4-5 病院の行く末
「そんなヤバい人、ここがなくなったらどうするんでしょう?」
考えながら呟かれた長谷川の言葉に俺は目を丸くした。今園さんも驚いたように長谷川を見つめている。
「なくなる……?」
「あれ? 二人は聞いてないんですか? 蝶乃宮さんが最近忙しそうなのってその件ですよね?」
きょとんとした顔をする長谷川に俺は慌てた。そんな話 まったく聞いてない。
「なにそれ、どういうこと?」
俺と同じく知らないらしい今園さんが鋭い声を出す。長谷川は困ったように頭をかいた。
「って言っても俺も詳しくは知らないんですけど、十年経ってもなんの成果もないし、予算削られて解体されるんじゃないかって噂が……」
「そんな話、アゲハちゃんからはなにも……」
そこまでいったところで今園さんは言葉を止め、眉を寄せた。たぶん俺と同じ結論に至ったのだ。
蝶乃宮さんの性格から言って俺達に言うはずがない。心配かけまいと一人で対処するはずだ。そうなるとベテランである俺と今園さんが知らないというのも納得がいく。俺は寮で暮らしているから病院から出ることはほとんどないし、今園さんは通いだが病院と自宅の往復が主だ。自然と会う人間は限られる。大学という様々な人間が集う場所に通っている長谷川の方が引きこもりに近い俺達よりも多くの噂を耳にしていることだろう。
「成果がないからって……ここが心の拠り所になってる子達だっているのよ!」
「成果がでないなら、でるように人員を増やすべきだろ。患者のことを何も考えてない」
「俺に怒られても」
憤る俺達に長谷川は困った顔をした。長谷川の言うことは最もで、怒るべきはそういう判断をくだそうとしている上であり相談もせずに一人で抱え込んでいる蝶乃宮さんだ。
翡翠のことといい、蝶乃宮さんは人に頼るということをしない。翡翠という面倒な弟を持ち、両親を早くに亡くしたという境遇から、強くあらねばならなかったのだろう。それでも俺は蝶乃宮さんにとって相談もできないほどに頼りないのかと、捨てたくとも捨てられない恋心が叫ぶ。
「アゲハちゃん、問い詰めないとね」
今園さんが温度のない声を出した。不甲斐なさに震えていた俺はその恐ろしい声音にビクリと肩を震わせる。長谷川は引きつった顔をしてこころなしか今園さんから距離を取った。
「最悪の場合、患者の受け入れ先探さないといけないわね。美香ちゃんなんかは情報が漏れないようにしないとメディアの玩具にされるし」
不穏な空気をすぐさま引っ込めた今園さんは深いため息を吐き出して、ネイルで彩られた指で額を叩く。蝶乃宮さんへの怒りは収まったわけではなく、今後のために気持ちを切り替えたようだ。こういう器用なところは自分よりも経験豊富な大人だと感心する。
三十代。十分大人といえる年齢になっても俺は未だに自分の感情を持て余している。それに比べて今園さんは、少なくとも表面上は感情に振り回されている様子がない。
「美香ちゃんって、要経過観察患者の?」
長谷川が腕を組み、宙を見上げる。記憶を探っているようだ。
成瀬美香は翡翠と同じく病院開設当初からの患者だ。翡翠のように恋愛感情が欠落しているから退院できないのではなく、心の傷により恋することを拒んでいるメンタルケアが必要な患者である。
飛翔病と呼ばれるようになった切っ掛けの事件、男子中学生落下事件。その目撃者であり、当事者。それが成瀬さんだ。
「成瀬さんだけじゃないだろ。翅を傷つけてはならないと知れ渡った今でも緊急搬送される患者はいるんだ。ここ以外で患者を保護できるとは思えない」
クピドの翅は美しすぎる。目の前にあったらつい手を伸ばしてしまいたくなるほどに。幼い子供はもちろん、理性のある大人ですら加減を誤って患者の翅を傷つけ、殺害、もしくは重症を負わせるケースは年に数回は起こっている。発症間近だと翅が生えている状態に慣れず、患者自身が不注意で翅を傷つける危険もある。
蝶乃宮病院には翅を修復する技術を持つ専門家がいる。医師というよりは技術者、なんなら芸術家と名乗ってもいい繊細な作業を行うため、任せられるのは二人だけ。やり方を教えられたとしても簡単にできることではない。少なくとも俺には無理だ。
翅が傷ついた患者は蝶乃宮病院に緊急搬送される仕組みになっているが、距離や時間の問題で助けられなかった患者もいる。蝶乃宮病院のように専門病院が増えれば助けられる患者は増えるかもしれないが、助けるための技術を持った人間があまりにも足りなすぎる。
現場を知らない上は大きな病院に任せればいいと軽く考えているのだろうが、クピド患者は日光を浴びなければ体調を崩す。温室やサンルームがある病院となれば数が限られるうえ、他の患者と同じ病棟を使うとなれば翅に不用意に触られる問題が発生する。SNSが普及した現代ではプライバシーの問題もある。撮るなといくら言ったところで、都市伝説扱いされている希少な存在を前にしても我慢できる理性的な人間だけとは限らない。
「対応に関しては不安でしょうけど、対応する病院が増えたら病気の原因が分かるかもしれませんし、患者も恋する機会が増えるじゃないですか。悪いことばかりでもないと思いますけど」
長谷川は呑気なことをいう。俺が睨みつけると同じく険しい顔をした今園さんの姿が見える。気持ちは同じらしい。
二人に睨みつけられた長谷川はビクリと肩を震わせた。
「恋をしたら翅が落ちるってことは、周囲に恋したと教えるようなもの。マイノリティーと呼ばれる患者たちにとってはそんな簡単なことじゃないの。この間退院した奥山さんも退院前の面談で言ってたわ。同性愛者だって知られるのがずっと怖かったって」
「限られた人間しか入れず、情報も外に漏れないようにしているここですらそうだ。不特定多数が出入りする病院、地域と密着してる地方の病院なんて、患者にどれだけの精神負担がかかるか……」
マイノリティーでなかったとしても人は恋の話に食いつきやすい。女は恋バナが好きと言うが、男が興味を持たないわけじゃない。恋人の有無は世代、性別問わずに話題にあがる。翅の有無で恋をしているかどうか、場合によっては相手すらも分かってしまうクピドの翅が入院により退屈している患者の間で噂にならないはずもない。
「考えすぎじゃないですか? 翅さえ落ちてしまえば退院するんですし、その後会う機会なんてないでしょ。そんな細かいこと気にしてたら恋なんて出来ませんよ」
「あなた、女の子にモテないでしょう」
今園さんが長谷川をじとりと睨み付けた。長谷川は「なぜ、それを」と呟く。
「お前、精神科は選ぶなよ。患者が可哀想だ」
「大丈夫よ颯介くん。この手のタイプは格好いい~とかいう安直な理由で外科選ぶわ」
「俺のことバカにしすぎじゃないですか!?」
長谷川が地団駄を踏んで文句をいう。そういう所だと本人は自覚していないらしい。こんなにアホっぽい奴が医大生と聞いても誰も信じないだろう。真面目に勉学に励む医大生への風評被害になるから医大生らしくしてほしい。
「とにかく、十年クピド症候群を見てきた私たちは反対。この病気が奪うのはね、命じゃなくて人生よ。社会は背中に蝶の翅が生えた人間が暮らせるように出来てない。人が多いところにいったらいつ翅を傷つけられるか分からない。誘拐事件だって起こってる。だからって家に引きこもっていたら恋が出来ないから治らない。そういう病気なのよ」
そこまで一息で言い切った今園さんは息を吐き出した。
「一体だれが言い出したのかしら、世界一美しい病気なんて」
「SNS発症だったかな。学校で発症しちゃった子の翅をクラスメイトが取ってネットにあげちゃって、それがまた綺麗な翅だったからあっという間に拡散されちゃったんですよね」
「SNS、ろくなことしないわね」
「まー色々ありますけど、便利ですよ」
SNS世代らしく無邪気に笑う長谷川に今園さんは眉間の皺を深くした。精神科医としていろいろと思うところがあるようだ。俺としてもSNSによいイメージはない。使ったことがないからだと長谷川に言われアプリを入れてみたこともあったが、肌に合わずにすぐに止めた。どうにも軽薄な印象が抜けきらないのだ。
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