61 路地裏の冒険

 家屋や店舗の間を縫うように、人ひとりがやっと通れるような狭く薄暗い道が街の深部へと続いていた。


 表通りは食べ物屋だろうか、換気口から吹き出す食べ物の匂いに和んだかと思えば、段々と饐えた腐敗臭が混じり、やがてカビや下水の臭いに変わっていく。

 奥へ奥へと進む毎にきつくなる生活臭に、私の嗅覚は早くも降参していた。ディアナが居なかったら、まともに追跡できなかっただろう。


 前を走るディアナが小さくひと啼きすると、突然猫のように塀に登ってこちらを振り返る。私が追いかけて来た事を確認すると、そのまま塀の上を器用に走った。


 塀の上を走りながら下を覗き見れば、壁の落書きに混じって麻痺毒の噴出する魔法罠が仕掛けられていて、そのすぐ側にはボロボロのマント被った男たちが物陰に蹲っていた。

 何らかの薬物の影響だろうか、蒼白く痩けた頰に妙にギラついた眼は血走っていた。ガチガチと歯を鳴らしながら無言でこちらを見上げる姿は異様だ。


 ぞわりと肌が粟立つ。

 本当にこんな所を女の子ひとりで入っていったのか?

 疑問は膨らむけれど、前を行くディアナの足取りは迷いが無かった。今はディアナを信じるしかない。


 いくつかの角を曲がり、いくつもの罠を躱して走り続け、地図にあった浄水場の建物が見えてきた頃、ようやくディアナは足を止めた。


 どうした? そう声を掛けようと視線を落とした瞬間、すぐ近くから若い女の悲鳴が聞こえた。


「きゃああ! 放してよ! アンタたち、お母様に言いつけてやるから!」


「ははは! お嬢様が言いつけてやるってよ!」


「どうせ誰も来やしないんだ。騒ぐんじゃねぇよ! 牙付きの狼女を誘き出したなんて嘘だろ」


「嫌あああ! や……めて! 嫌ッ!」


 身を潜めて声のする方を窺うと、二人の男たちが暴れるラヴィアを押さえつけ、乱暴しようと服に手をかけていた。


「……ッ!」


 今すぐに救い出したいのをグッと堪えて隙を探る。

 彼女だって狼女だ。抵抗できない筈がない。――相手が普通の人間の男ならば。

 それに、まだ彼女を信用して良いのか判断がつかない。これが私を誘き出すための演技とも限らないからだ。


「まだ分らねぇみたいだから教えてやるがよぉ、アンタとっくに見放されてんだよ。牙が抜けた狼女に価値は無いって」


「アンタの番もかわいそうな奴だよなぁ。主人に裏切られて実験台にされるなんて」


「なん……ですって?」


 彼女の表情までは見えなかったが、震える声に動揺が見えるようだった。

 レナリスが実験台に!? それじゃあ、彼は人間に戻れたのか?


「はははは! 良かったな、適材適所ってやつだ。戦えない狼でも、これからは素材として多くの人の役に立つさ」


「そんなっ……嘘よ! お母様は、レニを助けてくれるって……私はただ、彼を自由に……どうして……」


 ラヴィアの嗚咽に男たちの下卑た笑いが重なる。

 そこまで聞けば充分だった。――充分に、彼女を助ける理由になる。


『どうする?』


 日が差すことの無い建物の谷間。深く濃く蟠る闇が問う。


「私が注意を引く。その隙に彼女の身柄を確保してくれ。目的を達成したら全速力で逃げる!」


『了解。無理はするなよ』


「わかった」


 ――おそらく、どちらかは狼男だ。

 ラヴィアの悲鳴に、暴力的な欲求を向けられた時の恐怖がまざまざと甦る。身体に纏わりつく怖気に呼吸が止まりそうだ。


 私は弱気を斬り捨てるように短剣を抜き払い、天に掲げた。剣身に彫られた蔦の模様に風の魔力が通り、木漏れ日に萌える新緑のような輝きを放つ。


「シュセイルの祖神、神域の守護者、天つ風と蒼き炎を纏いし戦神よ。我が剣に宿りて勝利を導け!」


 請願に応え、凄まじい突風が上空から吹き下ろした。狭い路地を圧縮された風が吹き抜ける。


「狼女ならここに居るぞ! 私の牙が欲しいのなら奪いに来い!」


 私の身体を掠める追い風に、狼女のにおいが届いたのだろう。ラヴィアを押さえつけていた男たちが振り返り、目の色を変えた。


「へへ……牙無しでも役に立つことがあるんだなぁ、本当に来やがった」


 男はラヴィアの髪を掴んで立たせて、その首にナイフを突き付ける。白い喉を露わに歯を食いしばるラヴィアの瞳は、私への嫌悪かもしれないけれど、強い光を灯していた。


 まずはあの男の注意を引いてラヴィアから引き剝がさなければならない。そう考えて、交渉する気があることを示すため、短剣を鞘に納めようと鞘に手を掛けた瞬間、静かだったもうひとりの男が唸り声を上げて飛びかかってきた。

 どうやら、こっちが狼男だったようだ。私は舌打ちしながら横跳びで躱し、短剣を構えた。


「おい馬鹿! 待て! 大事な商品だろうが!」


 ラヴィアを捕らえている男が慌てて声を荒げるが、狼男にはもはや聞こえていないようだ。


「グゥウウウウ……」


 私が立っていた場所の地面を深く抉り、低く唸りながら立ち上がるその四肢は毛に覆われ、顔の輪郭がぼやけ獣化が始まっていた。


 指が短く縮んで鋭い鉤爪が生える。膨れ上がった上半身にシャツは裂けて、体毛に覆われた胸が露出した。腰は括れてアンバランスな身体は二本足で立てずに、四つ足を地面に着く。牙を剥き、身を低く構える姿は狼そのものだった。


「チッ馬鹿犬め。……まぁいいさ。必要なのは牙と血と胎だけだ。多少手足が千切れてようが子供さえ産めれば牙無しよりも高く売れる」


 ラヴィアの髪を掴んで引きずり、ニタニタと嗤いながら嘯く男に、カッと頭に血が昇る。

 獣人男じゃなくて、獣人女を誘拐する理由は、獣人を産ませるため?


「このッ……下衆が!」


 でも彼らは獣人を人間に戻す薬を作っていた筈だ。獣人を減らそうとする反面で獣人を増やそうとしているのか?


 混乱が動揺を生み、その隙を突いて死角から狼が飛びかかって来た。慌てて噛み付きを躱したが、地面に突き飛ばされて組み敷かれる。ずらりと並んだ牙が喉笛を噛み切ろうと空を切った。


 狼の喉元を掴んで身体から引き剥がそうと試みたが、獣人男の筋力に徐々に押し負け、唾液を撒き散らす牙が迫って来る。

 のしかかられ鉤爪に裂かれた服から血が滲み、生温い唾液が肩に垂れる。血の匂いに興奮しているのか、鼻をヒクつかせながら虎挟みのようにバチンと牙を鳴らす。


「くっ……ラヴィア! 君も狼なら、抵抗してみろ! そいつらの思い通りになってもいいのか!?」


 私は迫る牙を躱しながら声を張り上げる。

 一瞬でもいい。あの男の手が離れれば、ライルは見逃さないだろう。


「……無理よ。私は、アンタと違って強くないもの」


 男の失笑にかき消されそうな弱々しい返答だった。

 捕まってもなお私を睨みつけていたあの目は諦めてなんかいなかったじゃないか。だったら……。


「一緒に、彼を助けに行こう!」


「だって、彼はもう……」


「もう生きてはいないだろうなぁ……へへッ」


 無情な言葉を突き付けられて、ラヴィアの声に嗚咽が混じる。諦めに傾こうとする彼女を赦すかのように、十四夜の月の下、悲しげに笑う彼の姿が思い浮かんだ。


「……レナリスは、自分の弱さを恥じていた。自分が弱いから主人に見放されたと思い込んでいた」


『俺はただ、あの人の眷族でいたかっただけかもしれない』彼はそう言って笑ったんだ。

 もう生きてはいない? それが本当だったとしても、君の元に帰ることを望んでいる筈だ。


「本当にそうなのか? 君の都合で番にしたくせに、弱かったらいらないって見捨てるのか!?」


「……ッ! 勝手なこと、言わないでよ!! 私はレニを見捨てたりしないわ!!」


 刃が首を傷付けることも厭わず、ラヴィアは怒りに吠えた。急に暴れ出した彼女に、男は慌ててラヴィアの髪を引いたが、その隙を逃さず影から飛び出したディアナが腕に齧りついた。


 男が怯んで手を離した瞬間、闇から実体化したライルが雷を纏った強烈な右ストレートを叩き込んで沈める。呆然としているラヴィアをアンが確保したのを確認して、私も行動に移した。


 強く握り締めた短剣が激しい光を放つ。腕力は限界に達しようとしていた。最後の力を振り絞って、喰らい付こうとする狼を押し上げると、短剣の柄で横面を殴り腹を蹴り上げた。


 か細い悲鳴を上げて吹っ飛んだ狼は空中で身を翻し、再びこちらに向かってくる。短剣の鋒を向け衝撃に備えて腰を落としたが、突如真横から襲った稲光の直撃を受けて狼は為すすべも無く転がった。


「あ、ありがとう……」


 雷光に目を白黒させながらお礼を述べると、呆れきったため息が返ってきた。


「ったく、無理すんなって言っただろうが。――用が済んだらとっととずらかるぞ!」


 ライルに促され、私たちは全速力で裏路地を脱出した。

 ディアナが、私をアルの元に導いたのは、その後のことだった。

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