夏草千里

小嶋春王 (著)

ミュンヒハウゼン文庫


 本書は独房で日々を過ごす死刑囚が、もう出歩けることはない外の世界について想いをはせるエッセイです。

 果てしない草原、白い雲、風に揺れるタンポポの綿毛……少年の日の追憶も交えながら、著者は外界の温もりに心を巡らせ、ふいにそれらがもう手を触れることもできない幻に過ぎないと我に返って涙します。


 問題は、本当のところ、彼が死刑囚でも何でもないという点です。

 著者の小嶋氏は、自室に閉じこもっている引きこもりというわけでもありません。世間的には社交的な性格として知られているエッセイストで、数々の賞をものにし、ラジオやテレビにも時折出演しています。

 それでいて、彼は時折、自身が捕らわれの死刑囚であるという妄想に包まれるのです。

 社会で受け入れられている自分は夢を見ているだけに過ぎない、と。眼が覚めると本当の自分は狭い独居坊に横たわっていて、明日訪れるかもしれない執行日に怯える重罪人に他ならないのだと。周囲の人たちがいくら説得しても耳を貸さず、「夢から覚めた」つもりになって同書を書き続けています。


 どうしてこのような妄想が彼を苛んでいるのでしょうか。成功している自分への罪悪感?世界の成り立ちに対する不安の表象化?余人には全く窺い知れません。

 もっとも、彼の懸念が完全に的外れなものではないのも確かな話です。人間誰しも、いつ訪れるか定かでない死に怯え続ける死刑囚であることは間違いではないのですから……

 

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