の言葉に蝶乃宮さんの表情が悲しげに歪む。「そう」と小さく呟いた声は小さくて、いろんな感情を無理矢理押し殺したように重たかった。


「私たちだけじゃダメなのかしら」

「翡翠からすると俺は年上の叔父さんだからな。同世代の友達が欲しいんだろ」


 村瀬さんと翡翠は七歳ほど離れているので同世代ともいえないのだが、翡翠は思考回路が中高生くらいで止まっているのでちょうど良いのだろう。


「四谷さんはまだ叔父さんっていう年じゃないでしょう」

「三十後半っていったらガキどもからすれば叔父さんだよ。新田の野郎なんか揶揄ってくるぞ」

「四谷さんが患者を呼び捨てなんて珍しい」


 蝶乃宮さんは楽しげに笑った。自然な笑顔にほっとするが、その目元がかすかに黒ずんでいることに俺は気づいてしまった。医院長として俺よりも業務が多い蝶乃宮さんだが、言われてみれば最近は病院にいないことも多かった。そのことに長谷川に言われるまで気づかなかった自分に少なからずショックを受けた。

 俺は目の前の女性に恋をしている。そのはずなのに、疲れていることにも気づけず、忙しさの理由も分からない。あまりにも一方通行で、なんてふがいないのだろう。


「……蝶乃宮病院がなくなるかもって噂を聞いた。本当か?」


 言わずにおこうとしていた言葉が転がり出た。言ってしまってから焦ってももう遅い。先ほどまで楽しげに笑っていた蝶乃宮さんの表情が凍り付く。やってしまったと思った。いずれは聞かなくてはいかなかっただろうが、今ではなかった。

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