74 月女神の魔弓

 よく晴れた夏の空を綿菓子のような雲が切り取る。雲の額縁に収められた蒼空をぼんやりと見つめながら、男は左足をさすっていた。

 今はよく晴れているけれど、夕方には通り雨が降るのだろう。古傷は天気予報より早く空の変化を教えてくれる。


 不意に日が翳り、もう雨が降るのだろうかと思いきや、見知った顔が上から自分の顔を覗き込んでいることに気付いた。


「……相変わらず、憎たらしいぐらいに若々しいのね」


 柳眉を顰めて吐き捨てると、招かれてもいないのに向かいの席に座る。貴族の家庭教師のような襟元までカッチリとしたドレスに身を包んだその女性も、世間的には憎たらしいぐらいに若々しいのではないかと思う。


「おかげさまでね。まぁ私は来年役目を引退するから、来年の今頃は白髪混じりのイケてるおじ様になっているだろうね」


 午後の日差しが落とす新緑の濃い影の中、彼女は「イケてるおじ様ねぇ……」と鼻で笑い飛ばす。

 ちょうど昼時の混雑が解消した頃で、大学の構内にある喫茶店のテラス席は閑散としていた。店員は彼女が入って来たことさえ気付いていない様子で、注文を取りにも来ない。


「何か頼むかい?」


 気を利かせてみたものの、彼女は首を横に振る。形の良い唇を引き結んで、目の前の男を見つめていた。

 テーブルの上に雲の影が流れて、ティーカップの中の紅茶に溶ける。すっかり温くなった紅茶は渋味を増したように思えた。彼女は何もいらないらしいが、自分が頼む分には良いだろうと、辺りを見回し店員を探す。


「私ね、グランシアの研究所に呼ばれることにしたの」


「本当かい? すごいね! 君は昔から優秀だったからね……専門は違うけれど同期として鼻が高いよ!」


 店員を探していたことも忘れて、興奮気味に賛辞を贈るが、彼女の表情は少しも緩まない。更に翳ったようにさえ見える。


「……エリオット、私と一緒に来ない? 私なら貴方の足を治せるわ」


 真っ直ぐな瞳に射られて、エリオットは一旦答えを飲み込んだ。自分の記憶が正しければ、彼女には夫と子が居た筈だ。渋い紅茶に砂糖とミルクを入れて、疑問と共に無理やり流し込む。


「やめとくよ。暑いのは苦手なんだ。それに……娘とレグルスが寂しがるからね」


「ふふ……貴方はそう言うと思った。嫌な男ねぇ。一回ぐらい私の誘いに乗ってくれてもいいじゃない。――またあの人に負けるだなんて」


 寂しそうに、けれどどこかホッとしたように彼女は笑う。


「向こうに着いて落ち着いたら、手紙をくれよ。ついでに面白い古文書があったら送って欲しいな! ああ、住所はね…………あれ?」


 エリオットが鞄から紙と鉛筆を取り出して顔を上げると、そこに彼女の姿は無かった。まるで、最初から誰も居なかったかのように、いつもと変わらない穏やかな昼下がり。


 空が映る紅茶を飲み干して、遠い異国の空に思いを馳せる。

 ――君は自由になれたのだろうか。


「――どうか幸せに。ヴェロニカ」


 それを最後に、ヴェロニカ・ラッセルの姿を見た者は居ない。




 ***




 睥睨する九つの首を睨み、フィリアスとライルは持てる全ての魔力を解放した。


 フィリアスの右腕の籠手と袖が炎熱で弾け飛び、露わになった右腕には火神の炎の御印みしるしが燃え上がる。右手に握った槍は劫火を纏い、炉から取り出したばかりのように赤く燃えていた。

 その隣ではライルが雷を呼び、高く突き上げた槍に稲妻が走る。バチバチと青白い火花を散らし、雷を帯びた槍は紫紺に光る。


 勝負は一投。ヒュドラを仕留めた方が勝ち。もし双方が仕留め損ねた場合は、落とした首が多い方が勝利となる。とても単純で明快なルールだ。


「「勝負!!!」」


 渾身の力で投擲された二条の光の槍は、風を裂き蒼空を焼き焦がす。それぞれ四本の首を焼き斬ったが、残る一本は槍も魔法も通さずに弾いた。八本の首を失いながらもヒュドラは鎌首を擡げ、嘲笑うかのように牙を剥く。


「マズイな。祖神に誓って言うが、俺は出し惜しみはしていない。今のが最大火力だ」


「悪いが俺も大技使い過ぎて魔力切れだ。魔法も槍も弾くなんてな……」


 魔力切れでへたり込む二人を目掛けて、残る一本の蛇の首が急襲する。大きく開いた口から毒液が噴出されたが、駆けつけたディーンの風の盾によって弾かれた。

 ヒュドラはすぐさま狙いをディーンに切り替える。苛ついたように長い尾を地面に打ち付けて、弾みをつけると大口を開けて丸呑みせんと肉迫した。


「これは蛇じゃない。デカ過ぎるからたぶん竜。竜だからセーフ。蛇じゃない。蛇じゃない……」


 追い付いたヒースがブツブツと呟きながら、ヒュドラの柔らかい口の端の皮膜に斬りつけ筋を断つと、ヒュドラは長い胴体をもんどり打って暴れ出した。筋を断たれ閉まらなくなった口からだらしなく舌を垂らす。


「よくも追い回してくれたな?」


 その隙を逃さず、ディーンは地を蹴りヒュドラの口内に腕を入れて上顎に剣を突き刺した。悲鳴に代わって撒き散らされる血と毒液がディーンの風の鎧をジュウジュウと焼き焦がす。


「我が祖神。神域の守護者。天つ風と蒼き炎を纏いし戦神よ。我が剣に宿りて勝利を導け!――風よ、荒れ狂え!」


 突き刺した剣に緑の光が宿り、ヒュドラの口中で爆発的に巻き起こった風が上顎を吹き飛ばした。放り出されたディーンは空を蹴るように空中で態勢を整えて剣を振りかぶる。


「終わりだ、化け物」


 天駆ける戦神の鉄槌が振り下ろされたその瞬間、銀の光が天を突いた。




 ***




 猛毒の雨の中、風の盾を展開したまま第一部隊は地下道の方へじりじりと後退し始めていた。石柱が並ぶ地下道への退避が済んだら壁を崩して地下道と空洞を切り離す作戦のようだ。


 毒が風の盾を焦がす不気味な音が響く中、私は小さくなった空を見上げる。地上までの距離は約五十メートルだろうか。狙い撃てる距離だが、下手に手を出してこちらに注意を向けてしまえば、部隊の皆を危険に曝してしまう。


 迷う私の視界に突如、流星のような二条の光が走り、ヒュドラの首を根元から斬り裂いた。直後、構えた盾ごと吹き飛ばしそうな爆風が巻き起こり、焼け焦げた蛇の首が目の前にボトボトと落ちてくる。


「何が起こってんスかーーー!?」


「くっっっっさ!!」


「ぎゃあああ気持ち悪い!!」


「喧しい! 巻き込まれたくなかったら、盾を下ろすな!」


 騒然となる部隊を一喝してヴェイグさんは空を睨む。爆風に巻き上げられた土煙の中に、ゆらりと持ち上がる一本首を視認して舌打ちした。


「火神の炎槍に耐えるとはな……」


「どうする兄さん? 木の根で縛って一時的に動きは止められるけど、あいつが餓死するまで僕らが付いているわけにはいかないでしょう?」


 ――ヒュドラの首は九本。剣で斬れば倍になって生えてくる。再生が早い反面、その分燃費が悪くて大喰らいだ。だから首が生えて来ないように斬った部分は焼かなければならない。

 だが最後の一本だけは剣も魔法も効かないんだ。じゃあ、どうやって倒したかって? それは……――


 子供の頃、なかなか眠れない私のために、父さんが得意げに語ってくれたホラ話を思い出す。足を怪我したのはヒュドラのせいじゃなかったけれど、あの話にはいくつかの真実が混じっていた。

 きっと、全てはこの時のために。勇者エリオットの戦いを引き継げるのは私しかいない。


「私が撃ちます。ヒュドラの最後の一本の首は魔法も剣も通さない。でも、相手が牙を持ち獣に属するものなら月女神の魔弓は届きます」


 幸い残る首は一本で、地上の敵に気を取られている。今なら撃てる。いや、撃つしかない。


「私にやらせてください! お願いします!」


 隊長のヴェイグさんと、今なお身体を張って毒を防いでくれている隊員の皆さんに向けて頭を下げた。


「総員前進! 射撃位置までセリアルカを援護する!」


 その号令がヴェイグさんの答えだった。部隊の皆さんも明るく応じてくれる。


「まったく……危ないことばっかりするんだから」


 アルが私の握る古ぼけたトネリコの弓に触れると、息を吹き返したように新品同様に艶とハリが出た。驚く私の額に口付けて祝福すると、当代の月神セシェルは微笑む。


「君ならできるよ。ヒュドラ退治は得意だろう?」


「うん。ありがとう!」


 私を援護する第一部隊は、猛毒の雨を掻い潜り射撃地点まで移動する。ヒュドラの巨体に翳る中天を睨み、私は弓に矢をつがえた。

 狙うのは鎌首を擡げた首の付け根。ヒュドラの心臓アルファルドだ。私は大きく胸を開き矢を引き絞る。


「宵の空に漕ぎ出づる銀の御舟。星の海を往き金の森に寄する銀花よ。我が弓矢となりて、悪しき魔獣を討て!」


 空に煌めく白刃がヒュドラの上顎を吹き飛ばし、ヒュドラの注意が完全に逸れたその一瞬。


「これなるは月女神の魔弓。神殺しの一撃也」


 地の底から放つ銀の矢は、ヒュドラの心臓を撃ち抜いて蒼天を穿つ。森に落ち、今は神話の中に概念としてのみ存在する銀月の矢は、月女神の祝福を残して空に消えた。

 地上に、空洞の中に、銀の月光花が降り注ぎ、あらゆる毒を吸い出して紫色に変色しては消えていく。その儚くも美しい光景に誰もが見入っていた。


「ねぇ、勝算はあったの?」


 私の隣で空を見上げ、月光花の花吹雪を浴びながらアルが尋ねる。


「もちろん! ……って言えたらかっこいいんだけどねぇ」


 素直に白状すると、アルは声を上げて笑い出した。緊張の糸がぷつんと切れて、つられて私も笑い出す。


 どちらからともなく手を繋いで、なかなか降り止まない花の雨に隠れて短いキスをする。空洞の上からヒースにバッチリ目撃されたことを知るのは、もう少し後のことだ。

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