源氏物語『雲隠』捕逸

 小木曽鉄陽(著)

 偽計社東洋文庫


 現存する世界最古の小説と称される紫式部の『源氏物語』。

 この作品は五十四帖の巻名で区切られていますが、中には巻名のみで内容が現在に伝わっていない巻が存在します。

 第四十一帖『雲隠』がそれです。次の四十二帖からは物語の中心人物がそれまでの主人公だった光源氏の次世代に移り、すでに源氏は世を去っていると説明されていることから、源氏自身はこの『雲隠』の章で世を去ったと推測されてきました。

 

 研究家の間で焦点となっていた問題は、この『雲隠』が現在では散逸してしまったものなのか、あるいは最初から巻名のみで本文は存在しなかったのかという部分です。


 ①巻名のみで、あえて光源氏の死を描かないという表現方法だった

 ②実在はしたが、認定された人間のみ閲覧できる『秘伝』とされ継承者が途絶えてしまった

 ③実在はしたが、光源氏の死を悲しみ、現実で出家の道を選んだ女性が続出したことから、帝の命により封印されてしまった。


 上記のような内容がこれまでも唱えられて来ましたが、「これらの論争に終止符を打つ」として昭和五十年に刊行されたのが本書です。

 著者の小木曽鉄陽は、「実在する」説の論者でしたが、本書で述べられている内容は奇想天外なものでした。

 『雲隠』本文は、それまでの四十帖の文字をピックアップしてまとめると完成するというのです!


 「源氏物語全文を精査した結果、紫式部の文章には統一性というか、一種の美学のようなものが存在する。ところが各章に数箇所ずつ、その傾向とは異なる単語の使われ方がされている部分が見受けられる。それらの単語をまとめ、並べ直すと、『雲隠』本文が完成する」 (本書冒頭より抜粋)


 この発見は一大センセーションを巻き起こし、小木曽氏は一躍、マスコミの寵児となりました。

 しかしながら、当の日本文学界からの反応は芳しいものではありませんでした。以下に記すのが、小木曽説に対する否定的見解です。


 ・そもそも大前提とされている「紫式部の美学」というものが曖昧な表現でしか規定されておらず、小木曽氏がでっちあげた適当な基準と言わざるを得ない


 ・各章からピックアップした単語を順番通りに並べるならまだしも、並べ直して文章を作っている。これでは好き勝手に文章を創作できてしまう


 ・完成した『雲隠』の文面は光源氏が死を迎えるという予想されていたものと同じ内容だが、そもそも源氏物語は死去の場面がいくつか記述されている物語であり、源氏の名前も当然、あちこちに書かれているので、各章から適当に単語をピックアップすれば、それらしい文面が出来上がるのは当然である


 これらの反論にも臆することなく自説を主張し続けた小木曽氏でしたが、昭和六十年、あるコンピューターエンジニアが、「源氏物語の全文をランダムに読み込み、適当な文章を作成することができる」ソフトを発表した直後に白旗を掲げ、学会を去りました。


 後年のインタビューで、氏は次のように語っています。


 「くれぐれも誤解していただきたくないのだが、私は学会を騙すつもりも、インチキ本で印税を稼ぐつもりもさらさらなかった。あのときは真剣に、私の方法で『雲隠』を復元できたのだと信じ込んでいたのだ。真摯に研究に取り組んできたつもりが、どこで横道に逸れてしまったものか、今でも不思議でならない」


 実際、氏は本書を発表するまで精緻な分析で知られる古典文学研究の第一人者として尊敬を集めていた碩学であり、現在でも、彼を詐欺師と見なす向きは少ないようです。

 本書はインチキ本の類というより、有能な学者でも道を踏み外すととんでもない珍説を支持する愚行に至ってしまうという教訓の書と言えるでしょう。



(このレビューは妄想に基づくものです)

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