62 薬草マスクと充電

 傷口に効くという数種類の薬草を煎じた湯にタオルを浸して、ちょっと熱いかなぐらいの温度で取り出す。軽く絞って粗熱を飛ばすと、そっと顔に乗せた。


「あああー……効っくぅぅー……」


 じゅわっと毛穴が開いていく感覚に、私は思わず唸った。爽やかな薬草の香りが鼻に通りスッキリと心地良い。金月と森の神様セシェル直伝の処方だけあってよく効く。


「ちょっと! オッサンみたいな声出さないでよ!」


 リラックスしきったところに、尖った声が耳を刺す。

 せっかく良い気持ちだったのに……。

 渋々顔からタオルを退けると、私と同様にタオルで身体を拭いているラヴィアがムスッとした顔で睨みつけていた。


 仕方なくもう一度タオルを薬湯に浸して、今度は身体を拭く。引っ掻き傷がピリピリと滲みたが、元々の自然治癒力が高いせいか、既にかさぶたになっていた。

 目の前のテーブルの上には、肩と腕の部分が破れて血と狼男の唾液が付着したシャツが雑に脱ぎ捨ててある。


『ねぇ、セラ? どうして傷だらけなの? それに、僕の知らないヤロウの臭いがするのは何故なのか、僕に分かるように説明してもらえるかな? 場合によっては相手を見つけ出して速やかに抹殺しなくてはいけないよ?』


 いや、それ場合とか関係無しに抹殺しに行くパターンでしょう? と思いつつ、鼻が利き過ぎる彼には隠してもいずれバレる事だからと素直に話したのだが……。

 笑顔がどんどん冷えていく様は、なかなかのホラーだったな……。


『とりあえず、なんでも良いから着替えようか。君の血の匂いは刺激が強過ぎる…………それにしても、一体どこのどいつだ? 僕だってまだそんな特殊なプレ……いのに』


 後半ぶちぶちと不穏なセリフを吐いていた気がするけど、たしかに彼の言うことにも一理ある。ベタベタするし臭いも気になる。

 ラヴィアもマントの下はよそ行きの綺麗なワンピースだったが、一連の騒ぎで破けてぼろぼろだったので、近場の店に入りそれぞれ適当な服を購入したのだった。


 その後、ディーンとフィリアスが戻って来たかもしれないと、先程の喫茶店に戻るも、二人はおろかヒースとエリーも駐屯地に行ったまま未だ帰って来ていなかった。

 店主に事情を話すと、快く休憩室を借してくれたので、着替えついでに身体も清拭して、今に至る。


「はぁ……狼男って見た目は美男だから付き合うには良いけど、結婚って考えると無いわー」


 隣で着替えながらぼやくラヴィアの声に我に返る。


『へ〜え、君のせいでセラが怪我したの? ふーん、そうなんだー』


 あの時のラヴィアの怯えようは哀れな程だった。まぁこれでアルへの未練も綺麗サッパリ消し飛んだことだろう。

 そもそも、つがいがいる身で余所見する方もどうかと思うけど……。と言外に目で訴えてしまったようで、ラヴィアは「何よ! こっち見ないで!」とぷりぷり怒り出した。


 一時共闘ということになったものの、余程馬が合わないのか、事ある毎に意見がぶつかる。正直、先行きに不安しか無いけれど、彼女は彼女で大事な番を人質に取られているのだから不安に押し潰されそうになって気が立っているのかもしれない。


 まだ詳しい話は聞けていないけれど、レナリスが考えていたよりもずっと、ラヴィアはレナリスを思っているような気がする。

『私はただ、彼を自由に……』

 もしそれがラヴィアの本当の目的だったとしたら、これは二人がすれ違ったまま、それぞれの願いを追い続けた結果なのかもしれない。二人に必要なのは番の絆を断ち切る薬じゃなくて、お互いの思いを話し合う時間だった。


 私は大きくため息をついて、タオルを洗濯籠に突っ込んだ。紙袋から真新しいシャツを出して着替えていると、控えめなノック音が部屋に響いた。


「セラ? 着替え終わった?」


 ラヴィアが準備万全と頷いたので「終わったよ!」と答えると、待ち構えていたかのようにアルが扉を開ける。


「あ……う……」


 入り口の近くに居たラヴィアが何か言いたげに口を開いたが、アルはにこりともせず顎で外を示すと「兄さんが待ってる」と短く告げた。

 項垂れて部屋を出て行くラヴィアを見送って、私は裏表の激しい狼男の頬を思いっきりつねった。


「いっ……痛い!」


「お〜ま〜え〜は〜……お願いだから、もう少しだけ優しくしてあげて」


 涙目で抗議するアルに、レナリスが実験台されたかもしれない事を小声で告げると、ラヴィアが出ていった扉を見つめて肩を落とした。

 口では『他の群れの狼のことはどうでもいい』なんて言っていたけれど、アルなりにレナリスを心配していたのだろう。


「……わかったよ。君がそう言うのなら。でもやっぱり、君はお人好しが過ぎると思うよ」


「その分君が疑ってくれるのだから、別にいいじゃないか」


 一瞬きょとんとした顔をして、アルはやれやれと首を振った。まんざらでもなさそうに。


「君の厚い信頼に、益々人間不信になりそう」


「ふふ、嬉しいくせに」


 ニヤニヤ笑いで返すと、アルは唇を尖らせて不満そうだ。


「君のその顔、先生にそっくりだ。……かわいいけど」


「えっ、かわいい? 父さんが?」


「はぁ……察しが良くて助かるよ」


 軽口を叩きながら手分けして借りた桶やタオルを綺麗に洗い、洗濯ロープを張って干す。椅子やテーブルを拭いて元の位置に戻して片付けを終了した。

 ボロボロになった服は、狼女の血が付いているから燃やして捨ててもらおうと空の紙袋に入れて纏めていると、不意に背後から伸びてきた手が私の指を絡め取る。


「これはダメだよ。燃やして捨てる」


 どきりと心臓が跳ねる。真後ろまで忍び寄っていたのに、物音も気配も感じなかった。私が身を固くしたのが分かったのだろう。茶化すように、ふふっと零した吐息が耳朶をくすぐる。


「大丈夫。わかってるよ。……ごめん。少しだけ待って」


 アルは椅子を引き寄せて腰掛けると、私を膝の上に乗せた。苦しげに歪むエメラルド。呻くように発せられた言葉は頼りなく、私の肩に顔をぐりぐりと押し付けながら抱き竦める。

 私は彼の絹糸のように綺麗な白金の髪に頬を寄せて、暫し瞑目した。


 昔もよくこうして理由も告げず強く抱き締められることがあった。人形かぬいぐるみにでもなった気分で最初は困惑したけれど、とても辛そうな顔をするから何も言えず、されるがままじっとしていた。


 彼にとっては心をリセットするための大事な儀式なのだろう。その後は、いつも通りのアルに戻ると経験的に知っている。

 思えば、昔から私たちの間にはそういった声にならない言葉があった。


 干した洗濯物からぽつりぽつりと雫が落ちる。見えない、聞こえない声が一粒一粒降り積もっていく。

 大人になるにつれて声で伝えられることが増えた筈なのに、伝えたい思いはどんどん複雑化していく。今この時の思いを、私は言葉にできない。きっと、アルもそうなのだろう。


 お腹の上に回された腕がきつくて彼の胸に寄り掛かり顔を見上げると、先程よりも力強い澄んだ瞳が見つめ返す。『もう大丈夫』そう言われた気がした。


「さて、そろそろ戻ろうか。みんな帰って来たかな……」


 彼の膝から立とうとしたその時、ぐらりと大地が揺れて膝の上にまたすとんと逆戻りした。今までで一番大きな揺れに、木造の小さな店は軋み、椅子やテーブル、飾り棚がボードゲームの駒のように床を滑った。


 こちらに倒れそうに傾いた木造の戸棚が、アルの魔法で壁に縫い付けられてホッとしたのも束の間、ゴゴゴゴと地鳴りが地面の下を近付いて来る。座っていたからか、今度は私にも何かが動いているのが分かった。だが地鳴りは店の地下を通り過ぎて、どこかへと去ったようだ。


「今のは……?」


 呆然とアルに問いかけて、まだ彼の膝の上に居た事に気付いて、慌てて飛び退いた。私の反応に苦笑しながら、アルは影に呼びかける。


「見えたか? オリオン」


 アルの影からずるりと這い出た大きな魔狼は、アルの足元にお座りすると自信無さそうに首を傾げた。


『まものもどき。くさい。まずそう。まずい』


 この街の地下には何かが潜んでいる。ライルが言うには、それは徐々に力を増しているという。そしてオリオンが言うには、魔物もどきだという……。


「うーん、わからん。ライルにもう少し詳しく聞いてみようか。それに、ラヴィアの聴取の結果も気になる」


 ――その時、別の場所で起きていた事件を私たちが知るのは、もう少し後のことだ。

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