きっかけの神様
明
第1話 日常
僕はとても平穏を愛している。
「平穏」
変わったこともなく、おだやかなこと。また、そのさま。
イレギュラーな事がない、全て想定内の穏やかな日常。
それはかけがえのない日。僕はそれが一番大事で貴重だと思っていた。
某ビルの地下1階。クーラーの音がやけに大きく聞こえる僕の部署。
PCに向かってネットサーフィンを楽しむサラリーマンが僕だ。
10畳ほどしかないこの居室に部長と同僚の後藤が
僕と同じ様にパソコンを眺めている。
室内は至極シンプルであり、机にノートPCが置いてあるだけで
棚やインテリア雑貨という類はない。
この殺風景な僕の部署は所謂「お荷物部署」である。
飲料メーカーであるこの会社だが、世間での知名度は中々のもので
業務量も多いと思われる中、お荷物部署と言われる所以は
部長が新規の仕事を請けない事が大きい。
そんな事が許される理由が僕には分からないけれど
「佐藤くん。最近楽しいことない?」
向かいの席に座っている部長が薄くなった頭髪を整えながら僕に言った。
「そうですね。特にないですね」
「いつもないよね。まぁオレもないんだけど」
部長は机から常備している炭酸飲料の入ったペットボトルを
いつもの様にラッパ飲みしゲップした後、満足げにPCへ視線を戻した。
動くたびに椅子が悲鳴を上げている。
「部長。今日またキャバ行きますよね」
「後藤くんも好きだね。いつものとこでしょ。行く行く」
隣の席で後藤がPCを観ながら言った。
PCには如何わしいサイトが映し出されている。
後藤は僕と同じで入社して数か月後にこの部署に回された。
清潔感のある顔立ちとスラっとした身長で入社当時は女性社員からちやほやされていたが、女遊びが激しい側面があり次第に悪評が増え女性社員も離れていった。
「佐藤も行くだろー」
白い歯を見せて僕に笑いかける彼に僕はいつもの様に右の親指を立てる。
後藤とはお荷物部署で一緒になって直ぐに
20代前半と歳が近い事もあって親睦が深まるのに時間は要らなかった。
人懐っこいその性格とリード力はお荷物部署に勿体ない人材であり
後藤をお荷物部署から引き抜く話も何度かあったほどだ。
その日、いつも通り定時で会社を後にした僕と後藤と部長は行きつけのキャバクラがある繁華街へ向かった。ビルが背比べをしている様なビジネス街から、無数の看板で埋め尽くさせている繁華街へ景色が一変してから直ぐ車が止まる。
「お待たせしました。着きましたよ」
「さてさて、またエミちゃん指名しようかな」
部長がご機嫌で車を出る。
雑居ビルの2階「キャバクラ恋歌」は安価で楽しめるキャバクラとして巷では評価が高く、在籍している女性も美人が多いため超優良店として有名だ。
後藤の紹介で僕と部長を連れて以来、水曜日と金曜日の週に2回通っている。
僕と部長はそれぞれお酒が入り、気持ちが良くなってから
暫くして後藤が会計を済ませた後お店を出た。
後藤の車の後部座席に乗り込んだ部長は顔を赤くしケラケラと笑っている。
僕もそれを見ながら頬を緩ませ助手席へ腰を下ろした。
「後藤くん。これ代金ね。」
部長が運転席に座っている後藤に紙幣を数枚手渡す。
「毎度ちょっと多いんですけど、部長太っ腹ですよね」
「ここまで運転してもらっているし、後藤くんは酒も飲んでないんだから当然だよ」
「あざす」
後藤が白い歯を見せて笑い。部長が黄色い歯を見せて微笑みを返した。
「部長、いつも僕の分までありがとうございます。ご馳走さまでした」
「佐藤くんも気にしない。僕部長だよ」
部長がまたケラケラと笑った。
その後、僕の住んでいるアパート近くまで後藤に送ってもらい満足感に包まれながらいつも通り最寄りのコンビニへ足を運ぶ。ここのコンビニは僕のお気に入りだ。
夫婦が個人で経営をしているらしい小さなこのコンビニ
「ミント」はとてもユニークである。
先ず、外観がカフェのの様に洒落ていてコンビニとは思えない。
そして店内には国内の食品から海外の飲料まで並んでいる。
他にも爽やかなミントの香りが店内を充満していたり
ところどころ置かれている猫のオブジェや、独創的な絵画などが飾られていて
独特な雰囲気を醸し出している。コンビニというよりも雑貨屋という感じだ。
僕のお気に入りは海外の炭酸飲料である。
ペットボトルに入ったどす黒い液体は人工甘味料がたっぷりと使われており
強烈な甘みで僕の脳を満たしてくれるソフトドラックだ。
これを手に取り真っすぐレジへ向う。
そして僕がここにくる一番の理由、それはレジの女性店員だった。
数か月前から顔を見るようになって、僕はその女性に惹かれていた。
ネームプレートは既にチェックはしており「新藤」と書かれている。
雰囲気が落ち着いている為か、20代半ば程に見えるが顔立ちは幼さを感じさせた。
長い髪を後ろで纏め、凛としている表情が接客業では珍しい。
一見クールそうに見える彼女だが、以前コンビニの前で野良猫の頭を撫でている所を偶然見てしまい、その優しそうな横顔にも胸を射止められた。
だからと言って、僕は声をかけてみたりはしないしする気もない。
自分でも気持ち悪いと思うが、平日の仕事帰りにこのコンビニへ寄って
彼女の顔を見るだけで満足なのだ。
事務的な彼女からシールの着いた炭酸飲料を受け取り、コンビニを後にする。
毎日の様に同じ飲料のみを買いに来る僕を彼女はどう思っているのだろうか。
アパートへ帰り、気分良く炭酸飲料の独特な香料を楽しんだ。
「今日も最高。平和。平穏。暇。安全。」
平穏なルーティン。これを僕はモットーにしており、僕の人生において
最も大事な価値観だと感じている。
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