進路希望

 その日、ぼくは中学の授業が終わるとすぐに外へ飛び出した。空はまだ青い。もくもくと立ち上がる夏の雲を追いかけるように走っていった。

 なのにバス停へ辿り着くまでの信号が全滅だなんて。きっと先日ウソをついたことへのバチが当たったんじゃないかと思うと、ぼくは気が気ではなかった。


 高校生のれんさんは、部活がない曜日はときどき市立図書館に足を運ぶ。予定がなければ今日がその日だ。

 ぼくたちは出逢って間もない。夏休みの終わりに連絡先を交換したばかりだけど、待ち合わせするか聞いてみるのは少しためらわれた。勝率の高い賭けがぼくの心をなぐさめる。

 蓮さんと直接顔を見て話したかった。


 ハズレだったらそれでもいい。ひとりで図書館に向かうだけだ。ぼくは何時間でも待つつもりで、ひたいの汗をぬぐった。背中をつうとしずくがつたう。

 バス停にやって来た他の学生たちも暑さに顔をしかめて手うちわであおいだりしている。ぼくは集団から少し離れて、目の前を車が次々と通りすぎていくのを見守っていた。

 やがて「市立図書館前です」のアナウンスの声と一緒に白いバスが近付いてきた。ぼくはハッとして車内の乗客へ目を走らせた。学生は何人かいるけれど、蓮さんらしき人は見当たらない。

 ぼくは列になって降りていく人々をよけて、うつむきながら次のバスを待つべきか自分の体力と相談していたところへ、


「あれ、陽一?」

「……あ、」


 蓮さんの声が、ぼくを呼んだ。バスカードを財布にしまいながらこちらへ歩いてくる人がいる。

 早めに来ておいてよかった……。ぼくはほっとしながら、もう一度額の汗をぬぐって背の高い先輩を出迎えた。蓮さんの帰りは一人らしい。夕陽を反射する白いシャツがまぶしかった。 少し笑った顔もなんでもまぶしかった。


「久しぶり。陽一も学校終わったのか」

「はい。蓮さんはこれから図書館ですか」

「そうだよ。予約してた本、借りに来たんだ。陽一も行くだろ?」

「はい。それと……」


 ぼくが図書館の前に話をしたいと言うと、蓮さんは近くの公園へ行こうと誘ってくれた。

 白いバスはもう出発してしまった。ぼくが追いかけてきた大きな夏雲の方向へ走っていった。

 バス停からも人がいなくなった。蓮さんはカバンからペットボトルのお茶を出してぐいっと飲むと、ほら、とぼくに手渡してくれた。これは、間接……などととまどう余裕はあまりなく、ぼくはありがたく水分補給させてもらった。

 外に出てからまだ1時間も経っていないのに、ぼくの体は暑さと緊張でだいぶカラカラになっていたようだった。蓮さんに逢えて安心したおかげか、もらったお茶は甘く感じられた。


 いまだ蒸し暑い公園は人気ひとけが少なく、 ぼくたちは木陰の下のベンチに腰かけた。飲み干してしまったペットボトルはぼくがあずかっている。


「で、突然なんだって?」


 軽快な声でたずねながら、蓮さんはベンチの背もたれに寄りかかった。何も心配事がないかのような明るい顔。うらやましい……と思いながらぼくは自分の心に薄暗いものがあることを理解して、少し気持ちが沈んだ。

 でも、今日は蓮さんにちゃんと伝えなくちゃ。だからここに来たんだ。


 ぼくは顔を上げた。蓮さんはちょうど逆光の位置にあって、少し体をずらしてぼくがまぶしくないように、陰をつくってくれた。


「この間、蓮さんに付き合ってる人はいるのかって聞かれた時に、ハイと言ったの、あれはウソなんです」

「まあ、そんな気はしてたぜ」

「えっ」


 なんでもないことのように返事をされて、ぼくはきょとんとしてしまった。蓮さんは「ああ、あれね」と思い出したように言って、片手を出してひらひらさせた。


「だって陽一、あの後おれが手をつないだら嫌がらなかったじゃないか」



 ――図書館に行く時くらいしかぼくたちは顔を合わせる理由がなかった。ぼくは受験だし、先輩は学校が違うから、二人は異なる世界に住んでいた。

 でも帰りに公園でアイスを食べながら、夕飯までだらだら過ごす時間が好きだった。

 やがて刻限が迫ってくると、隣にいる人と離れるのが強く惜しまれる。


 蓮さんのことを意識するようになってすぐ。数日前のことだ。ぼくたちはいつものように図書館でそれぞれの本を手にして、帰り道、蓮さんに質問されたのだ。付き合ってるやつはいるのか、て。


 その時のぼくは、ふと魔が差して首をタテに振った。もしも蓮さんがヤキモチを妬いてくれたら……、こっそり希望を抱いてしまった。先輩の表情をうかがうと、やっぱりにこにこして「ぼくたち」のことを祝福してくれた。


 でも、尊敬している人へウソをついたことの後悔がぼくの心を占めた。


「……あやまりたかったんです。先輩を試すようなことをして……」


 蓮さんはじっとぼくの話を聞いてくれていた。一度目を閉じて、深く息を吐くと、


「いいよ。おれも、年上のふりして笑顔になってたけど、じつは陽一が『ハイ』って言ったの聞いてすげえびっくりしたんだぜ。どうしよう、と思って……手が出ちまった」


 大人げないだろ、と蓮さんははにかむように笑った。見たことない顔だった。

 ぼくは、あの日の別れ際、蓮さんの手に触れられた時の温かさを思い出した。先輩の笑顔を訂正するすきがなく、何も言えずに帰ってきてしまったことがずっと気になっていた。もやもやした心は、もう溶けてなくなってしまった。


「陽一、話してくれてありがとうな。おまえは勇気があるよ」


 先輩のあたたかい声が耳に染みこんだ。

 今日ぼくはもうひとつ伝えたいことがあったので、今度は穏やかな気持ちで言うことができた。


「蓮さん。ぼく、蓮さんの高校で進路希望出したんです」

「お、マジで? 陽一がうちに来たら今度はおれが受験生になるから、あんまり遊べなくなるかもしれないな」

「いいんです。学校のどこかですれ違えたら、それだけで嬉しいから」

「おまえ……奥ゆかしい奴なんだな……」


 蓮さんが、むむ……と眉根を寄せると、傾いた夕陽がちょうど視界に入ったので、ぼくは思わずぎゅっと目をつむってしまった。


「あ、陽一、蚊が飛んでる」

「痛って!」


 蓮さんの声が聞こえた直後にぺちん! と小気味良い音を立ててほおを両手で挟まれた。

 痛みと同時に唇にやわらかいものが触れる。あの時の蓮さんの手の温かさと同じだ。

 ぼくたちはしばらくお互いの呼吸の音を聞いていた。周囲に響いていた蝉の声がだんだん小さくなっていく。


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