堕落した夢

 だが、動くのももう疲れてしまった。逃げるにしても、どこへ逃げ込めばいいのか。助けを求めるにも、人に見つけてもらわなければならない。その上、その人間は信用できる者かどうかなど、今の彼女には到底判断できるものではなかった。


 それだけ、一度心を許してしまった人間からの裏切りは、その者に対し深い傷を負わせるものなのだ。


 と、そこへ何処からか彼女のいる場所へ近づいて来る足音が聞こえてくる。誰か来ると思った彼女は、咄嗟に身を隠そうと、積み込まれたゴミの山の中へと潜っていく。


 近づいてきた足音は、彼女が隠れた場所の側でピタリと止まった。


 息を潜め、口を押さえる彼女は先程の恐怖を思い出してしまう。建物にいた男達がやって来たのだろうか。見つかれば今度こそただでは済まない。また酷い目に遭うのだと、身体は自然と震えてしまい、涙が溢れてくる。


 「酷い状態だ・・・。怖い目にあったんだね・・・。でも、もう大丈夫。“これから“は俺が直接、助けてあげられるからね」


 男の声が聞こえてくる。建物にいた者達とは別の声だ。身体の何処かが隠れ切れていなかったのかと疑う彼女。


 脳裏に蘇ったのは、ベッドの上で男が彼女に語ったセリフ。“男がタダで助ける訳がない“。今の彼女にとって、男性というだけで恐怖の対象であり、信用できないものとなっていたのだ。


 男の独り言かもしれない。彼女はそのまま反応せずに、ゴミの山の中で息を潜め続けた。しかし、男はその場を離れようとせず、何の音も立てないのが彼女にとって不気味であり恐怖でもあった。


 「ん〜・・・到達するのが少し遅れたか・・・。どうやら恐怖症を患ってしまったようだね?なら少し手荒な方法になるが、俺の“スキル“で少しの間記憶を喪失させてもらうか・・・」


 そう言った男は、何やら動きを見せていたが、ゴミの中にいた彼女には僅かなシルエットの動きくらいしか確認出来なかった。同時に、彼女の瞳に映っていた光景は徐々に暗闇に覆われ始め、彼女の中にあった恐怖心やネガティブな感情までまるで嘘のように忘れてしまっていた。


 何故私はこんなところにいるのだろう。


 何で息を潜めているのだろう。


 何から逃げていたのだろう。


 私は・・・。


 徐々に無気力になっていき、全身から力が抜けていく。口を覆っていた手は解け、僅かにゴミの中で音を立ててしまう。


 それを聞き逃さなかった男は、幾つかのゴミを退けると、その中で倒れ光を失った虚無の目をした裸の女性を見つける。


 「・・・俺も、こんな君は見たくないんだよ・・・」


 男が彼女の手に触れると、何処から現れたのか突如として彼女の身体に、彼女の物とは明らかに違うお洒落な洋服が着せられていた。


 漸く人前に出られるような姿となった彼女の手を掬い上げ、ゴミの中から彼女を引っ張り出し抱え込んだ男は、何処か腰を掛けられるような場所を探し、彼女を休ませた。


 「さて、もういいだろう」


 男は指を鳴らし、彼女に掛けたスキルを解く。


 ふと我に帰った彼女は全てを思い出し、先程まで見ていた光景からガラリと変わった景色に驚く。そして身体を隠すように丸くなり、声をあげる。


 「いッいやぁーーーッ!!」


 「あッ!ちょっとちょっと!急に大声出さないでよ!」


 彼女の反応に慌てた様子で片手を出した男は、その掌の上に集まる黒い靄のようなものを溜めて握りしめる。


 すると、二人の周りは薄らと黒い煙に覆われたように曇り始めた。


 「ふぅ・・・これで大丈夫。もう君の声は、俺にしか聞こえないよ?」


 「何なのッ!?誰ッ!?」


 彼女は男の容姿に全くと言っていいほど記憶がなかった。この男が何故、彼女を助けたのかは分からないが、彼女にとってこの展開は二度目。また同じ目に遭うのではないかと、強い警戒心を男に向けていた。


 「誰・・・か。まぁ確かに君からしたそうだろうね。でも、俺にとってもそうさ。ここが何処で君達が何者なのか、俺も知らない。気づいた時にはここにいたんだから・・・」


 男は不思議な話を始めた。記憶でも失ったのだろうかと彼女は思ったが、実際はそうではない。


 今の彼女には分かる話ではなかったが、彼女を助けたこの男は、この世界の人間ではなかったのだ。着ているものこそ、黒いフード付きのロングコートと怪しさ満点の格好をしていたが、こういった服装も彼女のいる世界では、然程目だつ格好でもなかった。


 「どういうこと・・・?」


 「俺が聞きたいね・・・。でも、ここに来てから最初に目にしたのは、“君“だったんだよ、“片桐なぎさ“さん・・・」


 それは彼女の名前だった。


 何処の誰かも知らない、怪しげな男が何故自分の名前を知っているのか、不思議でならなかった。“最初に目にした“とは、どういうことだろう。しかし、この男のことを考えている間だけは、不思議と先程まであった恐怖心やネガティブな感情が表れることはなかった。


 「どうして私の名前・・・」


 「ずっと、見てたからさ」


 男は最初にこの世界にやって来てから彼女を見つけ、その無慈悲なまでの不幸な人生を目の当たりにして来たのだという。


 アイドルになる為、親友と何度もオーディションを受けに行ったこと。親友だけがスカウトされ、傷心してしまう姿も。人が恐ろしくなってしまう姿も。何度か、命を絶とうとしてしまいそうになる姿も。


 そして、男達に酷い目に遭わされそうになる姿も・・・。


 男は、彼女をずっと見ていたのだという。


 「どうやら俺は、君達には見えていなかったようでね。何度も声を掛けたり、触れようとしたこともあるんだ。けどダメだった。俺からここの人達に接触することは出来ず、影響を与えることも出来なかった。だから、すぐに君を助けてあげられなかったんだ、ごめんね・・・」


 「・・・分からない・・・アンタが何を言ってるのか・・・」


 「そりゃぁそうだろうね、俺もビックリさ!こうして君と話が出来ているなんて・・・」


 男は彼女に興味があったのだと語る。そして、彼女が死のうとした時、男の“ここで彼女を死なせたくない“という強い思いが、彼女の身体を思い止まらせたのだと言う。


 思い返してみれば、妙なことは何度かあった。駅や道路で身を投げ出そうとした時、その寸前で何かに引っ張られるように身体が動かなくなったり、足がすくむことがあった。


 だがそれは、自分自身の死に対する恐怖からの反応だと思っていた彼女は、それが全てこの男のせいだと言われ、妙に腑に落ちてしまうところがあったのだ。


 「俺はずっと君を見てきた・・・。そして、こうして遭うことも出来た。俺は君の望むことが出来るよ?さぁ、何がしたい?」


 何を企んでいるのか、全く理解できない発言だった。しかし、目の前で起きた現象やこれまでの事を考えると、どうにも全く否定できる話でもないのかと、彼女は思い始めていた。


 もし男が言うように、何でも望みが叶うとしたら何がしたいのか。ふと我に帰って考えてみた時、彼女の頭の中に過ったものは・・・。


 「・・・復讐したい・・・。私を・・・私を貶めた奴らに・・・認めなかった奴らに・・・。私にこんな仕打ちをして来たこの世界にッ!」


 彼女は内から湧き上がる、怒りを込めた言葉を吐き出しながら泣いていた。


 どうしようもなく腐ってしまった人生を呪い、全てが嫌になった彼女を取り巻く世界に怒り、幸せなど程遠い真っ暗な未来に絶望していた。


 どうしようもなく溢れ出る涙の理由など分からない。だが、この胸の内にあるモノを、これ以上自分の中に留めておくことが出来なかった。


 人目など気にする素振りもなく、まるで赤子のように泣き叫ぶ彼女を見て、男は満面の笑みを浮かべていた・・・。


 「俺は“イル“と言う。ここではない何処かからやって来た、君の望みを叶える者だ」


 泣きじゃくる彼女に手を差し伸べる男。


 彼女は男の手を取り立ち上がると、導かれるようにして夜の街へと消えていった。


 翌日、その街では三人の男の変死体が見つかった。




 これは序章に過ぎない。


 アイドル志し、輝かしい未来へ歩み始めた彼女は、いつしか堕落しドス黒い憎悪の闇の中を歩んでいく。


 それが“片桐なぎさ“という物語の始まりだった。

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