「月が綺麗ですね」と夏目漱石


 安形幸平 (訳)

 偽計社文庫


 ネットを中心に出回っているフェイク情報の一つに、「夏目漱石が『アイ・ラブ・ユー』を『月が綺麗ですね』と翻訳した」というものがある。実際のところ、漱石が外国文学を手がけていたのは確かだが、それらの作品を紐解いても、該当する翻訳には行き着かないらしい。 


 では、こうした「伝説」が流布されるようになったのは何時ごろからで、きっかけは何だったのか?本書はその疑問を漱石研究の第一人者である著者が解き明かすというものだ。


 著者が着目したのが、漱石と同時代に活躍した英米文学翻訳家の但馬数乃丈(たじまかずのじょう)という人物。子爵家の跡継ぎでもあった但馬は自他共に認めるプレイボーイであり、浮名を流した女性との間に大量のラブレターを残している。こうした手紙の大半は後世に伝わらないものだが、但馬の遺品の中には書き損じと思われる紙片が何通か混ざっていた。その中に、ドイツの文豪について語った文章が見つかったのだ。


 「ゲエテの記した黄金の夜といふ小文に、女性を名月にたとへる一文があるそうでせう。君も私の名月だといへば、お笑いになるでせうか」


 ちなみにゲーテに「黄金の夜」という作品は実在しないので、この下りは相手の関心を惹くために但馬が使った方便と思われる。

 この手紙の内容が何らかのルートで有名になり、作者が漱石と混同されてしまったという経緯なのだろうか。追跡調査の結果、驚愕の事実が発覚する。

 上記の内容とほぼ同じ文面の手紙が、漱石の遺品の中からも発見されたのである。あの文句は、但馬から漱石に寄せられた言葉だったのだ!


 但馬の手記の中には、彼が現代で言うバイ・セクシャルではなかったかと思われる記述が散見される。森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』を例に挙げるまでもなく、当時は戦国時代~江戸期まで連綿と受け継がれていた男色文化が色濃く影響を残す時代だった。 漱石自身が男性愛者であった可能性は少ないものの、但馬からの愛の告白に感銘を受ける部分はあったかもしれず、この表現を講演会か何かで借用したのかもしれない。結果、言い回しが変化したものが漱石自身の創作として後世に伝わったのではないだろうか――というのが、著者の推論だ。


 ほとんど結論を語ってしまったが、それでも本書の魅力は損なわれるものではない。但馬数乃丈という、現代では忘れ去られてしまった文学者に着目、彼の遺品からヒントを手に入れる著者の嗅覚は、フィクションの名探偵を髣髴とさせる鋭さだ。著者の思考をなぞって行くだけでも、充分に心躍るミステリーとして楽しめることだろう。


 

(このレビューは妄想に基づくものです)

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