懐かしき景色と安らぎの文字

 目の前で希望が絶たれることほど、心に堪えるものはない。残り少ない空気が、クトゥルプスの触手で更に少なくなってしまう。この一撃は今までのものとは違い、決してもらってはいけないものだった。


 ダメージだけ見れば然程大したことはないのだが、彼の気力を絶つには十分な一撃だった。それを皮切りに彼の中で生に対する渇望の糸が、プツンと音を立てて切れた。身体は動くことを止め、頭の中では走馬灯のようにこれまでの出来事が蘇る。


 その中には愛する妻と愛娘を失った、あの夜の光景も含まれていた。だが妙なことに、彼の中に蘇ってきた光景の中には、彼自身の記憶にないものも幾つか含まれていたのだ。


 しかし、今の彼にとってそんな事は取るに足らない出来事に過ぎない。薄れていく光景と共に、彼の意識が絶たれようとしていたその時、再び声の無い文字が彼の瞼の裏に現れる。


 “何処へ行くの?”


 何者かも分からぬその問いに、最早答える気力すら残っていない。ただその文字の羅列を眺め、漠然頭の中で何かを考えようと必死で意識を取り戻そうとしていた。それはまるで、作業に夢中になり本来達成しなければならない目的を忘れてしまったかのように、自分は何をしようとしていたのかを手探りで探す途方もないこと。


 “何をしに此処まで来たの?”


 眺めていた文字列が露へと消え、新たな文字が浮かび上がる。文字の語る“此処”とは何処のことなのか。チン・シーとロロネーの抗争繰り広げる戦場か、それともこの海自体か。


 質問のように投げ掛けられる文字に、彼の頭は徐々に物事を考えられるくらいに回復してきたようだ。彼に語りかけてくるこの文字は、一体何者なのか。思考に余裕の出できたツクヨは、剣を手にした時から何度か現れる文字の主について考えていた。


 “大丈夫、貴方は強いから・・・”


 貴方と呼ぶのは、ツクヨのことを知っているということだろうか。何故彼の強さについて知っているのか分からない。布都御魂剣を受け取ったのは、グラン・ヴァーグでロッシュの海賊船にシン達が忍び込んだ夜、その作戦の成功報酬としてグレイス経由でチン・シーから受け取った物。


 ツクヨ自身のことを知るには、期間が短いように思える。だが、文字が見え始めた

のは布都御魂剣を武器として使い始めてからだ。しかし、この現れる文字に“貴方”と語られることに、ツクヨの心は何処か安心とも取れる心の動きを感じた。


 “さぁ、意識をしっかり。剣を握って、意識を集中させて・・・”


 剣とは布都御魂剣のこと、意識を集中とは水面に降り立った時のように何かを思い浮かべることだろうか。だが一体何を思い浮かべればいいのか。残りの酸素も薄く、頭に送り意識を回復させるので手一杯の状態からどうすればいいのか。


 “その剣は貴方の想像を映し出す鏡。瞼の裏に貴方の景色を思い浮かべて”


 グレイス達はこの剣が意味のない物だと言った。だが、こうしてツクヨが手に取った時、剣は彼に不思議な力を与えた。彼だったからなのか、彼と同じくWoFの世界に入り込んだユーザーであれば同じことが出来るのかは分からない。


 恐らくこの布都御魂剣という武器は、この世界の住人では本来の力を引き出すことが出来ないのだろう。もしかしたら、こういった武器がWoFの世界には沢山あるのではないか。そんな事を考えつつ、ツクヨは今必要なもの、そして望む戦闘の環境を思い浮かべた。


 先ずは何よりも先に酸素が欲しい。呼吸が出来なければこのまま再び意識を絶たれてしまう。ツクヨは頭の中で、地上と同じように呼吸がしたい、酸素を身体中に送り込みたいと切に願った。


 しかし、願っても願っても状況は変わらず、このまま呼吸をしても大丈夫なのだろうかと不安になり始める。すると、瞼を閉じ真っ暗な視界の中に、再び文字が現れ彼の取るべき手段・手法を教授する。


 “願うのではなく、頭の中で貴方の知っている景色を思い浮かべるの。文字通り創造するように・・・”


 具体的な物を望んではいけない。先程のウユニ塩湖のように景色そのものを思い浮かべなければならない。そしてそれは、今彼自身がおかれている状況からかけ離れたものであってはならないのだ。


 呼吸が出来て宙に浮いている場所。ツクヨが咄嗟に思い浮かべられたのは地上より遥かに高いところ。幼少の頃に誰もが一度は想像したであろう、雲の上の景色だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る